背中越しの鼓動
倫は困っていた。 途方に暮れていたと言っても良い。 「・・・・どうしようかなあ。」 心底困って見つめた先にあるのは、自分の足先で揺れる鼻緒に切れた下駄だった。 ―― そもそも事の起こりは一刻ほど前のこと。 倫は花柳流の稽古を終えてお茶を煎れてくれたおこうと話をしてた。 いつもは食客やら客人やらで賑やかな花柳館も珍しく誰もいなくて、女の子同士だと自然と(というかおこうが持って行ったのかも知れないが)着物やお化粧の話になった。 この手の話はしょっちゅうおこうの「少しは女らしくしたら」というお小言に繋がるので苦手意識のある倫だったが、今日は珍しくおこうはそっちへは話を持って行かなかった。 〜お姐さんは小物に気を遣ってるとか、〜ちゃんの持っていた着物が綺麗だったとか、そんな話をしているおこうはとても楽しそうで。 思わず・・・・そう、思わず言ってしまったのだ。 『いいですね、そういうの』と。 その瞬間、おこうの顔が輝いた。 誇張でもなんでもなく、ものすごく輝いたのだ。 それはもうきらきらと。 しまった、と思った時にはすでに遅く。 『そうよね!!倫ちゃんも着てみたいわよねっっ!!』 いえ、着てみたいとは一言も・・・・などとは到底言い返せないようなおこうの勢いに乗せられて、気がつけば薄紅色の綺麗な着物を着せられ、薄化粧もされた上に花柳館を追い出されたのだ。 確か追い出される直前におこうが 『その姿で街を歩いてれば、みんな見惚れるわ!!』と叫んでいたような気がするが。 (おこうさん・・・・心配してくれてはいるんだろうけど。) 物心ついたころから香久夜楼に住み、花柳館で育ってきた倫にとってはおこうは姉のようなものだし、おこうにとっても妹のような存在だ。 だから年頃になってもさっぱり化粧っけもなく武道ばかりに没頭する妹を心配するような気持ちでおこうがこういう事をしてくれるのはわかっている。 わかっているだけに、無碍に帰る訳にもいかず市などをぶらぶらしていたのだが、どうにも街中だと人に見られているような気がして居心地が悪い。 何とはなしに郊外まできた所で、よりによって鼻緒が切れたのだ。 「ほんとに、どうしよう・・・・」 再び倫はため息をついた。 道の脇にあった切り株に腰掛けてみたまではよかったけれど、その先がどうにもならないのだ。 半分裸足で歩いて帰るには島原は遠すぎるし、鼻緒をすげ替えようにも出がけにばたばたしたせいで手ぬぐいの一枚も持っていない。 持ち合わせはあるのだけれど、駕籠を借りようにもそれ以前に人が通らない。 ピョロロロー・・・・ 遙か頭上を飛んでいく鳶の声に馬鹿にされたような気がして、倫はがっくりと肩を落としてしまった。 と、その時。 「・・・・もしかして、倫さん?」 「!?」 唐突に聞こえた聞き慣れた声に倫はがばっと顔を上げた。 「あ、やっぱそうだった。」 目の前でそう言って笑う青年を思わず倫はじっと見てしまった。 短く切った黒い髪と無邪気そうな笑顔。 考え事をしていたとはいえ、気配に聡い倫に気がつかれずにいつの間にか目の前にきていた実力。 どれをとっても本物の。 「野村さんっっ!!」 「わっ!?え、何?どうしたの?」 天の助け!とばかりに倫に袖を掴まれた野村利三郎はぎょっとしたように目を丸くした。 「実は鼻緒が切れて困ってたんです。」 倫がそう言って自分の片足に引っかかっているだけの下駄を指すと、合点がいったように野村は頷いた。 「ああ、なるほどな。そりゃ、こんなとこで鼻緒が切れちゃったら困るよね。」 「そうなんですよ!いつもの格好ならなんとでもなったんですけど、この格好じゃ無理も出来ないし・・・・」 はあ、と倫がため息をつくと野村は座っている倫に目線を合わせるように、すとんっとしゃがんだ。 途端に近くなった視線に倫の心臓がどきっと跳ねる。 「そういや、今日は女の子の格好なんだ?」 「え?あ、はい。」 慌てて頷いて、急に倫は居心地が悪くなった。 いつもと違う格好で野村に見られているのが妙に落ち着かない。 そんな倫の様子に気がついていないのか、野村はじっと倫を見て言った。 「俺、倫さんがそういう格好したの、初めて見た。」 その意外そうな言葉に倫はぎくりとして思わず口走っていた。 「に、似合わないですよ、ね。」 言ってしまってから目を伏せた倫の耳に届いたのは。 「え?似合うんじゃない?」 というあっけらかんとした声だった。 (え?) 驚いて倫が顔をあげると野村はいつもと変わらない顔で笑っていた。 「うん、いいんじゃない?可愛いと思うぜ。」 「か、かわいい?」 およそ言われ慣れていない言葉に倫がきょとんと目を丸くしてしまう。 しかし野村は動揺した風もなく、うん、と頷いた。 「いつもも凛とした感じだけどさ。そういう格好するとやっぱ女の子だよな。可愛い、可愛い。」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 倫はさっきとは別の意味で俯いた。 なんというか、妙に照れくさくて野村の顔を見ていられなかったのだ。 「あの・・・・」 「ん?」 なんとかこの照れくささを誤魔化そうと倫は中途半端に声を出して、視線を彷徨わせる。 そして、足に引っかかっている下駄が目に入ってやっと本題を思い出した。 「下駄。」 「へ?」 「そうだった。鼻緒をすげ替えないと。」 「あ、そういえば鼻緒が切れて困ってんだっけ?」 野村も思い出したらしくそう言われて倫は大きく頷いた。 「そうなんです。野村さん、手ぬぐいもってませんか?」 「おう!持ってるぜ。そのくらいやってやるよ。」 そういって力強く頷く野村がものすごく頼りがいがあるように見えて倫は思わず感動した。 はっきりいって野村がこんなに頼りになりそうに見えたのはこれが初めてだったのだ。 「じゃあ、お願いします。」 倫は引っかけていた片方の下駄を脱いで野村に差し出した。 「まかせとけって!」 下駄を受け取った野村は威勢良く懐に手を突っ込んで。 ・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「あ」 「え?」 「俺、今日手ぬぐい持ってなかった。」 「え、ええええっっ!?」 思わず倫は叫んでしまった。 多分に非難を含んだそれに、野村は悪びれもせず頭を掻いて笑う。 「そういや、洗濯し忘れてて昨日いっぺんにやったんだよな。そしたら全然乾かなくてさ。」 「なんで手ぬぐいぐらいが一晩で乾かないんですか?」 「それは手ぬぐいだけじゃなくて褌とか、着物とか色々溜め込んでいたからさ。」 なにを、胸をはって答えているんだ、と突っ込みたくなるほど断言する野村に倫は再びがくーっと肩を落とした。 野村に呆れた事は数あれど、これほど呆れたことがあっただろうか。 自分の失望も手伝って半ば八つ当たり気味にそんな風に考えた倫だったが、次の瞬間そんな思考は見事にすっとんだ。 なぜなら。 「というわけで、ほら。」 と言って野村が背を向けたからだ。 「・・・・?なんですか?」 「だから、鼻緒はすげかえられないからおぶってってあげるよ。」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・えええええっ!?」 数秒の間の後、再び倫は叫んだ。 「お、おぶってって。」 「だってそれしかないだろ?」 肩越しに振り返った野村にそう言われて倫は戸惑う。 確かに下駄がすげ替えられなくて、誰も通らないとなればあとはそれぐらいしか手はないかもしれないが。 「で、でも・・・・花柳館までになっちゃいますよ?」 このあたりは人もいなさそうだしまだいいが、花柳館は島原、つまり街中だ。 そんなところまで負ぶわれていったら人に見られるし、知り合いに見られた日には何を言われるか・・・・。 (野村さんに迷惑がかかるじゃないですか。) そう言いかけた倫に、野村はあっけらかんと笑っていった。 「別に平気だぜ。俺、結構体力あるし。それに倫さんみたいな可愛い子背負っていけるならどこだって行くって。」 「野村さん・・・・」 「で、どうする?俺に負ぶわれてみる?」 ふざけたような言葉に倫は思わず笑った。 「じゃあ、お願いしてもいいですか?」 「もちろん!まかせとけって!」 「・・・・それ、さっきも言いましたよね。」 「いや、今度はホントに大丈夫だって!」 「ふふ、それならお任せします。」 そう言って倫は向けられていた野村の背中に乗っかるように体を動かした。 「じゃ、行くぜ。」 号令と一緒に野村が立ち上がる。 ぐんっと高くなった視線に思わず歓声を上げそうになって、かわりに倫は少しだけ笑った。 「野村さん。」 今度は言葉の通り倫を背負っていても軽々と歩いていく野村に倫は囁く。 「何?」 「ちょっとだけ・・・・楽しいです。」 「お、余裕じゃん。それなら」 「え、きゃあっ!」 いきなり小走りになった野村に咄嗟に倫はしがみつく。 「何するんですかあ!」 「はははっ!驚いた?」 「当たり前ですっっ!!」 怒りながら、それでも声に笑いが混じるのを倫自身わかっていた。 今まであまり意識したことはなかったけれど、野村の背中は意外に広くて倫一人背負っていてもびくともしない感じがした。 着物越しに伝わる体温が暖かくて、くすぐったくて。 「野村さんって意外と頼りになるんですね!」 「意外とは余計だって!」 心外と言わんばかりの声に、倫は声を立てて笑った。 ―― 一人で考えていた時はあれほど遠く感じた花柳館までの距離がとても短いような気がしながら。 ちなみに、花柳館で倫を迎えたおこうが「野村君・・・・大穴ね」と呟いたとか、呟かなかったとか。 〜 終 〜 |