惚れたが負け



それはちょっとした出来心だった。

嘘じゃない!下心なんて別にっっ!・・・・な、くはなかったかもしれないが・・・・。

・・・・そもそもあいつが、その、好きだって確かめ合って、口付けもしたはずなのに、相変わらず変わらないから・・・・。

い、いいい、いや!と、とにかくっ!

ただ、俺は少しぐらいあいつの、葵の困ってる顔を見てみたいぐらいのつもりだったんだ!

俺ばっかり振り回されてる気がするとか思ってないからなっっっ!!

それが、まさかあんな・・・・ ――















―― 事の起こりは四半刻ほど前のことだった。

現在滞在中の日光の定宿で、次の舞台の主役を務める水戸葵と荒銀淋は台本の読み合わせをしていた。

読み合わせと言っても、ただ向かい合って台本を読む、というわけではない。

「『吉佐様・・・・そこにいらっしゃるのですか?ああ、吉佐様・・・・っ』、ほら復唱。」

「う、うん!『吉佐様・・・・そこにいらっしゃるのですか?ああ、吉佐様・・・・っ』?」

「最後を疑問にするな!」

復唱は成功したものの、最後は自信なさげに語尾を上げた葵に、淋は眉間に皺を寄せる。

「ええ、だって一回で覚えるの難しいんだよ〜。」

ううう、と呻く葵に淋は小さくため息をついた。

「しかたがないだろ。お前が台本をそのまま読めれば問題ないんだ。」

「ぐっ!だ、だって!・・・・台本、達筆なんだもん。」

葵の抗議は、本来であればおかしな話だ。

というのも、台本、のやりとりでわかるように、今二人が読んでいるのは、あくまで芝居の台本であり、量産されたものなのだから、特別な筆致で書かれているわけではない。

だから、普通は読めて当然なのだ。

普通の、この明治六年のご時世を生きる庶民であれば。

しかし、葵は『普通』ではなかった。

もちろん、性格が変とかそういう話ではない。

葵はこの明治六年の生まれではない・・・・遙か、百四十年先の世の生まれなのだ。

今年の四月に淋の所属する葵座が守護していた双葉葵の化身として、この明治に降り立つまで葵の暮らしていた時代では、このような毛筆はあまり主流ではなくなっていたらしい。

それゆえに、いくら量販とはいえど明治六年の台本は葵にとってはもはや読めない言葉の羅列に近かったのだ。

とはいえ、舞台に立つのに台本を覚えないわけにはいかない。

というわけで、読み書きは練習しつつも当座の間は誰かが読んで見せて葵が復唱するという手段で台本を覚えているのが現状だった。

「はあ・・・・それにしても台詞多いね。」

いつも元気で明るい葵だが、さすがにめいったように台本を見下ろす姿に淋は「当たり前だ」と素っ気な返す。

「主役だからな。」

「そうだよね。ううう、分かっていたとはいえ・・・・。」

そう、葵と淋の手元にある台本は『八百屋お七』。

今までは舞台慣れしていない葵の事も考慮して端役や演舞などをやっていたが、今回はのっぴきならない事情のためにこの配役になってしまったのだ。

それが守杜村で鬼格と陽太のまさかの血縁関係が発覚してしまった事だ。

家紋の力で裏紋を成敗する役目を担った葵座としては、陽太が神器として新たな戦力に加わったのはありがたかったが、旅一座葵座としてはこれが予想外の痛手になった。

もともと器用ではない二人がぎくしゃくしてしまって、それゆえに役者として舞台に上げられなくなってしまったのだ。

となると、残る役者は剣助、七巳、淋、葵の四人だけ。

結果、『八百屋お七』の演目が選ばれたのはある意味自然だっただろう。

とはいえ、空で覚えていくのには、主役の台詞はなかなか多い。

今日は淋も手伝って台詞の稽古をしていたが、さすがに一刻もやっていて集中力が切れてきたのか、ここへ来て、はああ、と葵は大きなため息をついた。

それを横目に見ていた淋は、ぱたんと台本を閉じる。

「リン?」

「しょうがない。休憩にしてやる。」

「!」

稽古嫌いというわけではないが、休憩と言われると嬉しいのだろう。

ぱっと輝いた葵の笑顔に、淋の胸が小さく跳ねる。

(・・・・っ)

台本を覚えるために二人で並んで一つの本を覗き込んでいただめに、至近距離で葵の笑顔を見てしまった淋は思わず息を飲んだ。

そして無意識に葵に触れようとして伸ばした手は・・・・。

「あ!そうだ!」

ぱっと葵が立ち上がったことで見事に空を切った。

「旦那が休憩するならお菓子があるって言ってたんだ!ちょっともらってくるね。」

嬉しそうにそう言った葵はこの時代にしてはちょっとはしたないぐらいに元気に部屋を飛び出していく。

そして・・・・後に残された淋は、葵の手に触れかけたまま固まっていた自分の手を静かに握りしめて。

「・・・・・・・・・・はあ。」

重いため息を落とした。

(ああ、くそっ。なんか上手くいかない。)

実は、それがごくごく最近生まれた淋の悩みだった。

ごくごく最近、淋は葵と恋人同士になった。

思い出すと脳みそが沸騰しそうになるが、諸々の事情で故郷の銀の里へ向かう最中、思いがけず気持ちが爆発してしまって葵に口付けてしまったのが七月。

それから周りがめまぐるしく動いていたというのもあるが、葵への気持ちを口に出せぬまま一月あまりがたってしまったのだが、先日、やっと想いを告げる事が出来た。

僥倖な事に、葵もその気持ちに答えてくれて、晴れて想いが通じた者同士・・・・になったはずなのだが。

(・・・・あんまり変わらないんだよな。)

そう、変わらない。

まあ、いくら恋人同士になったといえど普段は大所帯の葵座にいるのだから、大ぴらに態度を変えるわけにはいかないとは思っていたのだが、思っていた以上に葵と淋の関係は以前のままだった。

もともと歳も近くて、生真面目で俺様な淋と明るくも気が強い葵はしょっちゅう言い合いをしたりしているのが普通だったが、まさにそのままなのだ。

百歩譲って、みんながいるところでそうやっているのはいい。

別に淋だって人に見せつけたいとは・・・・・・・・・・ちょっと葵は俺の物になったんだ、と主張したい瞬間がないではないが、実際にするにはまだ羞恥が先に立つ。

しかし朝から一刻も二人きりで顔をつきあわせて台本読みをしていて・・・・甘い雰囲気の一つもないというのはどうなのだろうか?

ついでにいうなら、『八百屋お七』は恋愛物で愛しい人を恋う気持ちの台詞などすでに何度も読んだというのに。

「・・・・意識してるのは俺だけか?」

心の中で思っていた事を口に出したら、なんだかお七に強く想われる吉佐がちょっと憎らしくなって、淋は台本を机の上にぺちっと放った。

そして眉間に皺を寄せたまま、背中を壁にぶつけるようにして寄りかかる。

(あいつはどうなんだろう。)

ふっと、さっき見た葵の笑顔が頭に浮かんで、またとくっと鼓動が聞こえた。

一度目に口付けてしまった時は、頭の中が真っ白で、ただ葵に触れたいという衝動だけが強かったから良く覚えていない。

でも二度目に、想いを確かめてした口付けの甘さは今思い出しても頭の芯が痺れそうだ。

(それぐらい・・・・幸せだった。)

触れた葵の柔らかさも暖かさも、何もかもが愛おしくて嬉しくて。

その感情があまりにも大きかったからか、あれ以来、葵が近くにいると、つい触れたくなる。

別に口付けじゃなくてもかまわない。

ただ、ちょっと触れるだけでもいい、と手を伸ばしたことはすでに片手の数を軽く超えている。

けれど、そんな風に無意識でも葵を求めてしまう淋と違って、葵は今までと変わらず笑っているように淋には見えた。

もちろん、あの時に返してくれた葵の気持ちを疑うわけではないけれど、言うなれば、天秤が釣り合っていないような気がするというのか・・・・。

「・・・・って、そうとう女々しい事考えてないか?」

己の思考に思わず突っ込んで、瞬時に落ち込んだ。

恋は人を狂わすとはよく言ったものだ。

と、思うと同時になんだか少し腹が立ってきた。

(なんで俺ばっかりこんなに振り回されてるんだ!?)

惚れたなんとやらで、脳裏に焼き付いている葵の笑顔が、今はちょっと憎たらしく感じて、淋は壁に寄りかかったまま腕を組んだ。

二人きりとはいえ、台本の読み合わせに真面目に取り組んでいたというのもわかるので、この一刻のことは納得してもいい。

しかし休憩に入った途端に、淋の手をすり抜けておやつ。

(このまま寝たふりでもしてやろうか。)

・・・・ふとらしくもなくそんな考えが浮かんだのは、つれない恋人に少しイラッとしたからだろう。

葵が部屋に戻ってきた時、淋が眠っていたらどうするか。

その反応を楽しむぐらいの意地悪は許されてしかるべきだ。

と、葵が聞いたら「何それ!?」と呆れられそうな事を考えて、淋はおもむろに目を瞑った。

狸寝入りといってもすることなどこの程度だ。

昼日中なせいか、目を瞑ると宿の静けさが耳に付く。

その静けさの中を。

―― ぱたぱたぱた。

(・・・・きた。)

相変わらず軽快な足音が聞こえて、淋は少しだけ身を固くする。

それほど広くはない宿の事、足音はすぐに部屋の外へと到着して。

「持ってきたよ、リン!・・・・って、あれ?」

元気に襖を開けた思ったら、驚いたような声が零れた。

「リン・・・・寝てる?」

(引っかかった・・・・!)

小さく伺うような声に、淋は内心でにやっと笑う。

基本的に素直な葵がそうそう疑うとは思っていなかったが、それでも思い通りに展開が進むのは愉快なものだ。

そして思ったとおり見事に騙されたらしい葵から戸惑ったような気配が伝わってきた。

「えーっと・・・・どうしよう。」

小さな呟きに片方だけ薄目を開けて伺えば、葵は密から受け取ってきたらしい湯飲みと皿ののったお盆を机の上に置いたところだった。

そしてこちらを振り返る姿に、慌ててまた目を閉じる。

視界は薄闇に覆われたが、すぐにじりじりと近づいてくる葵の気配を感じて、思わず緩みそうになる口元に淋はそっと力を入れた。

(さて、どうする?)

普通に揺り起こすのか、声をかけるのか、それとも・・・・。

なんとなくワクワクするような気持ちで待っていると、すぐ近くまで来たらしい葵がほう、とため息をつくのが聞こえた。

「・・・・やっぱりリンは綺麗。」

(綺麗?)

これには思わず眉間に皺が寄りかかる。

まあ、葵が来るまで女形を一手に引き受けていた淋は少年ということを差し引いても綺麗よりの顔立ちであることは自覚しているが、恋する少女に言われるのはいささか複雑だ。

しかし当たり前だが、淋が聞いているなんて思っていない葵はなぜだかクスクスと笑い声を零した。

「でも怒ると怖いんだよね。」

(怖いって、おい・・・・)

「ぶっきらぼうだし、教え方も厳しいし。」

(なっ!)

立て続けにあまりの言いように、思わず薄目を開けてみれば、前髪越しに葵がしゃがみこんで覗き込んでいるのが見えた。

それはそれは、ふにゃっとしまりのない・・・・やたらと可愛らしい笑顔で。

(っ!)

どきっと大きく跳ね上がった鼓動に、淋は慌てて目を閉じる。

(な・・・・なんで、文句言ってるのにそんなに嬉しそうなんだよ。)

俄に動揺する自分の気持ちを持てあましながら、頭のどこかでこれはもしかして作戦を間違えたのではないか、と呟く声が聞こえた。

しかしここまできて行き成り起きるにも起きるきっかけがない。

というわけで、狸寝入りを続ける淋の耳を「へへっ」と照れたような葵の笑い声がくすぐる。

今、目を開けたら葵は絶対にうっすらと頬を染めて、極上の砂糖菓子みたいに甘い表情を浮かべているに違いない。

思わず淋が目を開けかかった、その時。















「リン・・・・大好き。」

―― ちゅっ
















(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

囁くような、本当に囁くような声と、掠める程度に前髪に触れた温もりに、物の見事に淋の思考は吹っ飛んだ。

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・い)

今、のは。

ぶっちゃけ、その瞬間に思い切り目を見開かなかったのは己の最大の意地だったと思う。

しかし、それがある意味、災いした。

というのも、ほとんど衝動的に動きかかった淋の腕が、葵へと伸びるその前に。

「あ!このままにしといちゃだめだよね。上にかけるものとか何かなかったかな?」

淋が寝ていると信じている葵はそんな呟きを残してこれまた颯爽と立ち上がって部屋から飛びだしていってしまったのだ。

後に残されたのは ―― 浮きかかった腕を中途半端に持てあました、淋。

「・・・・・〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ああ、くそっっ!」

またも葵を捉え損ねたその腕は、そのまま、真っ赤に染まった自分の顔を覆ったのだった。















                                                〜 終 〜
















― あとがき ―
淋の負け(笑)