二人の距離
最近、淋の様子がおかしい。 水戸葵がそう感じ始めたのは、日光の門前で演ることになった八百屋お七の稽古も終盤にさしかかった頃だった。 否、最近という言い方は実は正確ではない。 淋の態度が変わるきっかけはあったのだ。 もうこれ以上ないぐらいのきっかけが。 (ええっと・・・・やっぱりそうなのかな。) と、その『きっかけ』を思い出して急に頬が熱を帯びた気がして、葵はううっと呻いた。 呻いたものの、その視線は自然と、たった今舞台の上で稽古をしている、問題の人物、淋に引き寄せられてしまう。 「私とて、苦しいのです。けして結ばれぬ運命とわかっても、何故愚かしくも惹かれてしまうのか。」 稽古の仕上げにかかっているということで、今日は各々衣装をつけての稽古のために、舞台上の淋は寺小姓の吉佐の衣装を身につけ、朗々とその通る声でお七への葛藤を演じている。 寺小姓ということで、簡素な白い着物に紺の袴を着けた淋の姿は、いつも目にしている姿より少し大人びて見えて、とくんっと葵の心臓が小さく跳ねた。 葵も今日はお七の衣装を身につけているが、まさか鼓動までお七の演技ができるわけではない。 この鼓動はまさしく葵のもの。 そう ―― わずか数日前に、本当に恋人になった人を思う葵の気持ちだ。 (うう、やっぱり、・・・・かっこいいんだよね。) 男は真剣に何かをしている時は二割り増し格好良く見えるものだが、それが好きな人となればなおさらだ。 でも、だからこそ。 (最近、ちょっと困ってるんだけど。) 葵がにやけたまま溜息をつくという器用な事をやってのけたちょうどその時。 「よし。一端ここまでにして各自、少し休憩な!」 客席で演技を見ていた剣助の声が芝居小屋に響いて、ほっと空気がゆるんだ。 裏紋退治という役目を担っている葵座ではあるが、同時に芝居一座としての活動もまごう事なき仕事なので座長の剣助を含め座員はみんな演技に妥協がない。 それゆえ、公演間近の練習には自然と独特の緊張感が生まれるのだが、今回は悪くない仕上がりになりつつあった。 「小半時後にお七と吉佐再開の場面から始めるから準備しておけよ。」 「はーい」 振り返った剣助にそう言われて葵は一つ頷いた。 そして今回はのっぴきならない事情で裏方に回った鬼格や陽太が大道具の確認に行くのをなんとはなしに見ていると、舞台を降りた淋が葵の方へやってくる。 「お疲れ、リン。」 「ああ。」 声をかけた葵を見て淋は今までと変わらぬ顔で小さく頷く。 無愛想とまでは言わないが、どちらかというとそっけないと見える淋の態度。 以前であれば、ここから淋が葵の演技にダメだしをして、軽い口喧嘩なんているのも日常茶飯事だった。 いや、それ自体は今も健在ではあるのだが・・・・。 「お前、木戸を見つめる場面で感情が入ってなかっただろ。」 「え、ええ?そんな事無いよ。」 「入ってるつもり、でやっても客には伝わらない。もっと細かい仕草を入れればわかりやすくなるだろ。」 「うう〜ん。」 変わらぬダメだしと変わらぬやりとり。 ここまではいつも通り。 しかし変わったのは ―― すとん、と淋が座ったその場所。 「!」 「?聞いてるか?」 小さく息を飲んだ葵の顔を淋がのぞき込んだ。 さて、繰り返すようだが、最近、淋と相思相愛になって以来、葵は困っていることがある。 それはさりげなく変わった、淋との距離なのだ。 例えば、以前の淋だったら葵の隣に座る時は拳一つ分以上離れているのが普通だった。 しかし、今はというと肩が触れるほどすぐ横。 そんな状態でのぞき込まれれば、つまりは。 (近っっっ!!) 鼻先が髪を掠めそうなほど近くに淋の顔を認識した途端、葵の心臓が一際大きく鳴り響いた。 その鼓動が反動になったように、葵は思わずざざっと一歩飛び退いてしまう。 「あ?」 「あ。」 不自然に開いた淋と葵の間の空間に微妙な沈黙が落ち。 「あ、あああ、ちょっと水飲んでくる!」 結局、まったく上手い誤魔化しが思いつかなかった葵は、勢いよく立ち上がるとその場を飛び出した。 で、飛び出してどうなったかというと。 「はあ、はあ・・・な、なんで追いかけて・・くるの。」 「いや、普通追いかけるだろ。」 芝居小屋の裏手まで逃げた葵は、そこでがっちり淋に捕獲されていた。 (少し落ち着きたかったのに逆効果!?) はあはあと弾む息をなだめている葵と対照的に、淋は怪訝な顔をしているものの、まったく息を乱した様子もない。 こう言う時、淋の忍びという出自が恨めしい。 もっとも淋が忍びでなくとも、慣れないお七の着物で逃げ切れるかどうかは怪しいものだが。 単なる言い訳のつもりだったのに、律儀に井戸の方へ逃げてしまったために、がっちりと井戸の覆い屋の柱に追い詰められてしまってはもはや逃げ場はない。 しかも。 (だから、近い。) 逃がさないとばかりに葵の両脇に腕をついた淋との距離は、額が触れんばかりで。 「はあ、はあ・・・・・・・・ううう。」 やっと息が収まっても動悸は一向に収まらず、葵は呻いて視線を落とした。 「それで?」 「・・・・はい。」 「言わなくてもわかっていそうだけど、なんで逃げた?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 できるなら黙秘したい、という希望を込めてちらっと淋を見上げたものの、至近距離にある漆黒の瞳は射るように葵を見つめていて、まったく譲る気はなさそうだった。 しかもその距離に、葵の鼓動はまたも素直に悲鳴をあげるものだから。 (あああ、もう!) とうとう葵は開き直った。 「だって、最近、リンが近いんだもん!!」 「・・・・は?」 きょとんっとしたような淋の声が降ってきたが、一度開き直ったものは止まらない。 「その、す、好きって言ってくれてから、気がついたらリン、いっつも近くにいるし。隣に座る時はすぐ近くだし、髪とか触ってくるし。」 そう、最近葵を戸惑わせている淋との距離。 相思相愛になるまでの淋はどちらかといえば、葵には厳しく、いわばスキンシップもほとんどなかった。 剣助や七巳が葵の頭を撫でたりしているせいもあるが、演技指導以外では葵に触れるようなことはほとんどなかったのだ。 それが、想いを通じ合わせてから気がつけば、淋は葵に触れるようになった。 手持ちぶさたにしている時にふっと髪をさわったり、手に触れたり。 「それに今だって!」 「・・・・」 「前はこんなに触ったり側にいたりしなかったのに、急に近くなったからだからっっ!」 「・・・・それで?」 「・・・・ふえ?」 勢い込んでそこまで言った葵に対する淋の反応は拍子抜けするほど、穏やかな声だった。 驚いて視線を上げかかって、見上げればまた至近距離に淋の顔がある事を思い出し再び下げる。 そんな葵の行動を待ったように、視界が淋の衣装の白へ染まったところでまた問われる。 「嫌なのか?」 「え・・・・?」 「俺と近いのは嫌で、だから逃げたのか?」 淡々と問う声でそう言われて、葵の心臓が今度はさっきまでと違う嫌な音でどきりと鳴った。 (嫌?) 「そ・・・そんなことない!」 思わず葵はそう叫んでいた。 「違う!嫌なんかじゃなくて、ただすごくドキドキするから!だからっ!」 好きだから、近くに感じるたびにどきどきする。 触れられるたびに、どうしたらいいのかわからないぐらいくすぐったくて嬉しくて恥ずかしい。 そんな気持ちをもてあましていて困るのだ、とそう伝えようと顔を上げた葵の、その額に。 ―― ちゅっ。 「っっっっ!!!」 まるで葵が顔を上げるのを待っていたようなタイミングで落とされた額への口付けに葵は言葉を失った。 ぽかっと口を開けて見上げた葵の視界一杯に広がったのは、呆れ顔でも怒った顔でもない、ほんのちょっと悪戯めいて口角をあげた淋の笑顔で。 「リ・・・・」 「俺も、戸惑ってないって言ったら嘘だな。」 「え?」 「正直、こんな風に思うと思わなかったんだ。」 そう言って、淋は葵の頬へ手を伸ばす。 今日はお七用に髪を結ってもらっているから露わになっている頬を淋の指先が撫でる。 「ただアオイに気持ちを伝えたくて、それだけ言えれば満足だと思ってた。けど、違うんだな。お前も俺が好きだってわかって、そしたら、触れたくてしかたなくなった。」 「っ」 思わず何か言いかけた葵の顎をすくって、触れるだけの口付けを一つ。 それだけで、ただでさえ赤い頬がさらに赤みを増すのをくすぐったそうに見て、淋は言った。 「本当はアオイがおかしいってのも気づいてはいたんだ。」 「わ、私がおかしい?」 予想外な事を言われたと目を丸くする葵に淋は頷いた。 「ああ。最近、俺が近くにいるとなんか落ちつかなさげだったし。でも」 そこで言葉を切って、淋は少し悪戯っぽく目を細める。 「嫌だって顔、してなかったから。」 「だって、嫌じゃない、し。」 どうにも気恥ずかしくて途切れ途切れになりながら葵がそう言うと、もう一つ額に口付けが降ってきて、葵は小さく肩をすくめた。 「リンっ。」 「だから、悪いけど無理だ。」 「へ?」 急に言われた否定に驚いた葵に、淋はどこか楽しそうに笑って言ったのだ。 「アオイが戸惑っても加減できない。逃げるなら逃げてもいいけど、こうやって捕まえるから覚悟しとけ。」 「!!」 何か言い返すより先に唇をふさがれた葵は、思考が埋め尽くされる寸前頭の片隅で呻いた。 (これは逃げるより、このドキドキに慣れるしかない・・・・のかも?) もっとも、そんな方法があるかどうかは、今、まさに飛び跳ねている心臓をどうにもできない葵には想いつきもしなかったけれど。 ―― 小半時後、休憩が終わって戻った葵の紅が完全にとれているのを目ざとく発見した剣助に淋がからかわれたのはちょっといい気味だと思った、葵だった。 〜 終 〜 |