邂逅秘話
それはまだ桜も二分咲き程度の頃。 もう少しすれば江戸もとい、東京中の花見客が押し寄せているのではないかと思うような賑わいになる上野も、まだちらほらと気の早い者だけが訪れているだけという時期に、三遊亭宝船は茶店の縁台にのんびりと腰をかけていた。 といっても、楽隠居の道楽的な花見というわけではない。 むしろもっと切迫した状況であった。 (こないだまでの演目がいまいち受けが悪かったのは痛手でしたねえ。) 一本こっきりの花見団子を片手に、はあ、と溜息をつく宝船の顔はさえない。 当たる時は面白いほど当たるが、当たらなければ途端にきゅうきゅう。 それが芸に生きる者の醍醐味とはいえ、思い通り当たらなければやはりへこたれるものだ。 「はあ・・・」 さて、次はどうしたものか。 ぼんやりと宝船がそんな事を考えていた時。 「隣、よろしいかな?」 不意に聞こえた声に宝船はぴくっと肩をふるわせた。 驚いたわけではない。 こちらの縁台に近づいてくる男の姿は少し前から目に入っていた。 しかし声で反応してしまったのは、それが既知のものだったからだ。 「ええ、あたしはかまいませんからどうぞ。」 素知らぬふりでそう答えた宝船の横に、帽子のつばに軽く触れて挨拶をするという実にハイカラな仕草で応えた男は腰を下ろした。 そしてお茶を運んできた娘になにやら注文をする。 それを横目に宝船は茶をすすった。 娘が引っ込んでしばし、宝船と男が茶をすする音だけが残る。 と ―― 「そういえば、君は芝居を見に行くかね?」 (芝居?) 意外な言葉に宝船は内心驚きつつも、極力世間話のように「ええ、まあ。」とうなずいた。 「上野には良い芝居小屋もありますしねえ。」 「そのようだ。私はあまり芝居を見る方ではないんだが・・・一つ、気になる一座がいてね。」 「へえ?評判の一座なんですか?中村座とか、播磨座とか・・・。」 「葵座、というんだ。」 言い含めるような口調で出された一座の名に、宝船は初めて視線を男の ―― 福澤諭吉の方へ滑らせた。 思った通り紳士然とした顔にうっすらと微笑みを浮かべた諭吉に、宝船はややあってゆっくりと口の端を上げる。 「奇遇ですね。あたしもその一座は気に入りなんですよ。」 「ほう。それは奇遇だ。知り合いでもいるのかね?」 「まあちょっとした・・・。それよりその一座は特別気になるような事でもあるんですか?」 「そうだな、少し・・・面白い話を聞いてね。」 「面白い話?」 「ああ。君は・・・」 そう言って言葉を切った諭吉は、実に底知れぬ笑みを浮かべて言った。 「人が魔を祓う神器になる、なんて話をどう思うかね?」 (・・・あの時はさすがの福澤先生もどうかしちゃったのかと思いましたけどねえ。) 高座を一つこなした帰り道、宝船はしみじみとそう思った。 少しばかり以前の早春、福澤に「葵座の役者達は皆、魔を祓う神器になれるらしい」なんて話を聞いた時にはあまりの荒唐無稽さに目を剥いた。 これが普通の噺家仲間なら滑稽話と笑い飛ばせるのだが、あの福澤が持ってきたということに宝船はとまどった。 葵座の面々によく言われるように宝船は噺家としての一面だけでなく、情報屋としての一面も持っている。 そういうところを福澤はかってくれていて、時折ああして宝船に調べてほしい情報を間接的に流してきたりするのだが、今回ばかりは冗談じゃないかと疑ったものだ。 ただ、あの時は持ちネタがふるわず、この際ネタになるのなら、とほんの気まぐれで久々に葵座の公開稽古をのぞいてみる事にしたらば・・・これがびっくり。 稽古中だというのに舞台上に見たこともない洋服を着た少女が飛び出してきたのだから。 しかもその少女を見て福澤の話と合わせて創作した話が、驚くことに実態にぴったりときた。 裏紋の事件で伊賀へ行く道行きにその事を知った時には宝船自身実は驚いたものだ。 もっとも顔には出さなかったが。 (あの家紋の力、とやらに福澤先生は興味がおありだったんでしょうねえ。) 実際、宝船がまんまと葵座一座にくっついて旅に出てからこちら、定期的に福澤の配下の小物が接触してきていた。 だからその時々に応じて宝船は情報を流していたのだ。 ま、どうせ剣助や七巳は宝船が伊賀行きにくっついて行ったのも、誰かに情報を流すためだと読んでいるだろうし、それを踏まえて宝船を同行させたのは逆に何かを掴もうとしたのだろう。 葵座の面々には裏事情に通じている事は知られているし・・・と、思っていた。 そこまではいつもの事だったのに、それが、変わったのはいつからだったか。 『ホウセンさん!』 不意に楽しそうに笑う少女の顔がよぎった。 宝船が嘯いた話の主人公であり、まさかの創作そのままの事情をもった双葉葵の姫御前・・・こと、水戸葵の顔が。 (・・・ほんとに、不思議なお人ですよ。) 葵は明治の女性にあるまじき元気さで無邪気に笑い、思うがままに突き進む。 その天真爛漫さは彼女を年より幼く見せるが、その反面人を気遣う時に見せる憂い顔は見る者を切なくさせる。 (素直なんでしょうねえ、良くも悪くも。) それなりに頭が切れるところも見せるわりに、葵は基本的に人を信じる。 最初は葵の育った時代の違いかと思ったが、どうもあれは葵の性格らしいと思い始めたのは、ただの通りすがりから旅の道連れに変わった頃か。 たぶん、情報を流す事がやりにくくなったのも、その頃からだ。 (どうも、ね。) 葵座の面々にあれほど宝船は怪しいと言われながらも、葵ときたらまるで疑っている様子がなかった。 というより、宝船が自分たちに害をなすような事はしないと信じている、という風情で。 それに気づいてしまってから、福澤の配下へ情報を渡す時、ちらりちらりと葵の顔が浮かぶようになってしまった。 正直、福澤が葵座の情報を集めて何をする気なのか、宝船にはさっぱり見当が付かない。 そしてかなりの高確率で、それはあまり葵座にとって良い方向の影響は及ぼさないだろう。 情報屋はその情報が流れていく先は考えないのがコツ。 だというのに、気が付けば宝船は福澤の動向を気にするようになっていて、そして・・・。 ―― ふっと、宝船は口の端を上げた。 ついさっき、例のごとく接触してきた福澤の配下に言った事を思いだしたからだ。 『―― 申し訳ないんですが、葵座のお話しはこれで打ち止め、と先生に伝えて下さいな。』 そう言った時の配下の顔が驚いたようなものだったのは、福澤が今回の情報へ提示した金額がかなりの額だったからだろう。 宝船のような情報屋が喜びこそすれ、断るような金額ではなかった。 けれど、惜しいとは思わなかった。 別に懐が温かいわけでもなかったけれど、これで葵座の面々の、葵の前に堂々と立てるという思いの方が強かった。 今までの事がどうはね返ってくるかはわからないけれど、とにかく今後はあの無条件に寄せられる信頼に応えることができる・・・それだけでなんだかすっきりした。 「このあたしにまで、そう思わせるなんて、さすがは双葉葵の姫御前。」 久しぶりに金銭より人情を優先させるなんて真似をして、少しばかり気恥ずかしくて宝船はそれを誤魔化すようにそう呟いた。 と。 「おや、あれは・・・」 噂をすればなんとやら。 滞在している門前町の近くまで戻って来たところで、小さな御稲荷さんの境内に矢絣袴の少女の姿を見つけた。 手に台本を握りしめて、なにやら木に向かってぶつぶつ言っている姿に、自然と宝船の顔に笑みが浮かぶ。 宿を目指していた足を葵の方向へ向けて、宝船は声をかけた。 「若い娘さんが木と会話、なんていい見せ物ですよ。」 「!ホ、ホウセンさ〜ん!」 宝船の声にぱっと顔を上げた葵は、歩いてきた宝船を見て最初は驚いて、次にへにょっと眉を下げた。 そのいかにも「困ってます」と書いてある顔に宝船は苦笑する。 (次の舞台は八百屋お七だって言ってましたっけ。) 葵座に同行するようになっていくつか舞台を踏んだとはいえ、まだまだ芝居は苦手らしい葵のことだ。 初の看板で覚える台詞の量も今までとは比べものにならなくて苦戦しているといったところか。 「おやおや、何を泣きそうな顔をしてるんですか。」 「だって〜・・・ううう、カクさんたちが大変だからっていうのはわかってるんだけど、この台詞の量・・・」 呻いて恨めしげに台本を見る葵に思わず笑いが零れてしまう。 なんだかんだ言いながら、葵はきっとこの台本も淋の厳しい稽古も投げ出さないだろう。 そういう所が、宝船には少し眩しい。 でも。 「はいはい、わかりました。読み合わせのお相手ぐらいならあたしでもできますからね。」 「手伝ってくれるの!?ありがとう!!」 わざと仕方ない、という顔でそう言うと葵はぱっと嬉しそうに顔を輝かせた。 屈託のない、信頼を寄せられた笑顔・・・昨日までは少し苦手だった笑顔。 でも、今はとても心地よく感じられて。 「・・・まったく、たいしたもんですよ。」 「?何か言った?」 「いいえ、なんでも。」 きょとんっと聞き返してくる葵に首を横に振って答えると、わざと意地悪く言ってやった。 「さあさ、早く読み合わせでもしましょう。でないとまたリンさんに怒られますよ。」 「わ〜!」 「あ、あたしは台本持ってないので一緒に見せて下さいね。」 「うん、わかった!じゃ、ここからね・・・」 詰まっていたらしい箇所をさして読み始める葵を横目に、宝船はこっそりと笑った。 ―― 自分を変えてしまったこの姫御前の行く末を、じっくり見守るのも悪くないと思いながら。 〜 終 〜 |