初めてづくしは幸せづくし
炎を食らう雷鳴轟き、見事、福澤の仕掛けた増上寺炎上を食い止めた葵座一行。 来世育ちの姫御前も生まれた時代への帰還よりも、想い人の側で生きる事を選んで、めでたしめでたしの大団円。 ―― そうして、これは終い口上の少し後のお話。 「・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・」 (うっ・・・・なんか気まずい。) 上野は「みよしの」の馴染んだ自分の部屋に落ちる沈黙に、思わず葵は心中で呻いた。 いや、本当であれば気まずい思いをする方がおかしいといえばおかしい。 というのも、葵の他にこの部屋にいるのは、向いに座った三遊亭宝船・・・・葵にとっては恋人なのだから。 (み、みんなが変な気を遣うからっ!) と、居たたまれなさに思わず、宝船と葵をこの部屋に放り込んでいった葵座の他の面々と甲乙姉妹を責めてみる。 増上寺炎上を食い止めたのはいいが、炎を消すほどの雨に濡れたせいで「みよしの」に着いた頃には茂丹にいたるまで全員びしょ濡れだった。 おかげで着替えやら風呂やら、てんやわんやしているうちに気が付けば葵と宝船は二人揃ってこの部屋に押し込まれていたのだ。 (別に嫌とかじゃないけど・・・・) さきほども言ったように、宝船は葵にとって己の生まれた時代に帰れなくても、一緒にいたいと願った恋人だ。 二人きりでいるのが苦痛とかそういうわけでは全然ない。 しかし、そうと決めたのもほんの数刻前な上に、福澤を前に葵も宝船も結構恥ずかしい台詞を惜しげもなく並べ立ててしまった。 言った言葉に嘘偽りはないけれど、雨に冷やされて頭が冷静になってくると、もしかして・・・・もしかしなくとも、大概惚気全開な台詞を言ったのでは、と俄に気恥ずかしくなってくる。 しかもそれに加えて、この部屋に押し込まれた時から、宝船がまったくもってしゃべらないのだ。 いつもであれば、黙れと言われてもしゃべっているようなところのある宝船が座ったきりしゃべらないので、葵は明らかに戸惑っていた。 (どうしたのって聞けばいいんだけど。) この空間に満ちた不思議な緊張感で、どうにも口を開くのも躊躇われる。 かといって、このままこの沈黙と宝船の視線に晒されるのもそろそろ心臓が限界に近いんだけど、と葵が途方に暮れたその時。 「・・・・葵。」 「は、はいっっ!!」 ぽつり、と呼ばれた名に、葵は過剰なまでに反応した。 効果音でもつけるとしたら「びくううっ!」あたりが適当であろう、その反応に宝船は一瞬きょとんっとしたような顔をして。 「ぷっ、はははっ!」 「!わ、笑わないでよ〜!」 堪えきれずに吹き出した宝船に葵は盛大に抗議した。 「い、いえ、すみません。そんなに驚かれると思ってなかったもんですから。あんたは相変わらず可愛らしいですね。ははっ。」 「〜〜〜っ」 楽しそうに笑いながらも甘さを含んだ言葉に、葵は否応なしに頬が熱くなったのを自覚した。 「もう!からかわないで!」 「からかってなんかいませんよ。あんたがあたしと二人っきりになって緊張してくれているのも嬉しかったですし、そうやってあたしの言動に大袈裟に反応してくれるのも可愛くってしかたない。」 「っ!だからっ!」 (か、可愛いとか言われると心臓がもたないんだけどっ!) 心の中で激しく抗議して、おそらく真っ赤になっているであろう顔を思わず手で覆おうとしたら。 「あ、隠さないで下さいよ。」 というなり、宝船に手を掴まれた。 「!」 両手を包んだ感触に、咄嗟にそれをふりほどこうとして、「あ、」と葵は思いとどまる。 「そっか、もう痺れないんだね。」 「はい。」 数刻前、葵と一体であった双葉葵が壊れるまで、宝船は葵に触れる事はできなかった。 正確には触れると痛みが伴うので、触れないようにしていたため、初めて感じる宝船の手の感触がなんだか不思議な感じだ。 (考えてみたら、全然ホウセンさんに触れた事ってなかったんだ。) 宝船がすごく頑張って口付けしてくれたこともあるが、あれも一瞬の事で、ごく当たり前に触れる事は今まで一度だってなかった。 (触れるようになったんだ。) 改めてそう感じた途端、なんだか握られている手が急に熱くなった様な落ちつかなさに、思わず葵は目を伏せる。 その様を見て、宝船はくすっと笑って言った。 「そんなに緊張しなくても、いきなりがっついたりしませんよ・・・・たぶん。」 「たぶん!?」 一拍空いて付け足された言葉に突っ込んだのはツッコミ魂というより、オトメゴコロだ。 「大丈夫です、冗談ですよ。・・・・・・きっと。」 「きっと!?」 今度はちょっとツッコミ魂かもしれない。 そんな反射的に顔を上げてしまった葵に、宝船は少しだけ不満そうに眉を寄せて言った。 「だってしょうがないじゃありませんか。今までずっと触れたくても、触れられなかったんですから。それがやっと触れられるようになったんです。大事にしたいと思っちゃいますが、正直、あたしにもどうなるか・・・・」 「え、えええ〜〜?」 含みのある言葉を投げかけられて、葵は思わず腰がひけてしまう。 その様子をおかしそうに見つめた後、ふいに宝船が表情を引き締める。 「でも、触れたいんです。」 淡々と、でもきっぱりと。 いつも表情豊かな言葉で葵を戸惑わせる宝船にしては珍しいくらいに真っ直ぐに、そのままの意図を伝える言葉に葵の鼓動がとくんっと跳ねた。 「今、あんたが戸惑ってるのもちゃんとわかってます。でも、我が儘ですみませんが、葵に触れさせちゃくれませんか?・・・・ほんとを言うと、まだ夢を見ているみたいなんですよ。葵がここに、この時代に残ってくれて、普通の女性みたいにあたしにも触れるようになったってことを実感したいんです。」 「ホウセンさん・・・・。」 語気を荒げるでもない、茶化すでもない、ただ一心に懇願するように言われて、葵の胸に何とも言えない感情が満ちる。 それはもどかしさにもにていて、気が付けば葵は大きく頷いていた。 「いいよ。」 「?」 「触っていいよ。私もホウセンさんに触れられるんだってちゃんと実感したいから。」 「葵・・・・!」 自分で触れたいと言ったくせに、細い目を見開いて驚く宝船の反応に、葵は小さく笑った。 すると、それを見た宝船が困ったように顔をしかめる。 「ああもう、そんな顔をしないでくださいよ。・・・・そんな風に無防備に微笑まれたら、無体はできないじゃないですか。」 「?何か言った?」 「なんでもありません。いいんですよ。あたしが頑張れば良いだけの話ですからね。」 「よくわからないけど、頑張って?」 「はあ・・・・」 いまいち宝船の苦悩の意味が分からず首をかしげた葵に、宝船は小さくため息をついた。 けれど、それで気を取り直したように顔を上げると、葵に向き合って。 ―― おそるおそる、というのが相応しい様子で、宝船は葵の髪に手を伸ばす。 ほんの少し触れただけで、宝船は崩れるように笑った。 「ああ、あんたの髪はこんな手ざわりだったんですね。なるほど、ケンスケさんがくせになるとおっしゃるはずだ。」 「そう、かな?」 「ええ。さらさらして、気持ちが良いです。」 嬉しそうに笑いながら宝船は葵の前髪を梳くように触れる。 そのたびに額を掠める宝船の手がくすぐったくて、葵は笑うと、その手が今度は頬をなぞった。 「頬も。思った通り柔らかいですねえ。」 「そんなことないよ〜。・・・・でも、ホウセンさんの手は思ったより大きいね。」 (頭脳労働派って感じだから、もっと細身かと思ったのに。) すっぽりと自分の頬を包んでしまう宝船の手に比べるように自分の手を重ねながら、葵はそんな事を思った。 でもよく考えれば、葵座のみんなと比べれば、という話で宝船だって他と比べればこの時代にしては背だって高い方だ。 などと考えていたら、再び困ったように眉を寄せられてしまった。 「あんたね・・・・緊張してるだろうとあたしが必死で加減してるってのに。」 「へ?」 「そんな風にされたら、こうしたくなっちまうってもんですよ。」 そう言うなり、宝船は背をかがめて。 ―― 唇に掠めるような感触ひとつ。 「〜〜〜っっ!」 途端に今までと比べものにならないぐらいに顔が熱くなる葵のまん丸く見開かれた瞳の中で、宝船は悪戯っぽく己の唇を舐めた。 「おやおや、これぐらいで真っ赤になっちまうんじゃ、これから大変ですよ?」 「こ、こ、これからっっ!?」 そのの言葉に思わずぎょっとしてしまう葵に、宝船は素知らぬ顔で頷いてみせる。 「はい。生憎、あたしも健全な二十歳の若者なんで。好いた相手に触れたらしたいことが一杯ありますからねえ。」 「したいことって・・・・!」 どんなこと!?と聞いたら完全に墓穴、というのは本能的に察知して口に出さなかった葵に、宝船は相好を崩す。 「まあ、いろいろですけどね。でも」 言葉を切って、宝船は葵の頬から手を離すと、言葉の悪戯っぽさからは想像しなかったような優しさで葵を己の胸に引き寄せた。 急に間近に感じた宝船の体温と匂いに、葵の鼓動が今までよりもずっとずっと大きく鳴った。 (でも・・・・なんだか安心できる。) ドキドキして、とても安心なんて言葉と結びつかないような気分なのに、不思議とずっとこの腕の中にいたいと思う。 そんな気持ちが心地よくて自分からも少し宝船の胸に頬を寄せると、頭の天辺の近くに唇を寄せられた。 「葵」 優しい感触と、穏やかな声に惹かれるように顔を上げれば、前髪が触れるような位置に宝船の顔があった。 その表情は ―― 今まで見たこともないぐらい、幸せそうなもので。 「あんたに触れられるようになったらって考えていたことは一杯あったんですよ。他愛もないことも、そうじゃないことも。でも、本当に触れられるようになったら・・・・考えていたよりもっと、葵に触れていたくて、ちょっと困ってます。」 「ホウセンさん・・・・。」 「でも、焦らなくてもいんですよね。葵はずっと明治の、あたしの側にいてくれるんだから。」 「うん!」 子どものように大きく頷いた葵に、宝船は微笑む。 抱きしめて、微笑みあって。 こんな単純なことですら、初めてでドキドキするのだから、これから先はどれだけドキドキさせられるのだろう。 そんな幸福な予感を感じている葵の額に、宝船は口づけを一つ落とす。 また一つ、初めてのくすぐったい触れあいに目を細める葵を見つめて宝船は言った。 「ゆっくりいきましょう。ひとつひとつ、葵に触れることを大切にしていきますから、ね。」 ―― そう言って、重ねた三度目の口付けは、初めての甘い甘い味がした。 〜 終 〜 |