船酔いの特効薬
明治もあけて二年。 今は珍しくもなくなった西洋式の蒸気船が一艘、日本を離れた。 安定した速度で外洋へとこぎ出したその船に、幕末の日本を駆け抜けた二人の人間が乗っている事を知っているものはごく僅かしかいない。 そのうちの一人、女だてらに新選組に所属し鳥羽伏見、甲府はては鶴ヶ城の開城まで刀を振り抜いた桜庭鈴花は ―― 現在、船酔いで船室の簡易寝台に沈みこんでいた。 「・・・・気持ち悪い・・・・」 ほとんど毛布に口元まで埋まって丸くなった鈴花は何度繰り返したかわからない呻きを再び漏らした。 離岸して内海を出るまでは何も問題なかったのだが、外洋に出た途端にこみ上げる吐き気に襲われて倒れたのが二日前。 以来、ずっとこの調子なのである。 (・・・・永倉さんが言ってた意味が今頃わかるなんて〜) かつて大阪で初めて舟に乗ると言った時に当時の同志だった永倉が船酔いについて説明してくれたが、その時はよく理解できなかったのだ。 それを今身をもって知る鈴花である。 「う〜・・・・」 呻いて鈴花は体を丸めた。 声を出しただけで吐き気を堪えきれなかった二日前に比べると大分体調は良くなっているが、それでも消耗した体力と胃の痛みに全身が重い。 (船酔いがこんなに辛いなんて思わなかった・・・・斎藤さん、あの時は親身になって心配しないでごめんなさい〜) 思わずいつぞやに盛大に船酔いの実例を見せてくれた同志に詫びてしまう。 あの時はいつも冷静沈着な斎藤の弱いところを初めて見た事が意外で、心配以上に驚きが先に立ってしまったのが否めなかったから。 今なら心の底から同情できる自信がある・・・・今あっても意味はないが。 (・・・・情けない・・・・) 毛布の下で鈴花は弱々しくため息をついた。 今まで三度は船に乗って一度も船酔いなどしなかったというのに、まさか今船酔いするなんて思ってなかった。 (よりによって、『最初の』船旅でこんなになっちゃうなんて・・・・) 鈴花が落ち込みかけたその時、小さく叩く音と共に戸が開いた。 一瞬、反射的に身を固くした鈴花だったが入ってきた人の姿を見てすぐに力を抜いた。 くせっ毛の髪に、袴姿にブーツの取り合わせ、今は心配そうな表情が乗っかっているが何処か愛嬌のある顔立ち ―― 見間違えるはずがない、鈴花がずっと求めて数日前やっと再会を果たしたばかりの恋人、才谷梅太郎だ。 「鈴花さん、なんちゃーがやないか?」 「・・・・梅さん・・・・」 くるまっていた毛布から顔を出して力無く名前を呼んでくる鈴花の頭を、才谷はよしよしと撫でる。 そして手に持っていたお盆を近くの台に置いて自分も寝台の縁に座った。 「おかゆを作ってもろーたが、食べられるか?」 ほこほこと湯気を立てる椀に目をやって鈴花はしばし考える。 食べられそうだし、食べたいと思うが熱々の状態はなんだか瀕死状態の胃には厳しそうだ。 「もう少し冷めたらでいいですか?」 「いいぜよ、いいぜよ。そんなら茶でも飲むが?」 差し出されたお茶の方には素直に頷いて鈴花はなんとか体を起こした。 それを手伝って才谷は鈴花の手に程よく冷めた湯飲みを持たせてくれる。 零さないように注意しながら口に運べば、思いの外すんなりとお茶は喉を通過していき、鈴花は思わずため息をついた。 「少しは気分はよおなったようやき。」 「はい。大丈夫だと思います。お茶飲んでも気持ち悪くならないし・・・・」 「そりゃあよかった。顔色もちっくたあよおなって、わしも安心したぜよ。」 そう言って笑う才谷の笑顔に、鈴花の胸の内に何とも言えない安心感と甘い感情が生まれる。 (梅さんのこんな笑顔、久しぶり・・・・) 鈴花がそう思うのも無理はない。 才谷が暗殺されかかって鈴花の前から姿を消したのはもう三年も前になる。 その前は毎日のように見ていた笑顔で、その後は毎日求め描き続けた笑顔。 なんだか涙が出そうになって鈴花は慌てて茶碗を才谷に渡すと口元まで毛布にくるまった。 「どうしたが?」 「なんでもないんです。」 「?そうじゃ、鈴花さん。他に欲しいもんはないがか?」 「え?うーんと、特には・・・・」 「そんなら茶をもう一杯もろーてきちゃおーか?」 そう言って才谷が茶碗を手に腰を上げた。 その背中を見た瞬間 ―― くいっ 「あ?」 袂を引っ張られる感覚に、才谷が振り返る。 ほとんど無意識的に才谷の袂へ手を伸ばしていた鈴花は、振り返った才谷と目があってはっとした。 「あっ!ご、ごめんなさい。」 (な、なんで掴んじゃったのかな、私。) 才谷の背中を見た時、才谷が去ってしまいそうだと思った時、途端に酷く心細くなってしまった。 だからつい、とっさに。 (・・・・そんな小さな子どもみたいじゃない。) 恥ずかしい、と思う反面鈴花の手はくっついたように才谷の袂を握ったまま離れない。 「えっと、その・・・・」 なんと言ったらいいかわからないけれど、とにかくなにか言おうとして顔を上げた鈴花は ―― 「・・・・梅さん」 「ん?」 「・・・・なんでそんなに笑ってるんですかぁ。」 鈴花が思わず恨みがましい口調になってしまったぐらい、才谷は笑顔だった。 そりゃあもう、全開の。 しかも指摘されるまでそれに気付いていなかったのか、才谷は僅かにバツが悪そうな表情になると片手で口元を隠す。 「ほがーに顔にでちゅうか?」 「出てますけど・・・・そりゃ、子どもみたいなこと言っちゃいましたけど、そんなに笑わなくても・・・・」 「いやいや、違うぜよ。」 「じゃあ、なにがそんなに可笑しいですか。」 「いやあ、弱っちゅうおまんを見るんは初めてじゃと思っとった。」 「弱るって・・・・」 「おまんはいつでも凛としちょったからのお。」 「そうですか?」 「そうぜよ。どがーにつろうても弱音ははきゃーせん。いつも前を見てきりっとしちょった。」 「・・・・買いかぶりすぎです。そんなに強くないですよ。」 あまりの高評価に頬が熱くなるのを感じながら鈴花が否定すると、至って真面目な顔で才谷が首をふる。 「いやいや、わしはおまんのそーいう所に惚れたじゃ。げに、間違っとりゃーせん。やけど」 そこまで言って、才谷の顔がころっと笑顔に変わって 「鈴花さんには悪いが、弱ってわしを頼ってくれちゅうおまんが可愛くてにやけちゅう。」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・梅さん」 「ん?」 「前から言おうと思ってたんですけど」 「なにをなが?」 「・・・・顔に出すぎです。」 その言葉に才谷は一瞬きょとんとした顔をして、それは嬉しそうな顔をして寝台の端に手をつくとそっと屈み込んで。 「〜〜〜〜〜〜」 「おまんも人のこと言えんがよ。真っ赤じゃ。」 「梅さんのバカ。」 「そうちや。わしは鈴花さんバカじゃ。」 「胸を張って言わないで下さい!」 「あっはっはっ!」 豪快に笑う才谷の声を聞きながら、こっそり決意した。 (今度は絶対、梅さんの弱った所、見てやるんだから!それからこの振り回されたお返しも!) そのためにはまずこの船酔いをどうにかせねば。 「おかゆ下さい、梅さん。」 「おお、元気がでちゅうな。」 「はい!」 ―― で、翌日には全快した鈴花と、ちょっとだけ残念そうな才谷の姿が甲板にあったとか。 〜 終 〜 |