ネクタイ 〜 奥様の試練、旦那様の至福 〜



―― 幕末。

開国を決めた日本には外国から様々な文化が流れ込んだ。

写真、造船、武器・・・・その中で日常的に身につけられ、かつ一定以上の教養と財力があることを自然と主張できる洋装は財界人や政治家の間で好んで着られるようになった。

・・・・となれば、この男が黙っているはずがないわけで。

「陽之介さん、着られました?」

陸奥邸の一室、普段は寝室として使っている部屋の前で倫はピッタリとしまっている襖に向けて声をかけた。

普段であれば陽之介の着替えなどを手伝うのは倫の仕事の一つなのだが、今日はそう言うわけにいかなかったのだ。

なぜなら、何やら大きな袋だの箱だのを抱えた陽之介が帰って来るなり。

『今から着替えるからお前はちょっと外でまってろ』と言って寝室に籠もってしまったからだ。

もちろん『手伝います』と言ったのだが、『いいから待ってろ!』と言われてしまえば、無理に手を出すわけにもいかない。

(それになんだか陽之介さん、ご機嫌だったし。)

寝室に籠もる前に見た陽之介の顔を思い出して倫はため息を一つついた。

待ってろと言った陽之介の顔はいたずらをする前の子どもを彷彿とさせるものだったから、きっと手伝ってしまってはいけないのだろう。

分かりにくいようで分かりやすい夫の性格を理解している倫は、大人しく寝室の前で待ちぼうけをしているのというわけである。

(何を着てるのかわからないけど、少し遅いよね。)

陽之介が籠もってからそろそろ半刻はたとうかとしている。

「陽之介さん?」

いい加減に気になって何度目かの声を倫がかけた、その時。

「オーケー!パーフェクトだ!」

明るい声とともに、襖が勢いよく開いた。

そして、得意満面の顔で立っている陽之介を見て倫は目を丸くしてしまった。

「陽之介さん、その格好・・・・」

呟いて倫は上から下へ陽之介の格好を見る。

陽之介が以前着物の下に着ていたシャツとは違い、糊のきいた襟付きの白いシャツ。

細身の紺色のズボンと上着は倫でも聞いたことのあるスーツという異国の男性の服だ。

所謂、洋装に身を包んだ陽之介は予想通りの倫の驚きっぷりに満足して言った。

「へへ、どうだ?驚いたか?」

「それは、もう・・・・。いつのまにこんな服を作っていたんですか?」

「ちょっと伊藤の奴に紹介してもらってな。で、どうだ?」

そう言って覗き込まれて、倫はきょとんっとしてしまった。

「?何がです?」

「ホワット!?この格好の感想にきまってるじゃねえか!」

大げさに非難されて倫は苦笑してしまった。

(私に見せて驚かせるために一人で着たんだ。)

しかも感想を期待して。

政界では切れ者として知られている陽之介が時々こういう子どもっぽいところを見せてくれるのが倫には嬉しい。

(感想なんて決まってるのに。)

くすりと笑って倫は素直に言った。

「素敵ですよ。私が今まで見た誰より洋装が似合ってます。」

別にお世辞を言ったつもりはなかった。

もともと目鼻立ちがしっかりしている陽之介には洋装のスーツが当たり前のように似合っている。

その証拠に側にいるだけでちょっとドキドキする・・・・というのは隠して笑った倫に陽之介は一瞬黙りすぐに胸を張った。

「そ、そうだろうな。オレもオレ並に洋装を着こなしてる奴は見たことがねえよ。」

「そうですね。」

「まあ、似合わねえより似合った方がいいしな。それに・・・・」

「?陽之介さん、それなんですか?」

まだまだ続きそうな陽之介の言葉を自然に遮って倫は陽之介が手に持っていた布を指さした。

「ああ、これか?これは「ネクタイ」ってやつだ。」

「あの首に付けているものですか?」

「知ってるのか?」

「ええ。前に木戸さんがつけていらっしゃいましたよね。」

「ああ、そういやあつけてたか。」

頷いて微妙に顔をしかめる陽之介に、倫は首を傾げた。

「つけないんですか?」

「へ?あ、いや・・・べ、別につけねえでも格好つくだろうが。」

その言い方に倫はぴんっときた。

「上手く結べなかったんですか?」

「うっ・・・・」

想いを通わせる前であったなら憎まれ口の一つや二つ飛んできたであろう倫の鋭い切り返しだったが、今の陽之介は気まずそうに口ごもっただけだった。

妙に可愛らしいその反応に倫はクスクス笑ってしまう。

「わ、笑うな!」

「はい・・・ふふ。」

「笑うなって!お前なあ、意外と難しいんだぞ?これ結ぶの。」

「そうですか?」

「ああ。どうも上手く形にならねえ。」

「貸して下さい。私がやってみますから。」

倫がそういうと陽之介は素直にネクタイを差し出した。

薄い青の柔らかいそれを受け取って倫は木戸や伊藤が結んでいたネクタイの形を思い出しながら陽之介の首にするっと回した。

「ええっと、こんな形で・・・・」

一週回してまずは普通に結んでみると、当然一重の方結びになる。

「?あれ、こうじゃなくって確か布が前にきてて・・・・」

結んでみた布をほどいて手前に回してみると、今度は結び目にならない。

「?」

首を捻った倫はネクタイをよく見ようと自然に半歩前にでた。

その距離にどきっとしたのは陽之介の方だ。

倫はもともとあまり甘えてくる方ではないから、抱きしめるにしても距離を詰めるにしても陽之介からの事の方が多い。

なので倫から自然に寄り添ってくれるような態勢に珍しくドキドキしてしまう。

(たく、普段こいつが甘えねえから。)

自分が動揺してしまうのを倫のせいにして陽之介は目線だけちらっとさげた。

いつもこの角度からみる倫は意識を陽之介に向けているのでじっと見ると「あまり見ないで下さい」と文句を言われるのだが(それはそれで可愛いけど)、今はネクタイに夢中なので陽之介の視線に気がついていないらしい。

(他に見る物もねえし。)

言い訳めいた呟きを心の中でして、陽之介は倫を視線でなぞった。

(・・・・結構、肌が白いんだよな。睫も長いし。・・・・頬とか柔らかいし。全体的に気は強そうなんだがな。)

でもいつもはきりっとして落ち着いた表情を浮かべている倫だけれど、今は上手くネクタイが結べないのかちょっと眉間に皺をよせて困ったような顔をしている。

時折首を捻ったりしながら細い指で一生懸命ネクタイをあっちへやったりこっちへ結んだりして。

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんつうか、アレだな。)

すげえ、可愛い。

そう思ってしまった自分に陽之介はさすがにちょっと照れて視線をそっぽへ向ける。

けれど、やっぱりそれはすぐに倫にもどってしまって。

―― 数分後。

「・・・・う、ん。こんな感じでどうですか?」

かなり悩んだものの、蝶々結びを片方崩したような形で収まりをつけた倫は陽之介の反応を伺うべく顔を上げた。

その途端。

ちゅっ

「!?」

額に降ってきた暖かい感触に倫は驚いて反射的に飛び退こうとするけれど、いつの間にか背中にあった陽之介の腕に阻止されてしまって逃げることもできず。

「陽之介さ・・・・んっ!」

額に続いて唇に降ってきた口付けは軽く触れただけで離れていったが、「いきなり何をするんですか」と抗議しようとした倫の言葉は見事に喉に詰まってしまった。

なにせ。

(な、なんでそんなに嬉しそうな顔してるんですか!)

と思わず叫びたくなるほど陽之介は満面の笑顔だったから。

夫婦になったとはいえ、どうにも陽之介の笑顔にどきまぎしてしまう倫に陽之介はこつっと額を合わせる。

とくんっと一際大きくなる鼓動に肩を竦めた倫に、陽之介はとどめの一言を囁いた。

「・・・・お前ってマジで可愛いよな。」

「!?!!」

甘い囁きに目をまん丸くしてしまう倫を見ながら陽之介はにっと笑った。

「気に入った!おい、倫。これから毎日これ結べよ!」

「え・・・ええ!?」

ぎょっとして叫ぶと途端に陽之介は不満そうな顔でじろっと倫を見た。

「なんだよ、嫌なのか?」

「あ、いえ、その嫌っていうか・・・・」

ネクタイを結ぶだけならかまわない。

それは普通に身支度を手伝うのと同じだし。

けれど、なんとなくその後の一連の行動まで全部毎回やりそうな予感がひしひしとするのだ。

(こ、こんなに心臓に悪いことを毎日するの!?)

それはちょっと寿命を縮めそうな気がする・・・・と思ったものの、さすがにそうは言えない倫の沈黙を陽之介はさっさと肯定ととることにしたらしい。

「やってくれんだよな?」

「・・・・はい。頑張ります。」

「よし!」

観念して頷いた倫に、陽之介は嬉しそうに笑った。

―― こうして倫は毎日心臓に負担をかけながらネクタイを結ぶ羽目になり、その結び方が個性的だと話題になってますます陽之介が上機嫌になったとか。




















                                            〜 終 〜


















― あとがき ―
あの陸奥のタイを倫ちゃんが結んでるとポイント高いな〜とずっと思っていたのでこんな話に。