「もう実家に帰らせていただきますっっ!!」 東京は上野の片隅、最近何かと話題の新進気鋭の噺家、三遊亭宝船の家にそんなお約束の怒号が響いて ―― 実家に帰らせて頂きます! 「・・・・なんでお前がここにいるんだよ、セン。」 『みよしの』の座敷で、いかにもぷりぷりした様子でお茶を啜っている宝船の姿に、七巳は心底呆れた様に呟いた。 「あ、ナナミの親分〜。聞いて下さいよ、こいつ、家出してきたとかバカな事言ってるんすよ。」 「あ?家出?」 「ハチ!余計な事を言わないで下さいな!」 『みよしの』の店主、密の出した湯飲みを握りしめた宝船に不機嫌そうにそう言われて、陽太は「なんだと!?」とにわかにいきりたつ。 「てめえがいきなり飛び込んできて、わけわかんねえこと言ってるからいけねえんじゃねえか!」 「わけがわからない事なんて言っていないですよ!あたしはただ葵に断固抗議すべく家を飛び出して『実家』に帰ってきたってだけです!」 「・・・・十分意味がわからんぞ、セン。」 陽太に対してやけに堂々と胸を張る宝船の言い分に、端で聞いていた七巳は思わずそう突っ込んでしまった。 「まあまあ、そう言ってやるなよ。・・・・なんだか面白い事になっていそうだろ?」 とはいえ、このまま通り過ぎて賭場へ行くには弟分が少々可哀想なので、億劫そうに座敷に腰掛けた七巳に、近くにいた剣助がにやにやとそう言った。 そのおもちゃを前にした猫のように細められた眼を見て、煙管に火を付けながら七巳は苦笑した。 「ケン、新所帯をからかいの種にすると後で自分が痛い目みるよ?」 「別にからかってなんていないさ。我らが双葉葵の姫御前を射止めた憎き戯作者の不幸を楽しんでるだけだよ。」 冗談交じりに剣助その言うことも一理あって、七巳は苦笑を深くした。 双葉葵の姫御前こと、昨年、七巳達葵座が守護してきた双葉葵が化身して現れた水戸葵。 最初は戸惑っていた葵座の面々も、明るくて前向きで芯も強い彼女に多かれ少なかれ好意を抱いていた事は確かだった。 しかし彼女が選んだのは意外にも葵座の面々ではなく、情報屋として葵座に関わっていた宝船だった。 まあ、宝船と付き合いが長い七巳としては根が悪い奴でないことぐらいはわかっていたので、祝福はしているが、それでも鳶に油揚げ感は否めなかった。 というわけで、その葵の心を見事かっさらっていった宝船がちょっとばかり苦戦しているのなら、見物してやろうぐらいの意地の悪い考えも少しはわかってしまうのだ。 それにしても。 「・・・・ここはホウセンさんの『実家』じゃないんだが。」 「おお!?猿飛。」 呟きとともに目の前の机に湯飲みがおかれて、思わず七巳は驚いた声を上げた。 そんな七巳に軽く会釈して密は、ふうとため息をついた。 「諏訪さん、どうにかしてくれ。」 このまま不機嫌垂れ流しで宝船が陽太と喧嘩していては『みよしの』を開けようにもあけられない、と目で訴えてくる密に七巳は肩をすくめる。 「どうにかって言われてもなあ。こういうのが得意なのはオトヒメかキノヒメじゃないのかい?」 「二人とも使いに出してしまったんだ。」 「むしろ、キカクやリンも出かけててよかったんじゃないか?」 確かに双葉葵の信奉者である鬼格が宝船と葵が喧嘩したらしいなんて聞いたらえらいことになりそうだし、淋はそういうごちゃごちゃした話は嫌いなので一喝してさらに場が混乱しそうだ。 「・・・・はあ。」 あまり歳は変わらないはずなのに、少々老けてしまったようなオーラを醸し出す密に七巳は苦笑して言った。 「まあ、どうにかできるかはわからないが、話しぐらいは聞いてやるかね。おーい!セン。」 「なんです!?」 今の今まで無言で陽太とにらみ合っていた宝船は、七巳に名を呼ばれてキッと振り返った。 その反応だけで思わず吹き出しそうになって、七巳はなんとか堪える。 こういうある種素直な反応をこの男がするのを見たのは、かれこれ何年前になるだろう。 「菩薩殿は偉大だねえ・・・・じゃなくて、だ。お前、なんでこんなところで陽太に当たってるんだ?」 「当たってなんかいやしませんよ。さっきも言ったでしょう?あたしは葵に断固抗議すべく、ここへ来ているだけなんです!」 ふんっと鼻息も荒くそう言う宝船に剣助と七巳は顔を見合わせる。 「さっきから何度か言ってたけど、抗議って何を抗議するんだ?ホウセン。」 「決まってるじゃないですか!」 そう言って宝船はぐっと湯飲みを握る手に力を入れる。 そして一息に言った。 「葵の警戒心の無さについてですっっ!!」 「・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・」 (((本当に痴話喧嘩だな))) 宝船の宣言を聞いた瞬間、座敷にいた三人の頭に同じ言葉がよぎったのは必然であろう。 ちなみに、この瞬間まで七巳と剣助は七割方そうだろうと予想していたが、陽太は本気で自分が当たられている意味がわかっていなかったが、それもめでたく解消されたようだ。 「警戒心ねえ。」 ふう、と言葉と共に紫煙をはき出した七巳を横目に剣助が笑う。 「まあ、確かに元双葉葵ちゃんにはないな。」 「そうでしょう?」 我が意を得たりとばかりに大きく宝船は頷いた。 「あの人はどんなに言い聞かせても自分が魅力的なんだって事をちっともわかっちゃくれないんですよ。もちろん毛色が違うっていうのもありますけど。」 「毛色が違うってなんだよ。姫さんは可愛いじゃん。」 「ほら。ハチ、あんたに言われるまでもないですよ。葵は可愛いんです。魅力的なんです。」 「・・・・ただの惚気なのに、なんでそんな堂々と言い切れるんだか。」 明らかに呆れた一言を七巳が呟いた、ちょうどその時。 「何を恥ずかしい事言ってるの−!!」 すぱんっと『みよしの』の戸が開く音と共に、矢絣袴の少女が飛び込んできた。 「葵!」 驚いたように宝船に名を呼ばれた少女・・・・こと、件の葵はどこからか走って来たのか上がった息を整えるように深呼吸した。 もっとも、頬が赤いのは飛び込んできた時の台詞と合わせると、走ったせいばかりではなさそうだが。 「・・・・何をしに来たんですか。」 前触れもなく葵が飛び込んできた驚きから立ち直ってそんなぶすくれた台詞をはく宝船に、葵は困ったように眉を寄せた。 「何って、だってホウセンさんが『実家に帰らせていただきます』って叫んで飛び出していったから。でも、ホウセンさんの『実家』ってどこだか全然わからなくて探したんだよ?」 「・・・・だから、ここはホウセンさんの『実家』じゃないんだが。」 「あ、旦那。ありがとう。」 そっとツッコミながらも差し出された湯飲みを受け取って葵は中味を飲み干す。 湯飲みの中味が走って来た葵に合わせて冷えた水だったりするあたり、密の気配りが垣間見える。 閑話休題。 ともかくそれで一息ついた葵は改めて座敷の奥でつーんっとしている宝船に向き直ると、すっかり愛用になったブーツを脱いでずいっとにじり寄った。 「あのね?まだ怒ってる?」 「・・・・・」 無言でにじり寄ってくる葵から顔を逸らすのを肯定とうけとって、葵は軽くため息をついた。 「セイジは友だちなんだから、別にホウセンさんが心配するような事は何もないよ?」 言い聞かせるような口調で葵が宝船に語りかける言葉を聞いて、座敷の野次馬三人はひそひそと囁き合う。 「ああ、セイジと出かけたのか。」 「そりゃあ、ちょっとホウセンの気持ちもわかっちまうかも。」 「ふう〜・・・・セイジは素直な天然だからなあ。」 ある意味、宝船とは対象的な青年を思い浮かべて三人は思わず納得してしまう。 今は葵座に所属している誠司はそれまでの生い立ちの薄幸さも合わせて、いかにも女心をくすぐりそうな青年なのだ。 確かに葵と誠司は普通の友人のように仲は良いが、誠司が葵に特別な想いを寄せているのは一目瞭然でそんな相手と自分の妻が出かけたとあっては少々穏やかでないのも理解出来なくもない。 「・・・・だったら、何もあたしに内緒で行く事はないでしょう?」 不機嫌そうな宝船の抗議に、これまた野次馬は苦笑い。 どうやら葵は誠司と出かけるのを宝船には内緒にしていたようだ。 それが発覚してこの事態。 「あー、だからそれは・・・・」 「それは、何です?」 「う〜〜〜。」 攻め手が一転、ジトッとした目で宝船に見られて葵が困ったように呻く。 その葵らしくなく煮え切らない態度に宝船の心の内に苦い感情がわき起こる。 まただ、と。 そもそも宝船が家を飛び出すきっかけになったのも、誠司と知らぬ間に出かけていた葵にそのことを聞いた時、どうやっても理由を言わなかったからだ。 葵の気持ちを疑っているわけではない。 別に誠司と葵が浮気していると本気で思ったわけでもない。 でも、それでもわき上がってくる感情が抑えきれなかったのだ。 そんな事を考えていたら、知らぬ間に顔に出ていたらしい。 目の前で葵の眉がハの字になったかと思うと、観念したように葵は大きくため息をついた。 「・・・・驚かせようと思ってたけど、これじゃ逆効果だよね。」 「葵?」 何を言っているのだろう、と首をかしげる宝船に、葵は座り直すと言った。 「誠司と出かけた理由。あのね、実は英語の本を探しに行ってたの。」 「へ?」 葵の口にした意外な理由に、宝船はきょとんとしてしまった。 そんな宝船を前に、葵は少し言いずらそうに続ける。 「その・・・・け、結婚して、ホウセンさんは着物とか色んな物をくれたでしょ?でも、私は何もあげてないなって思ったら、何かプレゼントしたくなったの。それで、いろいろ考えたんだけど、ホウセンさん、海外の事にも興味あるみたいだったし、簡単な英語の本なら私が読んで教えられるからいいかな、と思って。」 宝船さん、本好きだし・・・・とだんだん小さくなっていく言葉にこれまた宝船は驚いた。 葵と一緒になって、彼女の着物やら身の回りのものやらを用意したのは確かだが、それはそもそも身一つで明治にやってきた葵だから必須ともいえる準備だったから。 それにまさか葵がお礼を考えてくれるなんて思ってもみなかった。 しかも、さらに重ねて言いずらそうに。 「それに・・・・英語の本、一緒に読んだりすればそれだけ、側にいられるかなあ、なんて・・・・」 完全に目線を逸らして独り言のようにそう言った葵の顔はすっかり赤く染まっていた。 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 「あ、えっと、だけど私もものすごく英語が得意ってわけじゃないから、誠司に手伝ってもらって探しての。そういうわけで、ホウセンさんには理由は言いにくくて・・・・わあっ!?」 言っている途中でいきなり葵の声がうわずったのは、唐突に宝船が葵を抱き寄せたせいだ。 「え?え?ホ、ホウセンさん?」 「まったく、あんたって人は・・・・!」 はああ、と耳元で深いため息をつかれて、葵は目を白黒させる。 さっきのように不機嫌というよりは、どこか力の抜けていくようなため息は何を意味しているのか掴みかねたから。 けれど、継いで聞こえた宝船の声は僅かばかり自嘲的だったものの、さっきまでの棘はなかった。 「そうやって無自覚に人を振り回して。本当に目が離せませんよ。」 「振り回してなんかいないよ!?」 「・・・・はあ。」 「ため息!?」 なんで!?と驚く葵を抱きしめる宝船の腕がちょっとだけ緩んだ。 そして、額を合わせるような位置で葵と目を合わせて言った。 「あんたがそんなだから、あたしはいつも余計な心配をしちまうんです。」 「そ、そんなって・・・・」 「あんたはいつだって無邪気で真っ直ぐで人を惹き付けるお人です。舞台の真ん中でみんなの目を惹き付けるように、舞台を下りたってあんたは主演女優だ。本当ならしがない噺家のあたしに手が届くような人じゃない。」 「そんな事ない!」 自分を一段貶めるような物言いに、葵はぎゅうっと宝船の袂を握って首をふる。 その一生懸命な様子に宝船は緩やかに相好を崩した。 「あんたはそう言ってくれるでしょうね。でもあたしから見ればそういう事なんですよ。だから、いつも葵座の皆さんみたいな舞台の上の人達に妬いてばかりだ。」 「妬いてって、ホウセンさんが?」 「そうですよ。そうは見えませんでした?」 そう問われて葵はこくんっと頷いた。 そんな葵に、宝船は自嘲気味に苦笑する。 「それじゃあ覚えておいてくださいな。いつだってあたしの奥方は魅力的で、旦那は気が気じゃないんだってことを。」 「あ〜、う〜、・・・・はい。」 自分で肯定するのは恥ずかしいのか、目線を泳がせて、それでも葵がこくん、と頷いたのは宝船を安心させるためだとわかるから。 そんな葵が可愛くて、宝船はまたゆっくりと距離を詰める。 「葵。」 「ホウセンさん・・・・」 甘さを含んだ声に、葵の瞼がそっと落ちかけた ―― その時。 ばさっと、終了のお知らせと言わんばかりに視界を黒い何かが遮った。 そして。 「―― はい、続きは自分の家でやんな。」 からかいの滲んだ剣助の声に、はたと葵は気が付いた。 ここは『みよしの』。 そして目の前にあるのは、多分、剣助の帽子で・・・・・・・。 「・・・・ケンスケさん、野暮はよしてくださいな。」 「いやあ、俺としても本当ならしたくないけどねえ?そこで密が困り果ててるのと、陽太から漏れてる殺気がそろそろ洒落にならなくなってるからさ。」 剣助の言葉通り、座敷の背後から何とも言えない気まずい空気が漂ってきて。 「っっっっっっ!!!!」 ―― 直後、声にならない葵の悲鳴が響き渡ったのだった。 「あ〜・・・・やっと帰ったか。」 大混乱の葵をなんとか宥めて、すっかり仲睦まじい様子にもどった宝船と葵が手を繋いで帰って行く様を見送りながら、七巳は煙管をほわっとふかす。 「たく、ホウセンの奴。人騒がせな野郎だぜ。」 「いいじゃないか、ハチ。おかげで真っ赤な元双葉葵ちゃんも楽しめたし。」 すっかり八つ当たりの対象にされて憤懣やるかたない陽太の横で、成り行きを一番楽しんでいた剣助が笑う。 その後ろで、やっとこさ店を開ける準備に入る事ができた密が、ぽつり、と呟いたのだった。 「・・・・だから、ここは『実家』じゃないんだが・・・・」 〜 終 〜 |