男の事情
―― 色恋なんざ遊びだ、と思ってた。 大望を抱いた俺にとっちゃ女なんか必要ないし、そんな事に頭を使うなんてもってのほか。 ・・・・と、思ってたんだ、つい最近までは パラリ・・・・ 書物の頁を捲る微かに乾いた音がする。 そんな静かな定宿の一室で陸奥陽之介は机に向かっていた。 パラ・・パラリ・・・・ 一頁捲って、何を思ったか戻る。 パラ・・・・パラ・・・・ 捲ったと思ったら、また一枚捲る。 もし、今陽之介を見ている人間がいたら、その動作が徐々に苛立たしげな物に変わっていくのがわかっただろう。 頁を捲ったり、戻ったり、行ったり来たりを繰り返して・・・・ 「あーっ!!くそっ!!」 とうとう陽之介は天井に向かって叫んだ。 「ちくしょう、頭にはいりゃしねえ。」 忌々しげに吐き出して陽之介は畳にひっくり返った。 実は、陽之介がこんな事をしているのはこれが最初ではなかった。 畳にひっくり返るまでいったのは初めてだが、ここ数刻なんども本を投げだしかけた。 と、そんな事を聞いたらきっと周りの人間はぎょっとするに違いない。 なにせ、この陸奥陽之介という男、学問好き、理屈好きの代名詞のような男だからだ。 やや短気なところはあるが、基本的に書物を持てば没頭する性格のはずだ。 「・・・・はあ」 ものすごく珍しい事に陽之介は天上を見上げたまま、ため息をついた。 (・・・・なんなんだよ、一体) 天井に向かって心中一人ごちて・・・・陽之介は小さく舌打ちした。 (なんで・・・・俺があいつのことなんざ考えなくちゃいけねえんだよ。) あいつ。 そう考えただけで何もないはずの天井にふっと一人の少女の面影が浮かんだ。 栗色の髪の若い鹿のように俊敏な少女の。 (年下のくせに、あんな小生意気な女。) 陽之介が大口を叩いたり、振り回したりしてもいつも少し困ったような顔で、「しょうがない」という顔をしている。 でも・・・・絶対に陽之介をバカにしたり拒絶したりしない。 (可愛くねえんだよ、あいつは。) 無愛想という程ではないが、誰にでも愛想を振りまいたりしない。 けれど・・・・。 途端に脳裏に蘇った記憶に、陽之介は目に見えて顔を歪めて叫んだ。 「あーーーーっっ!!なんで俺がこんな事で!」 「・・・・大きな声じゃの、陽之介。」 「え!?」 自分しか居ないはずの部屋に唐突に聞こえた半ば呆れ、半ば面白がる声に陽之介はぎょっとして跳ね起きた。 そして振り返ってみれば何時の間にやら部屋の戸口に背を預けるようにして才谷が面白そうな顔でこちらをみている。 「さ、才谷さん!?」 「よお、邪魔しちゅう。」 「い、い、い、いつから!?」 「さあ?おまん、本気で気づいてなかったんじゃの。」 くっくっと才谷にしては意地悪く笑われて、陽之介は顔に火がついたように熱くなるのを感じた。 (よりによって才谷さんに!) 誰よりも尊敬している相手にこんな姿を見られてしまった事に、頭を抱えていた陽之介の前に才谷はどかっと座った。 「で?」 「は?」 「とぼけんでもええ。いや〜、とうとう陽之介にも春がきたか。」 「はあっ!?」 上擦った声で目を丸くする陽之介を見て、才谷は遠慮無くゲラゲラ笑った。 「ちょ!何言ってるんですか!才谷さん!俺は別にっ!」 「隠すな隠すな。どうせその女子の事で頭がいっぱいで本も読めんかったんじゃろ?」 「べっ!別に俺は倫のことなんかっっ!!!」 「ほぉ、別にわしゃ、花柳館のお嬢ちゃんのこととは言っとらんがのお?」 「!!!!」 カマをかけられて見事に引っかかった事に気が付いた陽之介は、酸欠の金魚よろしく口をパクパクさせるが、生憎なにも出てこなかった。 なにぶん、図星なだけに反論できない。 「ほおか。やっぱり花柳館のお嬢ちゃんだったか。」 「やっぱりって・・・・」 なんでわかったのか、と思う。 なにせ自分で思い返してもあんまり良いとは言えない言動ばかりなのに。 しかし才谷は明るく笑うと言った。 「おまん、あの子にちょっかいばかりかけちょったからな。かまってほしくてしょうがなかったんじゃろ?」 「なっ!」 (何でこの人はっ!) ・・・・そう、ずばずば核心を突いてくるのか。 とはさすがに陽之介も言えずにしばし口許を引きつらせた後、自分を落ち着かせるように息を吐き出してから言った。 「・・・・でも、俺はこんな事を考えてる時じゃないんです。大望を前に、色恋なんぞにうつつを抜かしてる場合じゃ・・・・」 「なにを言っちょるか!」 至極まっとうな事を言ったはずなのに思い切り呆れたように言われて、陽之介は「は?」と目を丸くしてしまった。 その陽之介に向かって才谷はびしっと胸を張って言い切った。 「わしの頭ん中は四六時中鈴花さんで一杯じゃ!」 「へ?」 さすがに尊敬して心酔している人物の言葉とはいえ、陽之介は耳を疑った。 陽之介を励ますために言ったとしても突飛すぎる。 「鈴花さんって、あの例の新選組のはちきんですか?」 そう言えば、本人に会ったこともないのに名前を覚えてしまっているほど聞かされている、という事に陽之介は急に思い当たった。 (もしかして、思いっきり本気で言ったのか?さっきの。) 驚くような顔になっている陽之介に気づいているのか、いないのか才谷はやたらと良い笑顔で笑った。 「そうじゃ!これがまた良い女子なんじゃ。強うて、優しゅうて、気が付いて。いくら考えても飽きんぜよ。」 まるで自慢するように言われて、陽之介ははあ、と取りあえず頷く。 「でも才谷さんは俺よりずっと大きな事をしようとしてるのに、そんな事でいらついたりするのは邪魔だと思いませんか?」 実際、今の自分がそうなのだ。 自分で考える時間を区切れるなら別に悪くはないのだが、いかんせん、自分の頭なのにそうはいかない。 近頃は何をしていてもふっと過ぎる倫の面影に振り回されている。 そんな事を思い出して渋い顔をする陽之介の頭に才谷はいきなり手を伸ばすとぐしゃぐしゃとかき回した。 「陽之介は可愛いのう。」 「はあ!?ちょっ!才谷さん!!」 「わしは大望だけ抱ちょった時より、今の方がずっと強うなった。」 「え?」 「鈴花さんに出会って、わしはわし自身の望みも自分の描いた大望に重なってる事に気づいたんぜよ。そうじゃろ?この日本を朝廷と徳川の力を合体させて平和にすることができれば、わしは晴れてあん子を口説き落とすこともできる。 平和な世の中であん子を幸せにすることもできるんぜよ。」 「あ・・・・」 にかっと笑った才谷の顔に陽之介は引っかかっていた何かが崩れた気がした。 それを感じて、陽之介は少しだけ苦笑する。 (かなわねえよな。) ままならない自分の気持ちさえも力に変えてしまう、そんな型破りな男はこの人だけだ。 必死に自分の想いを否定しようとしていた自分がばかばかしくなってしまって陽之介は知らず知らずに肩に入っていた力を抜いた。 「そうですね、才谷さんならきっとできますよ。」 「おう、やってみせるぜよ。あー、こんな話をしちょったら鈴花さんに会とおなっちゅう。ちょっと行ってくるきに!」 「え!?才谷さ・・・・」 呼び止めかけた陽之介の言葉も空しく、あっと言う間に才谷は部屋を出て行ってしまった。 「・・・・相変わらず、すごい人だぜ。」 半ば呆然とそう呟いて、それから陽之介は急に込み上げてきた笑い逆らわず威勢良く笑った。 才谷がくる前、燻っていた気持ちが洗い流されたように綺麗になっていて、真ん中に残っているのは少しくすぐったいほど、優しい想いだけ。 「俺も行ってくっか。」 机の上で開きっぱなしだった本を勢いよく閉じて、陽之介は立ち上がった。 まだ時間は夕刻前だから、きっと稽古の終わった倫が花柳館で夕飯までの時間をすごしているだろう。 会いたい、とただ思って陽之介は宿を出る。 夕焼けに染まる前の空が妙に清々しくて、机の前で固まっていた身体を大きく伸ばすと、勢いよく歩き出した。 今日はもしかしたら倫の笑顔が見られるかも知れない、と想いながら。 〜 終 〜 |