君に関わらなければ幸せになれた? 「忘れない?」と言われた時に頷いていたら幸せに? ・・・・そんな事、あるはずないのよ 空っぽの場所 「いってきまーす!」 定休日の札のかかった浪漫茶房の玄関から威勢良く千歳は飛び出した。 「いってらっしゃい。」 そのある意味10代の頃と変わらない娘の背中を見送って眞胡ははあ、とため息をついた。 「おや、どうしたんだい?眞胡さん。」 「別に、たいしたことじゃないのよ。また千歳が出かけただけ。」 大したことじゃないというわりには残念そうな眞胡の表情の幸永はくすっと笑った。 「またなんだね。」 「そう、またなんですよ。まったく毎週毎週出かけていって・・・・それで誰かおつきあいしている人がいるのかと聞いても、そんな人はいない、でしょ?なにをしているのかしら。」 「眞胡さん。」 穏やかに名を呼ぶ夫の声の中にこもった意味に気がついて眞胡は慌てたように言葉を継いだ。 「疑っているわけじゃないわよ?私たちの娘ですもの。間違った事をしているんじゃないって信じているわ。でもねえ。」 はあ、と再度ため息をつく妻の姿に幸永は少し笑った。 「孫の顔もみたい、という眞胡さんの願いは贅沢じゃないですよ。千歳ももう27だしね。・・・・ただ千歳に何か考えがあるならきっと話してくれるでしょう。待ちましょう、ね?」 「・・・・ええ。」 渋々頷く眞胡の機嫌を千歳が帰ってくるまでには直しておかないと、と幸永は席を立つ。 そして最近めきめき腕を上げた娘の特性お菓子とお茶でも振る舞おうと厨房に入った幸永はふと、お菓子の材料がストックしてある棚が少しあいている事に気づく。 「?」 なんとはなしにそこを覗いてみると昨日見たときから何種類かわずかづつだが材料が減っている。 「・・・・水飴・・・・黄粉・・・・五家宝?」 その頃、家を出た千歳は目的地に到着していた。 都のはずれ、田舎と言うには微妙な距離にたつ一軒の庵の戸の前に立って千歳は持ってきた荷物を下ろした。 「とうちゃーく!こんにちわー・・・・なんてね。」 微苦笑を浮かべて千歳は帯の間に挟んであった財布から小さな鍵を取り出す。 そしてそれを庵の扉に掛けてあった錠に差し込む。 かち、と小さな音を立てて錠をはずした千歳は深呼吸を1つした。 ・・・・この時が一番心臓によくないのは学習済みなのだ。 余計な期待をしてしまわないように。 (誰もいないんだからね。) 自分自身にそう言い聞かせるのはなかなか辛いけれど、やっておかないともっと辛い思いをするはめになるから。 覚悟を決めて千歳はがらがらと引き戸を引きあけた。 瞬間 ―― 『いらっしゃい、おねーさん』 ―― 耳の奥底に響いた声に耐えるように千歳はきゅっと唇を噛んだ。 行き過ぎる一瞬、懐かしい声の記憶は凶器になる。 でもいつの頃からか、それにも慣れた。 千歳はゆっくりと息を吐くと持ってきていた荷物を担いで扉を潜る。 「こんにちは。麟くん。」 幻の声にこんな返事を返せるようになるまで随分時間がかかった。 最初の頃など、この庵にきていきなり戸口で泣き崩れてしまった覚えもある。 でもそんな痛みもまた彼を一欠片も自分が忘れていないという証拠で、それはそれで嬉しいとさえ思えた。 「さてと」 足下を払って板の間に上がるとまずは縁側の雨戸を取り払う。 そしてきりっと襷がけをした千歳は戸棚から桶やらぞうきんやら取り出して戦闘態勢を整えると、庵の掃除を開始したのだった。 そもそも千歳が庵の事を思い出したのは麟が消えて2年近くたってからだった。 その半年は夢中でとにかく麟を探すことに集中していたので綺麗さっぱり忘れていたのだ。 しかし瑣巳も探しているというのに一向に行方が知れない毎日が続き、なんとなくあきらめの気配が漂ってきていたある日、千歳はふと思い出して瑣巳に聞いてみたのだ。 あの麟の住んでいた庵はどうなっているのか、と。 果たして庵はそのままの姿でそこにあった。 符術師という怪しげな職業の人間が住人だったせいか、近所の人間も手つかずだった庵に最初に足を踏み入れた時、千歳は愕然とした。 そこはかつて自分が無理矢理麟をたたき起こしに来たあの庵ではなく、すっかり廃墟同然になっていたから。 「・・・・これじゃ、麟くんが帰ってこれないじゃない・・・・」 ぽろっとこぼれ落ちた言葉に一番驚いたのは千歳自身だった。 (ああ、私、全然あきらめてなんかないんだ・・・・) 麟がいつかここへ帰ってくる事を。 あきらめ始めているような気でいた千歳にとって自分の気持ちが全然色あせていない事に素直にびっくりし、そして崩れ落ちるように泣いた。 泣いて泣いて泣いて・・・・翌日から千歳はがらっと変わった。 まず、埃のかぶった庵中を休日ごとに通い詰めて掃除し、壊れたところの修理を頼み庵を生き返らせる一方で休日ごとに彩都を歩き回って麟の姿を探すことをやめた。 それは1つの決意だったのだ。 麟を信じるという決意。 (麟くんは「気が向いたら覚えていて」って言った。) ものすごーく前向きに解釈すればそれは覚えていればまた会えると取れないこともない。 と、思うことにしたのだ。 だったら彼の帰る場所を無くすわけにはいかない。 そうして定休日ごとに庵に出かけるのが千歳の習慣になった。 「よーし、今日はここまでにしよ。」 一通りの埃を落としぞうきんがけをすませたところで千歳はぱんぱんと手を払った。 「まったく、この庵って小さいようで結構掃除するところがあるのよね。全部一人でやってたなんて麒伯さんも大変だっただろうなあ。おまけに麟くんの変な道具が一杯あるし。」 ―― 『余計なお世話だよ』 ―― また声が行き過ぎて千歳の胸を切りつけ、そして癒す。 「余計なお世話で結構よ。さーて、おやつにしますか。」 襷をはずして先ほどからわかしていた湯でお茶を入れる。 数は2つ。 「麒伯さんは飲んだり食べたりしないって言ってたもんね。」 独り言を言い、茶碗をお盆に乗せて持ってきた荷物の中から小さな包みを取り出した。 そして縁側に座る。 ぽかぽかと暖かい日差しが気持ちいい。 「今日は五家宝。」 開いた包みの中に入っていたのは凝った作りの飴菓子だ。 「もっとおいしいのって思いながら作ってるうちに、今じゃうちの店の一番人気になっちゃったんだよ。」 ―― 『おねーさんはなんでも一生懸命になりすぎだよね』 ―― 「呆れられそうね。」 まさしくそんな表情の麟が浮かんで千歳は笑った。 実際に彼のそんな表情を見たのは何年も前のことなのに、何一つ色あせずに思い出せることに自分でも驚いてしまうけれど。 「・・・・でも、ね」 そっと持ち上げたお茶を一口飲むと柔らかい香りが広がる。 (これって遠くから見ると変な光景かしら。) ふとそんな事を思って千歳は苦笑した。 間違いなく変な光景に違いない。 事情を知らない人間なら縁側で一人で二人分お茶を並べて飲む変な人。 事情を知る人間なら黙って痛々しそうに目をそらすかもしれない。 それでも、誰もが麟の生存を信じなくなって、誰もが麟の存在を忘れても。 「待ってるからね。」 他の人から見れば幸せとは言えないだろう。 いつ帰るとも知れない人、まして生きているかすら怪しい人を待ち続ける生活など。 でも 「私の幸せは私が決めるの。誰がなんと言おうと、麟くんを待つ事が今の私の幸せなのよ。」 ―― 『・・・・馬鹿だね』 ―― 「大きなお世話、よ。」 晴れやかに笑って千歳は五家宝を囓る。 甘い飴の味の中に、ほんの少しだけお菓子とは違う苦さがあった事を千歳は気がつかないふりをした。 静月のさわやかな風が、千歳の頬に零れた透明の滴を優しくすくって通り過ぎた・・・・ 君に関わらなければ幸せになれた? 「忘れない?」と言われた時に頷いていたら幸せに? ・・・・そんな事、あるはずないのよ 君のいない幸せなんて、私はいらないんだから |
| ― 麟が目覚め二人が再会するのは2年後の事である ― |
〜 終 〜 |