不可侵の向こう側
「ホウセンさんって私の事嫌い?」 「は?」 唐突に葵に言われた言葉に、三遊亭宝船はぽかんっと口を開けた。 ちなみに、前後の脈絡はない。 なにせ、宝船がやっていたのは、次の葵座の公演に使う台本の手直しで、珍しく大人しく宿にいた葵がそれを横から覗いていた、という状況だったのだ。 つけ加えて言うなら、台本手直しの片手間に葵の相手をしている程度だったので、たいした話もしていなければ、もちろん喧嘩もした覚えはない。 それで出てきた台詞が件のあれでは、いかに宝船といえど驚くのもいたしかたないだろう。 (もっとも、この姫御前には驚かされっぱなしですけどねえ。) 内心、そんなことをこっそり思いながら宝船はちらりと葵に目をやる。 宝船の使っている文机に両肘をたてて顎を乗せた葵は、問いかけた時のままくるっとした大きな瞳を無邪気に宝船へ向けていた。 そんな姿だけ見れば、ごく普通の少女なのだがその実、百四十年先の世からこの明治に降り立ったという稀有な経歴を持ち、何かに付け、こちらが驚くような事をやってのける。 だからこそ面白い・・・・第三者として観察する分には。 後に付け足した事に僅かに違和感を感じたことを意図的に無視して、宝船は口の端を上げた。 (さて、今後は何を言い出しますやら。) 小さな芝居でも見るかのように。 内心そんな事を考えているなどおくびにも出さずに、宝船は一度止めた筆を再び動かしながら言った。 「あたしが、あんたを嫌ってるですって?なんでまたそんな事を言い出したんです?」 「え?うーん・・・・なんとなく。」 「なんとなくですか。」 首を捻って葵の言った答えに、宝船は苦笑した。 「また、失礼な人ですねえ。いきなり人に、自分が嫌いかと聞くなんて、いちゃもんを付けているようなもんですよ?」 それとも、いちゃもんを付けているんですか?と冗談のつもりでちらりと視線を投げれば、葵は驚いたように目を丸くして慌てて首をふった。 「ううん!違う違う!そうじゃなくて・・・・」 「そうじゃなくて?」 葵にしては中途半端に言葉を切った事が気になって先を促すと、葵は考えるように目を泳がせながら言った。 「もしかしたら、嫌いっていうのもちょっと違うかも。そうじゃなくて・・・・ああ、そっか。」 口に出している内に結論がでたのか、葵は一人で頷いて宝船に再び視線を戻した。 その黒い大きめな瞳に自分の姿が映った事に、宝船の心の蔵が微かな音をたてた。 けれどもちろん宝船はそんな事を表には出しはしなかったし、葵も気が付かず、ただ彼女は口を開いた。 「苦手、っていう感じ?」 「・・・・・」 ぴく、とそれまで葵の相手をしながらも流れるように文字を書いていた宝船の手が止まった。 ―― 苦手。 (苦手、ね・・・・) 葵の口に出した単語を己の心の中でくり返して、宝船は何とも言えない笑みを口元だけに浮かべた。 葵が苦手。 その意味は確かに半分は当たっている。 なぜなら・・・・。 何事もなかったかのように再び筆を動かしながら、宝船は言った。 「そう見えました?」 「うん。だってホウセンさん」 そこで言葉をきると、葵は文机に頬をつけるようにして、下から宝船を覗きこんできた。 童のような仕草に驚く宝船と目が合うと、何故か葵はしてやったりというようににやっと笑った。 「ほら。こういう時じゃないと目を合わせてくれないよね。」 「あんたね、先の世ではどうか知りませんけど、こちらの礼儀では目を合わせるのは失礼なんですよ。」 「え?そうなの?」 びっくりした顔をする葵に、やれやれとため息をついてみせる。 嘘はついていない。 けれど、本当の事を言ったわけでもない。 確かに礼儀云々ではなく葵の瞳に映るのを宝船は避けてきた。 いつからか、この真っ直ぐで黒曜石のような瞳を。 「・・・・まあ、一応言っておきますが、嫌いも苦手も間違ってますよ。」 ふう、とため息をついて宝船が言った言葉に、葵が目を瞬かせる。 「え?」 「あんたは、やっかいなお人なんですよ。」 諦めて口にしたのは、宝船の本心の欠片だった。 けれど葵にとっては意外な言葉だったのだろう。 きょとんとしたように首をかしげる葵を横目に、宝船は持っていた筆を硯におくと近くに置いていた愛用の扇子を手に取った。 「あんたはやっかいなお人だ。リンさんやハチあたりにはそうは見えないでしょうけどね。でも例えば、あたしや、ナナミあたりには、ね。」 「ホウセンさんやナナミ?」 ええ、と宝船は頷いた。 そう、自分やナナミのような・・・・人間の後ろ暗い所に関わってしまった者にとっては、葵の存在はやっかいなのだ。 (真っ直ぐで綺麗すぎるんですよねえ。) 育ちなのか、性格なのか、葵は人をひどく簡単に懐に入れてしまう。 もちろんあからさまに怪しいとかそういう場合はべつなのだろうけれど、基本的に知り合った人間を疑わない。 それは猜疑と駆け引きの世界に生きている者にとっては、酷く眩しく映る生き方なのだ。 そして同時に ―― 「ねえ、それって・・・・」 謎かけのような宝船の言葉に葵が何か言おうとした、ちょうどその時。 「ああ、ここにいたのか。菩薩殿。」 どこか怠惰さをにじませる艶っぽい声が二人だけだった部屋に割り込んだ。 宝船と葵が同時に視線を向けた部屋の入口に、いつの間に来たのか、煙管くわえた七巳が立っている。 その姿を見つけて、葵は言った。 「ナナミ?ここにいたのかって、探してた?」 「俺じゃなくて荒銀がな。舞台衣装のことで相談があるんだとさ。」 「あ、そうなんだ。でも・・・・」 一瞬、腰を浮かせかけて葵はちらっと宝船をみた。 おそらくはさっきの話が途中で途切れたと思って続きをどうしようか困っているのだろう。 その様子に、宝船は愛用の扇子を口元に当ててふっとため息をついた。 「ほら、早くお行きなさい。リンさんに怒られますよ?」 「ん〜、わかった。ホウセンさん、また後でね!」 一瞬、淋が怒ったところでも想像したのだろうか、微妙に苦い顔をして、葵は立ち上がった。 そのまま袴の裾と袂をはためかせながら足早に飛び出していく。 ぱたぱたという軽い足音が廊下を去っていって、しばし。 「・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんです、ナナミ。」 いやに物言いたげな沈黙に耐えきれなくなって七巳を睨むが、そんな事で七巳が動じるはずもなく。 「いやあ?さすがは噺家だと思ってね。」 「・・・・それ、褒め言葉じゃないでしょう。」 「褒めてるぜ。俺だったらあんなに上手い言葉は見つからないさ。なるほど、「やっかいな人」ねえ。」 ふうっと煙管の紫煙をはき出した七巳に、宝船はあからさまに嫌な顔をしてため息をついた。 「立ち聞きなんて人が悪いですよ。」 「しょうがないだろ。廊下歩いてたら面白そうな話が聞こえてきたら、立ち止まって聞いちまうのが人の性って奴だ。」 普段自分が言いそうな事を言い返されて、宝船はますます顔をしかめたが、七巳はそれ以上は宝船をからかうのを止めたらしい。 代わりにもう一度煙をはいた後に、ぽつりと。 「まあ、やっかいだよな。」 そう呟いた言葉には、どこか共感のような切なさが交じっていた。 宝船もまた、愛用の扇の影でため息を一つつく。 葵は真っ直ぐで、自分たちのような者がうかつに手を出すには綺麗すぎる。 だというのに、彼女自身はそんな事は知った事じゃないと言わんばかりに、心の中に踏み込んでくるのだ。 (質が悪い事に、それが・・・・嫌じゃないんですよ。) 第三者でいるつもりだった。 未来からきた女の子の裏紋退治なんて面白い見せ物を見逃す手はないと、一緒に居るだけのつもりだった。 なのに ―― いつの間に踏み込んできて欲しい、手に入れたいと焦がれるようになったのか。 けれど、そうなってみると、宝船は本当に第三者でしかないのだ。 神器になれる葵座の面々のような力もなければ、密のような特別な能力もない。 宝船にできることは、せいぜい、近くで彼女の物語を見守るだけ。 ちくり、と浅く刺されたような胸の痛みを宝船は気づかなかったふりをした。 (ああ、本当に・・・・) 「やっかいお人ですよ。」 どこか途方に暮れたような宝船の呟きに同意するように、煙管の紫煙がゆらりと揺れた。 〜 終 〜 |