千年
その子にそんな名前をつけたのは、ほんの気まぐれだった。 ちょっとした用で出かけた聖樹の森。 その日はとても穏やかな陽気で季節も穏やかだし、この国の信仰の核たる聖樹にお参りにくる人も多い日だった。 そんな間を縫ってさくさくと歩いていた五家宝麟は珍しく「先生!」などと呼び止められて・・・・。 「僕なんかが決めて良いの?子どもの名前を。」 人の良さそうな若夫婦の主人の方の願い出に思わず麟は聞き返してしまった。 いくら旧知の剣士が自分の話をしていたとはいえ、大事な娘の名前を通りすがりに呼び止めた術師などにつけさせていいものなのだろうか。 まして麟は外見はどう見てもただの子どもなのに。 しかし若夫婦の主人はにこにこ笑って頷く。 「私どもにしてみれば先生以上に高名な術師の方は存じません。どうぞ、お願い致します。」 迷いの欠片もない人の良さそうな顔に麟は少し苦笑する。 こんな風にくったくなく言われてしまっては断る方が悪人のような気がしてしまう。 (まあ、気に入らなかったら付け直してくれるだろうし・・・・) いつもは自分に流れる血筋故に自らの発する言葉に警戒をしている麟だったが、なんとなくその日はあまりに穏やかな陽気で、目の前にいる男もひなたぼっこの似合いそうな緊張感のない顔をしているし。 「うん、いいよ。」 「本当ですか!おーい、眞胡さーん!」 麟が頷くとぱっと顔を輝かせて男は少し離れたところに立っていた細君を呼ぶ。 おくるみを抱いてあやすように揺すっていた女性はその声に顔を上げるとこちらによってきた。 暢気そうな男と似合いな、きりっとした表情が微笑ましかった。 「先生が名前を付けてくれるそうだよ。」 「まあ、ありがとうございます。どうぞ、良い名をつけてくださいませ。」 にっこり笑ってその腕に抱えた赤子を差し出された時、ちょっと麟は安易に承諾してしまったことを後悔した。 赤ん坊はまだ人間の世界に馴染みきっていない、真っ新な魂を持っている。 だからこそ赤ん坊は麟の正体に気づくらしく、酷く怯えられることもしばしばだ。 けれど名を付けると言った以上は顔を見ずにつけるわけにもいかず、麟は赤ん坊の大泣きを予想しつつ、ゆっくり子どもを抱き取った。 ずしっと赤ん坊そのものの体重が腕にかかって、麟はそっと赤ん坊の顔を覗き込んだ。 その途端ほんのちょっと前までぐずっていたであろう、涙の跡を残した赤ん坊が へにゃっと笑った。 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「先生?」 主人に声をかけられて初めて麟は自分が赤ん坊を凝視していたことに気がついた。 「あ、なんでもないよ。」 (本当にびっくりしたけど。) なんせ今まで長いこと生きてきて、自分の顔を見た途端に笑った赤ん坊など初めて会ったから。 しかし赤ん坊の方は麟の心境などおかまいないしに、きゃっきゃっと笑って麟の方へ手を伸ばしてくる。 それを見て奥さんの方が言った。 「娘も先生がお気に入りのようですわ。」 「そう?・・・・可愛い、ね。」 口に出して本心だと自分で知る。 同時にちょっと呆れる。 (君ね、少し呑気すぎるよ?僕はどっちかというと危険人物なんだから。) そんな事を思いながらほっぺたをつっつこうとして差し出した麟の指を赤ん坊が握った。 小さくて暖かい手でぎゅっと。 ―― その時、胸に去来した想いはなんだったんだろう。 ただお天気があんまり長閑で、自分の手を握って上機嫌に笑う赤ちゃんがあんまり愛おしくて。 「・・・・君は僕を置いていかずに、側にいてくれないかな・・・・?」 (長く、長く生きて・・・・僕の側に) 小さく小さく、赤ちゃんだけに聞こえるように言ったので夫婦は気づかない。 でも・・・・赤ちゃんは全然変わらず、麟の手を離す気配も見せず。 麟は自然と柔らかく微笑んで、そっと口に乗せた。 ―― もしかしたら自分の心の底にある願望を潜ませた、その名前を。 「千歳、なんてどう?」 「・・・・まさかこんなに強くなっちゃうなんて思いもよらなかったけどね。」 庵の縁側でたった一冊の書物だけを手に座り込んでいた麟はため息混じりに呟いた。 今日もいつかの記憶にある日のように陽気は長閑で別に寒くはないのだが、座布団一枚もなしに板張りの縁側に座っているのはちょっとおしりが痛い。 しかし今、家の中は彼の恋人が大掃除の真っ最中だ。 麟にしてみれば長年不在にしていたとは思えないほど庵は綺麗なはずなのに、彼女は結構気になるところが多いらしい。 「何?何か言った?」 部屋の中から飛んできた声に麟は笑って答える。 「なんでもないよ。」 「そう?あ、それよりちょっと手伝って欲しいんだけどー!」 なんだか悲鳴混じりの声に麟は本を置いて腰をあげる。 入ってみれば手の届くギリギリのタンスの上に何か箱を上げようと、彼女が悪戦苦闘しているところだった。 「何してるわけ?」 「見てわかるでしょ!この上にあげたいの!」 「なるほど。で、挑戦してみたものの微妙に背が足りずにタンスの上にも乗せきれない、手を離せば頭の上から落っこちてくるという微妙なバランスのところで止まっちゃった、と。」 「わかってるならさっさとなんとかして!!」 「はいはい。」 笑いをこらえながら麟は彼女の背中越しに手を伸ばして荷物を支えると、いとも簡単にタンスの上に上げてしまった。 そう、今は彼女より頭1つ分大きいから出来るこんなちょっとした事が、なにより麟には嬉しい。 「ありがとう。・・・・それにしても」 タンスと麟の間で振り返った彼女はしみじみ麟を見上げる。 「本当に大きくなっちゃったのね。」 「あれ?残念?もしかしておねーさんは小さい子のほうが好み、とか?」 「違うわよ!!!」 繰り出されたぐーパンチを危なげなく受け止められて彼女はかなり不満そうな顔をする。 「まったくあー言えばこー言うは全然健在なんだから。」 「いーじゃない。可愛げ皆無なところも可愛いと思っちゃうぐらい好きでいてくれてるんでしょ?」 「なっっっっ」 「あ、真っ赤。」 「う、うるさーーーーーいっ!なんでそんな昔の事、ちゃんと覚えてるのよ!」 「そりゃ、ね。」 (君の事だし。) 付け足そうかと思った言葉は気恥ずかしいので引っ込める。 12年間の長い眠りの中で繰り返し繰り返し夢見ていたのは君の事。 (僕を動かして変えてしまった君のこと。) ふと麟は未だに赤い顔のままぶつくさ言っている彼女を見つめた。 意識して見ればあの子どもの頃の面影が見える。 あの危機感もなく、全面的に麟を慕っているかのような笑顔を向けた赤ん坊の顔が思い出されて麟は微笑した。 (あの頃、僕の世界にはまだ僕しかいなかったんだ。だから小さい君を見た時、僕の基準で僕のように生きてくれないか、僕の側に来てくれないかなんて少しだけ夢見た。僕より長く、千年も生きて。 ・・・・でも実際の君は) いとも簡単に自分だけだった世界に入ってきて、どんどん世界を変えてしまった。 そして気がつけば彼女の世界に焦がれ、どうしても彼女と世界を共有したくてどうしようもなくなるほどに惹かれた。 かつて自分が与えた名などに縛られることなく、しなやかに躍動的に輝き続ける彼女。 「千歳」 この名を自分がこんな甘い声で呼ぶ日が来るなんて、29年前のあの日には想像すらしなかった。 「えっ?な、何?」 呼ばれ慣れてないせいで少し居心地悪そうに見上げてくる彼女 ―― 千歳。 まさか同じ未来を夢見ることができるなんて思ってもいなかった、29年前の小さな小さな赤ん坊の記憶が現在の彼女にかぶって麟は思わず相好を崩した。 「??どうかしたの?」 「ううん、別に。・・・・大きくなったなって思ってさ。」 「?何が?」 「さて、なんでしょう。」 「えー!?」 不満そうに言う千歳はもう赤ん坊ではなく、美しく花開いた一人の女性。 (でも、変わらないところもあるんだよね。) 「気になるでしょ!なんなのよ?」 「さあね。」 好奇心と不満にキラキラ輝いた目で見上げてくる千歳のさっき捕まえたままだった手はもう、ほっそりとした大人の手だけれど、温もりはのそままに。 (だけどさ、僕はあの時にも言ったよね?) 「麟くん!」 「教えなーい。ところで、千歳。」 「?」 「いいの?」 「???」 「捕まってるよ、君。僕に。」 「!?」 言われ手始めてタンスと麟の間に挟まれて麟と至近距離で見つめ合っているという現在の状況に気がついたらしい。 赤くなるか、青くなるか迷っているような千歳の複雑そのものな表情に麟は吹き出した。 (相変わらず警戒心が薄いんだよね。) 「麟くん!!」 「ごめんごめん。でも・・・・」 皺の寄ってしまった眉間に優しく口づけをして 「いや?」 「・・・・・・・・・・・・・・ずるい。」 そんな風に言われたら誤魔化されてあげるしかないじゃない、とぶつぶつ言っている千歳の頬にそっとふれながら麟は言った。 「そのうちどうせわかっちゃうよ。そーだなあ・・・・千歳のご両親に会いに行く時にはきっとね。」 「え?それって・・・・」 言いかけた唇を、優しく麟は塞いだ。 〜 終 〜 |