Tame event1「ぞうきんがけ」
(―― 変な人。) 目の前の光景を半ば呆然と見つめながら、倫はそう思った。 というか、思わずにはいられなかった。 何せ、目の前には。 「ぅおおおおおおおー!!」 どだだだだだだっ! ものすごい勢いで青年が一人、道場の床に雑巾がけをしていくという様が展開されている。 しかもその青年はほんの一時ほど前にはこの花柳館と縁もゆかりもない人間だったはずなのに。 「・・・・呆れるほどの勢いだな。」 煙管を弄びながらぼそっと隣で庵が呟いた。 その言葉に思わず倫も頷いてしまう。 そのぐらい、青年 ―― 野村利三郎の雑巾がけには迫力があった。 腰を中段に上げるという人間としてはきつい姿勢にもかかわらず、走るような速度で道場の隅から隅まで、きっちり木目にそって雑巾をかける。 ちなみに、中村や相馬も手伝ってくれているのだが、大半の床は野村の独壇場だ。 「っおおおおおおーーーー!!」 どだだだだだだだー! ものすごく騒がしい足音を建てて突っ走っているものの、よく見れば野村の動きにはそつがない。 (ただ勢いだけで走ってるってわけじゃなくて、ちゃんと雑巾がけできてるし。) 素人(?)にありがちな拭いているつもりで拭けていないという状態ではないようだ、と思ってまたも倫は思ってしまった。 (・・・・変な人。) 雑巾がけは足腰の強さを要求されるものだ。 道場の下っ端がよくそれをやらされるのは剣術に足腰の強さが欠かせないから、という理由もある。 つまり、雑巾がけが上手いという事はそれなりに剣術の腕もたつと見てもいいぐらいかもしれない。 なのに、ここへ連れてこられた原因は香久夜楼で金子もないのに、飲み食いして働いて返すと言い張ったせい。 (「働いて返す」っていうのは、ある意味真面目なの?いや、でも・・・・) 真面目というより能天気。 「ぷっ!」 ぱっと脳裏に浮かんだその言葉が恐ろしいほどしっくりきて思わず倫は吹き出した。 と、隣にいた庵が珍しく驚いたような顔をして倫の方を見た。 「どうした?」 「はい?」 「お前が吹き出すなど、珍しい。」 「そうですか?」 (別におかしかっただけだけど。) 何か変だっただろうか、と首を捻っていた倫は知らなかった。 ―― 年よりも大人びて見える倫が、雑巾がけする野村を見て子どものように笑っていた事を。 ちょうどその時。 「ぅおおおお、おっ!?」 どだだ・・がっっ!ずだん!ごろごろごろっ!! 「野村!?」 「野村さんっ!?」 雑巾がけしていた勢いで躓いて達磨よろしくゴロゴロ転がっていく野村の姿に思わず倫と相馬が驚いた声を上げて駆け寄っていく。 その様子を呆れたように見ながら庵は煙管を口にくわえた。 見つめる先には、壁にぶつかって止まった野村の近くで堪えきれなくなったように笑っている倫の姿。 「そんなにおかしかった?俺。」 「おかしいっていうか・・・ふふ・・・あはは!」 「野村、お前・・・・」 「あー!呆れないでくれ!親友!」 「あはは!」 あまり広いとは言い難い道場に倫の明るい笑い声が響く。 その声を聞きながら、庵はほんの僅か口角を上げた。 「・・・・なるほど、拾い者かもしれないな。」 庵の小さな呟きは、道場の騒ぎに紛れて、誰の耳にも届かなかった。 (―― 不思議な子だな。) 目の前の光景を見ながら、野村はそう思った。 偶然転がり込んだ香久夜楼で、これまたちょうど催された祝宴でしたたか呑んで、お開きになったのをきっかけに外の空気を吸おうと思って外へ出たところでその少女の姿はが目に入ってきた。 月を見上げ、佇む少女の姿が。 (志月倫さん、だったっけ。) 昼間、道場の雑巾がけを終えた所で紹介されたのを思い出す。 ぴしっと伸ばされた背筋、隙のない身のこなしがこの道場の武芸者の一人であるという紹介を裏付けていた。 女の子なのに、武芸をするというから取っつきにくいかと思いきや、雑巾がけで勢い余って転がった野村を心配して駆け寄ってきてくれた。 (いや、あれは驚いただけかも?) 切れ長の目をまん丸くして駆け寄ってきた倫は年相応の女の子に見えた。 ・・・・それなのに。 (同じ子、だよな?) 思わずそう思ってしまうほど、今、月明かりの下に立っている少女は雰囲気が違った。 何か考え込んでいるのか、野村の気配にも気が付かず、ただ真っ直ぐに月を見上げている倫はうかつには触れないほど神々しくも見えるし。 ―― 今にも崩れ落ちそうなほど、脆くも見えた。 「え・・・っと、倫さん?」 「!?」 ぱっと振り返った倫の視線の強さに、野村はぎくっとする。 「あ、ごめん。」 反射的に謝ってしまった野村に、倫は一瞬きょとんっとしたような顔になって、すぐに首を横に振った。 「ちょっと驚いただけです。すみません。」 「え?や、別に君が謝らなくても・・・・」 「?だって通るのに邪魔だったでしょ?」 「あー、そういうわけじゃなんだけど。」 どうやら、さっきのごめんを道を空けて欲しいという意味に取ったらしい倫に野村はちょっと困って頭を掻いた。 (まさか、「見ててごめん」なんて言うわけにいかないしなあ。) さすがにそれでは危ない人のようなので、さっさと誤魔化す事にした。 「あー・・・月!」 「は?」 「月、綺麗だね。」 「はあ。」 失敗した。 明らかに不審そうな顔をされてしまって、細かい事は気にしないたちの野村でもさすがにちょっとへこむ。 (おいおい、初日で俺、危ない人かよ。) これからしばらく顔を合わせる相手に変な目で見られるのは嫌だな、と野村が思ったその時。 「・・・・ふふ」 耳に入った小さな笑い声に、野村は驚いて顔を上げた。 見れば、倫が妙に可笑しそうに口許を押さえていて。 「野村さん。」 「え?何?」 「なんにも考えずに言ったでしょ?」 「あ・・・・ばれてた?」 言われたとおり深く考えずに言ったことがばれていてバツが悪くなってそう言う野村に、倫は笑いながら頷いた。 「はい。・・・・でも、ありがとうございます。」 「へ?」 「大分楽になりました。」 何が、とは倫は言わなかったがなんとなく野村も聞き返す気にはならなかった。 ただ、倫が笑っているのが何故か少し嬉しくて。 「役にたったならなによりだよ。」 「ふふ」 胸を張って言ってみた言葉にまた笑われてしまった。 そして「それじゃあ、おやすみなさい。」と言って香久夜楼へ入っていく倫を見送って、野村はぽつり、と呟いた。 「・・・・不思議な子だな。」 ―― 慶応元年、閏五月 動乱の京の片隅で、小さな蕾が生まれたことを知る者はまだいなかった・・・・ 〜 続 〜 |