いつでも君にはかなわない



廊下で足音がした時から、葵だな、とわかっていた。

時節は2月。

正月の行事やらなんやらで華やいでいた1月が過ぎると、さすがの花の東京は上野といえど落ち着いた雰囲気になる。

この時期ばかりは世間に陽の力をもたらす役目をもつ葵座といえど休業状態。

幸い、暮れの騒動解決以後、裏紋の事件も起こることなく、葵座の面々は本拠地「みよしの」でのんびりとした時間を過ごしていた。

もちろん、座長の剣助もその例に漏れず、自室の手あぶりの前でぼんやりと次回公演の台本を捲っていた。

そんな折り、耳をくすぐったのが件の足音だ。

人より感覚が鋭く、長い時間生きている剣助にとっては遠くからでも足音を聞き分けるなど容易い芸当である。

まして相手は幾多の苦難も乗り越えて、自分の手をとってくれた恋人の葵となれば、意識しなくても自然と聞き分けてしまえる。

(またバタバタしてるな。)

この時代の女性の足音にしては、考えられないぐらい元気なそれに、自然と剣助の口元が緩んだ。

「みよしの」の裏口から廊下をパタパタと走っていく、その方向は台所だろう。

「・・・・そういや、オトヒメに買い物頼まれてたっけか。」

妹のように可愛がってくれる乙姫や甲姫によく懐いている葵は、二人の手伝いも喜んでこなす。

まして、今は公演もないから二人も遠慮なく葵に構えるのだろう。

ここ数日はしょっちゅう乙姫甲姫に葵をとられてばかりの剣助は、苦笑しながら台本の頁を捲った。

そんな頭の片隅で、誘ってくれればいくらでも買い物ぐらい付き合ったのに、と思う自分がいてさらに苦笑が深くなる。

(買い物を頼まれてたのは知ってるんだから、一緒に行くといやあいいだけなんだがな。)

なのにどうやら自分は葵が誘ってくれなかった事を拗ねているらしい。

年甲斐もなく、と思えば呆れるしかないが、こと葵の事となると調子が狂いっぱなしなのはもう諦めるしかないのかもしれない。

「・・・・まったく、俺ばっかり惚れてるみたいだねえ。」

思わず零した呟きが多分に揶揄を含んでいたのは、さすがに、そればかりではないとわかっているせいだ。

何せ、葵は自分が生まれ育った時代も、大切な家族や幼なじみよりも、剣助を選んでこの時代に残ってくれた。

そんな重い選択をしてくれた葵が、自分を想ってくれていないはずはないと剣助にもわかっている。

だから、本当に些細な不満なだけだ。

どうも自分ばかり葵に構いたがって、葵の方は剣助がいなくても平気そうに見える・・・・なんて事はない、んだろう、多分。

「・・・・・・はあ。」

ややあって、はき出したため息が妙にわびしく聞こえたのもきっと気のせいだと思い切ることにして、剣助はまた台本の頁を捲った。

と、下の階で再び葵の足音。

(?用事は終わったのか?)

台所の方から出てきた足音は、パタパタと軽く響いて階段の方へ。

なんだか急いでいるような、その音に剣助は少し首をかしげる。

たんたんと階段を踏む足音は、軽やかな楽の音のように聞こえて、なんとなく聞き入っていると二階の廊下へ到達した葵の足音が今度は近づいてきた。

「?」

てっきり自分の部屋へ向かうのかと思っていた剣助が、おや、と思っていると、あっというまに剣助のいる部屋の表まで足音が来て。

「・・・・スケさん、いる?」

控えめな呼びかけに、剣助の口元が自然と緩んだ。

「ああ。入れよ。」

「お邪魔します。」

なんとなく振り向かずに応えると襖が開いて、葵が入ってきた気配がした。

そして。

「おかえり。どうし」

た?と話しかけながら振り向こうとした、その時。

―― ぽすん、と背中に重みがかかった。

「!?」

その感触にすぐに葵が背中に抱きついたのだ、と言うことはわかったが、その途端、剣助は我知らず目を丸くしてしまった。

何せ葵が何もない時にこんな風に剣助に触れてくるのは初めてだ。

模しただけの鼓動が、不自然にどくんっと揺れて、動揺にほんの少しの間だ言葉を失う。

けれど、すぐに今が「何もない時」なのか、という疑問が浮かび上がって、華やぎがかった心に影を差した。

(何かあった、か?)

一人で出かけた先で、嫌なことでもあったのだろうか。

それとも何か寂しくなるような事でも・・・・。

「・・・・アオイ?」

そんな一抹の不安を抱えて呼んだ彼女の名には、僅かばかり探るような響きがあった。

が、その答えは。

「ん〜、何?スケさん。」

・・・・という、いたって普通、否、どこかほやっとした暖かさささえ感じさせるもので。

(・・・・これは、どういう状況だ、一体。)

久々に真面目に反応に困ってしまう。

いや、嬉しい。嬉しいのは嬉しい。

なんせさっき、自分ばっかり好きな様で云々と拗ねていたばかりだ。

しかしそれが故に、返ってこの事態を都合のいい方へ解釈しているような気がして・・・・。

(俺・・・・実は女慣れしてなかったのか?)

一瞬、そんな事を思ってしまったが、そんなはずはない。

長年人を模して生きて舞台なんて派手な場に立っていれば、女に騒がれることだってあった。

舞台や裏紋の調査の為に女を上手く扱えるようになったのも、もう大分昔のことだ。

という自負はあったはずなのに、たった一人の、しかもまだ少女から抜け出したばかりの娘の前でどうしていいかわからなくなるとは。

(いや、違うな。アオイ慣れか。)

他の女なら定石通り動くだけだが、葵相手となると、彼女の心情やら自分の気持ちやらが働いてちっともその通りに動けないのだ。

だから今だって、こんなちょっとした事で動揺しているなんて・・・・と剣助がため息をつきかかった、ちょうどその時。

「・・・・ふふっ。」

背中から耳をくすぐる笑い声が聞こえて、剣助は視線を背に向けた。

「アオイ?何笑ってるんだ?」

動揺しているのがばれたのだろうか、と一瞬ひやっとした剣助だったが、どうもそれは違ったらしい。

剣助の背中に抱きついたまま、葵はくすくすと笑いながら言った。

「スケさん、暖かいなって。」

「は?」

「今ね、お使いに行ってたんだけど。」

「ああ、オトヒメに何か頼まれたんだろ。」

「うん。それで近所まで買い物に行ったんだけどね、外が雪が降りそうなぐらい寒いんだよ。」

「へえ、そうかい。」

言われて見れば、障子窓の向こうは曇天だ。

「そりゃ寒かったな。」

「うん、すっごく。」

しっかり頷く葵の仕草がまるで子どものようで思わず笑ってしまいそうになっていると、葵がさらに言葉を継いだ。

「それでね、寒いなーって思って歩いてたら、思い出したの。」

「?何を?」

「よくスケさんが言ってる言葉。私があったかいって。」

「ああ・・・・」

葵の言った言葉には覚えがあった。

まだ自分が神器そのものだと明かす前から、葵に触れるたび剣助が言っていた言葉。

双葉葵の化身であるはずの葵は、いつでも柔らかくて暖かくて、抱きしめたら離したくなくなるぐらい心地よかった。

もちろん今もそれは変わらないのだが、と思っていると葵の手が剣助のお腹へ回って、ぎゅうっと抱きついてくる。

「それを思い出したらね」

そう言う葵の声はほんの少しだけ恥ずかしそうに揺らいで。
















「・・・・私も、スケさんに触りたくなっちゃった。」















「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

―― なんというか、もう・・・・勘弁して欲しい。

(何だ、この・・・・)

この

(・・・・可愛い生き物。)

七巳あたりなら同意してくれそうだが、それ以外には白い目で見られそうな事を思いつつ、剣助は頭痛でも堪えるように額に手を当てた。

正直、眩暈の一つぐらいしていた気もする。

なんせ、400余年生きてきて、こんなに ―― 愛しい瞬間は初めてだ。

「・・・・・はぁ。」

「え?何?駄目?」

思わずはき出したため息を呆れられたととったのか、慌てたような声を出す葵にばれないようににやけた口元を無理矢理苦笑に切り替える。

そうして。

「え、わっ!?」

抱きつかれていた手を取って振り向き様に引っ張れば、転がり込んでくる小さな体。

その体を難なく受け止めて、可愛らしい耳もとへ唇を寄せる。

「そんなに俺に触りたかったなら、背中からなんて遠慮しないでいいんだぜ?」

「ひゃあっ!」

わざとらしく艶めいて囁いた声に悲鳴をあげる葵はきっと気が付いていないだろう。

みっともなく赤くなった頬を見られないように、剣助が葵を引き寄せたことなんて。

だから。

「う〜、せっかくスケさんを驚かせてやろうと思ったのに。」

腕の中で耳まで真っ赤にして呻く葵に、こっそり剣助は苦笑した。

(思い切り驚いたけど、な。)

ぎりぎり護られた男の矜持にほっとしながらも、剣助は葵の髪を指先で弄ぶ。

「・・・・お前はほんと、すごいよ。」

「え?何て言った?」

「いや?それよりさ」

本心から零れた言葉は上手く惚けて、見上げて来た葵に向かって剣助は婉然と微笑んだ。

「そんなに寒くて、俺に触りたいと思ってくれたんなら、暖めてやるのが恋人の勤めってものだよな?」

―― さあ、ここからは反撃の時間。

きょとん、とした後、一気に顔を朱に染め上げる愛しい恋人に、剣助は迷わず唇を重ねたのだった。











                                                      〜 終 〜
















― あとがき ―
人生経験豊富で余裕ぶってる奴が実は振り回されているってシチュエーションが大好物です(笑)