新しいシルシ



「お嬢〜!悪いけどそこの洗い物してくれへんか?」

「はーい!」

今日も上野の飯屋「みよしの」は大繁盛だ。

寡黙な主の作る料理は安くて上手いし、店の看板娘の乙姫甲姫姉妹は可愛いし、とくれば人気が出ない方がおかしいというもので、昼時ともなれば大忙しになる。

そして去年から「みよしの」を上野の本拠地にしている葵座唯一の女優、水戸葵もまた、お昼時の大繁盛時となればお手伝いの一つもするのが恒例となりつつあった。

もっとも葵座の一座はあくまで旅一座であって「みよしの」の店員ではないから、「みよしの」の面々は休んでいればいいと言ってくれるのだが、実家のお寺で「働かざる者食うべからず」をたたき込まれている葵としては近くで仲間が忙しく立ち働いているのにゴロゴロしている・・・・というのはどうにも落ち着かなくて、結局、気が付けばたすき掛けして台所に行ってしまうのだ。

と、前に旦那こと猿飛密に話したところ、熟練の忍であるはずの密が葵に分かるほど遠い目になってぽそっと「・・・・諏訪さんがお嬢さんの半分でも見習ってくれれば・・・・」と呟かれた。

それがあまりにも悲哀に満ちていたので、葵はせめて「みよしの」にいるときぐらいは絶対に手伝いをしようと心に決めたのだ。

閑話休題。

ともかくそんなわけで、今日も忙しく立ち働く「みよしの」の台所で葵もまたくるくると手伝いに励んでいた。

もっとも料理に手が出せるわけではないので、葵のお手伝いはもっぱら皿洗いと配膳だが。

「えっと洗い物洗い物。」

というわけで、さっそくさっき甲姫に言われた洗い物をすべく葵は流し台の近くの盥へと近づく。

「うわ〜、さすがにお昼時だ。」

盥につまれた食器の山を見て思わず葵は感嘆に近いため息をついてしまった。

そして「よし!」っと気合いを入れるとさっきまで懐から襷を取り出して、袂を括る。

こういう所作に関しては合気道をやっていたおかげでお手の物だ。

手際よく襷を結んで、次に葵がしたことは、無意識に手首に手をやることだった。

「・・・・あ」

そこにあるはずだった細い革紐の感触が指に触れず空を切った事で、葵は初めて己の手首に目をやって呟いた。

(そっか。もう無かったんだっけ・・・・)

葵が無意識に手をやった先、手首にはほんの少し前まで生まれた時から持っていたという曰く付きの石の付いたブレスレットがはまっていたのだ。

ハートの形をした透き通る石は幼い頃、せっかく生まれた時に持っていたくらい縁があるのだからと両親がブレスレットのパーツのように装飾してくれて、それ以来ずっと葵の手首にあった。

まさかその石が、双葉葵と呼ばれる力の結晶・・・・或いは己が前世であろうとは思いもよらなかったけれど。

まあ、その石があったからこそ葵はこの明治の世にやってきて、数々の信じられない体験をした上で今の未来を選び取っているわけだけれど。

そして当のその石はというと、昨年のうちに力を使い切って砕けてしまった。

以来、葵の手首には何もなくなったのだが。

(ついいつものくせでやっちゃうんだよね。)

何もない自分の手首を見ながら葵は苦笑した。

例えばお風呂に入る時、寝る時、水仕事をする時、かつて双葉葵が会った場所を無意識に探っているという仕草を何度くり返したか。

そのたび小さな消失感を覚える事が少し意外で、それから・・・・。

「何見てるんだ?アオイ。」

葵がほんの少し目を細めた時、不意にかけられた声に葵の鼓動が跳ねた。

驚いて振り返れば、いつの間に来たのか、葵座座長であり葵の恋人でもある神鳴剣助が葵を覗きこむようにして立っていた。

「ス、スケさん!?」

「おう。ただいま。」

「え?あ、おかえりなさい。」

反射的にそう返事を返して葵は初めて剣助の格好に気が付いた。

三つ葉葵紋の入ったトンビを着ているのは剣助の外出時のスタイルだ。

帰宅の挨拶を言ったということは、おそらくどこかへ出かけていて帰ってきた時、表から入らず勝手口から入って来たのだろう。

「どこか出かけてたの?」

「ああ。ちょっと公演の手配やらでな。」

舞台をかけている時でなくても座長である剣助は結構忙しい。

「お疲れ様。」

「ありがとな。・・・・いーねえ、こういうのはさ。」

「え?」

「仕事で疲れてもアオイが労を労ってくれるってのは、嬉しいもんだな。」

そう言って剣助は本当に嬉しそうに目を細めるから、葵の心臓は一気に落ち着かなくなってしまった。

(スケさんって、変な所で素直だから困る・・・・)

正確には葵が明治の世に残る事にして以来かもしれないが、剣助は葵に関する感情をわりと素直に顔に出すようになった。

それまで色んな事を葵に見せないようにしたり、心の中に押し込んで隠したりしていた剣助だけに、そんな風に素直に表現されるとどうにも葵はどきどきしてしまうのだ。

故にどうにも恥ずかしくて逃げるように洗い物を始めてしまう葵の姿も愛しくてたまらないと剣助が思っている事に気が付くまではまだしばらくかかりそうだが。

「ところでアオイ。」

照れを誤魔化すために数枚のお皿を迅速に洗い上げたところで、剣助が声をかけてきた。

「うん?」

「さっき、お前は何をしてたんだ?」

「え?」

「俺が声かけた時、手を見てなかったか?」

「?・・・・ああ。」

問いかけに一瞬自分の手を見下ろして、さっきのどきどきで上書きされかかっていた感傷を葵は思い出した。

「大した事じゃないんだけど。」

そう前置きして手に持っていた小鉢を濯いで水から上げるついでに、葵は右手首を指さした。

「さっき見てたのはここ。」

「ここ?」

「そう。双葉葵があったところろだよ。」

「ああ、そういえばアオイはあれを数珠みたいにしてたっけ。」

「数珠・・・・私の時代ではブレスレットっていうんだけどね。」

ブレスレットのイメージと似つかない抹香臭い単語に笑いながら葵はそう言った。

「あの双葉葵のブレスレットって、子どもの頃からずーっと手首につけてたから、今でも気が付くとさわっちゃったりするの。」

「あるような気がして?」

「うん。さっきもお皿洗おうとして、思わず外そうとしちゃって。」

どこかその行動が自分でもおかしくて、小さく笑いながら葵は言った。

「ずっと付けてたから意識した事なかったんだけど、なくなってみたら意外と寂しいんだね。」

「寂しい・・・・か。」

ちょっとした笑い話程度に軽くそう言った葵の言葉の最後の所だけを剣助は口の中で転がす。

その表情がなんだか一瞬考え込むようなものに変わったので葵は「あれ?」と首をかしげた。

(私、何か変な事言ったかな?)

双葉葵のブレスレットがなくなって少し寂しいのは事実だったので、何気なく言ったつもりだったんだけど・・・・と葵が俄に不安になって剣助を覗きこんだ瞬間。

「・・・・よし。」

「へ?」

何故か、自分に確認するように唐突に剣助が頷いた。

「どうかしたの?スケさん。」

「いや、なんでも。ちょっと出かけてくるぜ。」

「ええ?今帰ってきた所じゃなかったの?」

「新しい用事ができたんだ。アオイも無理しない程度に手伝いしろよ!」

「新しい用事って、スケさん!?」

急な展開に驚く葵をよそに、もはや挨拶のように葵の頭をぽすっと撫でて、なにかやら上機嫌で剣助は勝手口から再び外へと消えていってしまった。

その背中をきょとんっと見送って。

「・・・・行っちゃった。どうしたんだろ、スケさん。」

呟いて首をかしげるが、消えてしまった剣助の考えがわかるはずもなく。

結局、葵は不思議な気分で首を捻りつつ、再び洗い物へ戻ったのだった。
















―― 葵の疑問が解消したのは、実に昼時をすぎ午後も過ぎ、ついでに夕食も済んだ宵の口になってであった。

「みよしの」にいる時はだいたい一緒に夕食をとる事が多い葵座の面々も夕食が終われば各々勝手に好きな事を始める。

葵もまたお風呂上がりの縁側でのんびりと夕涼みを楽しんでいた。

と、そこへ。

「アオイ。」

「スケさん。」

座敷の方から声をかけられて肩越しに振り返れば、剣助が微笑んで立っていた。

「風呂上がりか?」

「うん。お先に〜。」

「いいねえ。」

にこにこ笑う葵の隣に座りながら、剣助は葵の長い髪の一房をすくい取る。

そして戯れのように顔を寄せてにっと口の端を上げた。

「良い匂いだ。」

「・・・・スケさん、それ恥ずかしいから。」

「はははっ!」

うっすら赤くなった葵に睨まれて、剣助は声を上げて笑った。

この顔が可愛いからどうにも葵をからかうのが止められない、と言ったら彼女は何と言うだろうか。

しかし別に本格的に葵の機嫌を損ねたいわけでもないので、大人しく髪を開放すると剣助はズボンのポケットに手をやった。

目的の物がちゃんと手に当たる感触を確かめてから、口を開く。

「アオイ、手を出してくれないか?」

「?こう?」

唐突にそう言われた葵は首をかしげながらも、剣助が座っている側の左手を持ち上げた。

それに対して、剣助は苦笑すると。

「違う違う。双葉葵を付けてた方。」

「双葉葵・・・・そしたらこっちだね。」

そう言われて差し出した右手を剣助が引き寄せるように引っぱる。

(?なんだろ?)

そんなに強い力というわけではなかったので、半身捻るようにして右手を差し出すと、引っぱっていた剣助の手が不意に離される。

そして引っ込めるべきなのか、一瞬迷った葵の無防備な手首に。

「これで・・・・どうだ?」

剣助がポケットから出した何かをくるりと巻き付けた。

「え・・・・」

唐突に現れたその感触に葵は目を丸くして、自分の手首を見下ろした。

そこには、綺麗な組紐に可愛らしいトンボ玉の通してある手巻があった。

「これ・・・・?」

(ブレスレット・・・・?)

可愛らしい意匠もさることながら、しっくりと馴染むその感触に驚いて葵が剣助を見上げると、剣助は笑って頷いた。

「昼間、お前が双葉葵がなくなって寂しいって言ってただろ?」

「うん。」

「だからさ。」

「それで探しに行ってくれたんだ。」

自分の小さな寂しさを気にしてわざわざ剣助が手巻を探しに行ってくれたと思うと、自然と葵の胸の内が暖かくなった。

嬉しさに自然と頬が緩む。

「ありがと、スケさん。」

「どういたしまして。」

悪戯が成功した子どものように笑う剣助につられて笑いながら、葵はもらったブレスレットが輝く手首を自分の視界へ引き寄せた。

朱色の組紐に通った淡い紅色のトンボ玉は行灯の明かりにキラキラと輝いてとても綺麗で。

(どうしよう、すごく・・・・すっごく嬉しい!)

胸の奥がきゅうっとなるほどの嬉しさに葵は溢れてくる感情そのままに微笑んだ。

その様子を覗きこんでいた剣助は、ぽつりと呟く。

「なんというか、思ったよりいいな。」

「似合う?」

どこかしみじみとしたその言葉に、褒めてくれたのかと思った葵は剣助に良く見えるように手首をかえしてにっこり笑った。

その反応に、一瞬剣助は驚いたように目を開いて、すぐに小さく笑った。

「ああ、それもあるけどさ・・・・」

そう言いながら、剣助は双葉葵のかわりに新しいブレスレットが飾る葵の右手を自分の手で絡め取る。

「それもあるけど?」

他にも何かあるの?、と純粋に不思議そうな葵の手を、指を絡めて手を繋いだまま、剣助は自分の方へ引き寄せて。

―― ちゅっ

「!?」

ブレスレットの組紐の上から手首に落とされた口づけに葵は心臓と一緒に跳ね上がるかと思った。

「ス、ス、スケさん!?」

「この手巻をアオイが付けてるとさ。」

ぱあっと赤くなる葵に、剣助は実に満足そうに笑って言ったのだった。

「アオイに俺のだって印を付けた感じがするだろ?」
















―― それからしばらく、新しく右手を飾ったブレスレットの事を聞かれる度に、思わず赤面する葵の姿があったとか。












                                             〜 終 〜















― あとがき ―
ずっと一緒だった双葉葵がなくなったら葵ちゃんだって落ち着かないはず・・・・という発想から書いたんですが
結局スケさんの悪い虫対策みたいな話になってしまいました(^^;)