下の下と中の下
「そういえば、私は中の下でしたっけ。」 のんびりした午後、珍しく執務が一段落したので倫と二人でティータイムを気取っていた陽之介は、唐突に倫が言った言葉にぶはっと吹き出した。 「わっ!?」 「おまっ・・・ごほっ!」 「だ、大丈夫ですか?」 驚いて手ぬぐいを差し出す倫からそれを受け取りながら、陽之介は何度か気管に入った物を吐き出すべくゲホゲホ咳をした。 不意打ちで熱いお茶が気管に入ったので、そうとうキツイ。 「げほっ・・・・って、倫!いきなり驚かせるんじゃねえよ!」 「驚かせるって。」 やっと咳が収まって開口一番その台詞に、倫はやや呆れたような目で陽之介を見た。 「まさかそんなに驚くと思わなかったんです。」 「そ、そりゃあ、よお」 自分でも過剰反応だという自覚があるだけに、渋い顔になってしまう。 その表情をどうとったのか、倫はため息を一つついて言った。 「今、陽之介さんと向かい合ってティーを飲んでいてふと思い出したんです。花柳館にいたときはこんな風になるなんて思いもしなかったなあって。」 「まあな。」 花柳館にいた頃、その頃は確かに陽之介は花柳館にちょくちょく寄ってはちょっかいだけ出していく客人で、倫はそれを呆れたように相手をしているだけだった。 「今でこそ大事にしてくれてますけど、あのころは本屋巡りの荷物持ちとかさせられたんですよ?」 その時の事を思い出したのかクスクスと笑う倫に、陽之介は少しバツが悪くなって頭を掻いた。 「んなこともあったな。」 「ありましたよ。あの時は稽古を切り上げて出てしまって失敗したって思いましたから。」 そう言いながら倫は一口紅茶を飲んで、それからにっこり陽之介に笑いかけた。 普段であれば思わず抱きしめたくなるような、可憐な可愛らしい笑顔。 ・・・・けれど、今は陽之介の背筋に何やら寒いものが走った。 そして悲しいかな、そういう予感という物は当たるのが常のようで。 倫はにっこり笑ったまま言った。 「おこうさんは上の下、絹緒さんは上の上、でしたっけ。」 (こ、こわっ) 真面目に陽之介は自分の十八番である逃げ足を久々に披露しようかと考えてしまった。 普段あまり怒ったりしないせいか、倫の怒りは静かで空恐ろしい。 常日頃感情丸出しな陽之介には、どうやったらこんな迫力の怒りが醸し出せるのか生憎見当も付かなかった。 ただわかるのは、倫が非常にまずい過去の思い出を引っ張り出してしまったということだけだ。 「あー・・・・倫?」 一応そっと伺ってみると、倫はため息をついてカップを口に運んだ。 不思議と洗練されたその仕草に見惚れる間もなく倫が言った。 「いいんです。別に根に持ってなんかいませんから。」 (持ってんじゃねえかっっ!!) かなり心の中では絶叫したが、すんでの所で陽之介は堪えた。 これ以上倫を怒らせたくはない。 怒らせたが最後、倫は暫く口も聞いてくれなければ触れさせてもくれないのだ。 たぶん弁がたつ陽之介の対抗策としてこれほど有効な物はないだろうが、有効なだけにそうそうなんどもは勘弁ねがいたい。 さてどうやって宥めたものか、と思っていると倫が静かにため息をついて・・・・それから急に、倫の怒気が霧散した。 「?」 「ごめんなさい。ちょっと意地悪でしたね。」 くすっと笑った倫はいつもの倫だった。 「!お、お前、俺をからかったな!?」 「ふふふ」 はっとしてくってかかる陽之介に、倫は楽しそうに笑ってみせる。 「だって、あの頃の陽之介さんが酷かったのは本当でしょ?少しぐらい今意趣返しさせてくれたって良いじゃないですか。」 女の範疇に入ってない、とか言われて結構傷ついたんですから、と少しだけふくれてみせる倫に、陽之介は怒っていいのか、安心していいのか判断しかねて、結局憮然としたまま椅子に沈んだ。 「しょーがねえだろ。あの時はそう思ってたんだからよ。」 「あ、開き直りましたね。」 「うるせえ。・・・・まあ、あの時は、だけどな。」 「?」 意味ありげに同じ言葉を付け足した陽之介の態度に、倫は首を傾げる。 陽之介が含んだ言い方を意味もなくするはずもない。 「あの時は、って事はその後は違うんですか?でもそれからも結構酷いこと言われてた様な気がしますけど。」 何が違うのだろうと不思議そうにしている倫をちらりと見て、陽之介はぼそっと言った。 「そりゃまあ・・・・違うぜ。あの時は本当にお前を女としてなんか見ちゃいなかったが・・・・」 そう言うと陽之介はそっと倫の髪に手を伸ばした。 小さな机を挟んで大分伸びた髪を絡め取られて、倫は鼓動が早くなるのを感じた。 さっきも言っていたように恋仲になる前がなる前だっただけに、不意の甘い仕草にまだ慣れない。 「陽之介さん?」 うっかり落としてしまわないようにカップを慎重に置いて問いかけた倫に、陽之介は少しだけ苦笑を浮かべて言った。 「あの後はたぶん、俺はお前の気を引きたかったんだよ。」 「気を引きたいって・・・・」 子どもですか、と付けたそうとした言葉は残念ながら喉の奥で詰まってしまった。 何故なら陽之介が身を乗り出して指に絡めた倫の髪に口付けたから。 「!」 「たぶん、だけどよ。お前が感情的になるのが見たかったんだ。お前って花柳館に出入りしてる連中には分け隔て無く如才ない感じだったからさ。」 誰にでも笑って、誰にでも肩入れして。 そんな倫を自分だけのために怒らせていたかったんだ、と。 「そりゃ、まあ、才谷さんみたいに笑わせることが出来りゃなおよかったんだろうけど、生憎と俺は憎まれ者だからな。怒らす方法は思いついても、笑わす方法は思いつかなくってよ。」 怒らせてばっかで悪かったな、と付け足す陽之介を倫はしばし呆然と見つめて・・・・それから口許を覆って俯いてしまった。 栗色の髪に隠れてしまった顔が見えなくても、倫が怒っているわけじゃないことは容易に分かる。 なにせ陽之介がまだ髪を絡めているせいで覗いている耳が真っ赤だから。 「倫」 「・・・・貴方って人は」 「ああ?」 「・・・・本当に、懐に入れた相手には甘いんですね。」 「悪いか。」 「もう・・・・」 そう呟いてやっと顔を上げた倫はやっぱり真っ赤で。 けれど、はにかむように笑って言った。 「だとしたら、きっと成功だったんですね。だって私は仲の良かった咲彦君や親切にしてくれた中村さん達じゃなくて、こんなに貴方が好きなんですから。」 そう言った倫の髪を陽之介はそっと引き寄せた。 そして近くなった耳元にいたずらを囁くように。 「今はそんなことしなくても、俺だけに構ってくれるよな?倫。」 「・・・・当たり前です。」 ―― 笑い合った二人の影が、そっと重なった。 〜 終 〜 |