―― 『また会いましょう』 ・・・・何故、あの声が耳から離れないのだろう・・・・ 夜想曲 しんっと冷たく冷えた夜の闇にとけ込んでしまうかと思うほどに、透明な音色が響いていた。 かつて都の栄華を極め、この福原の地に新都すら築こうとした者の館とは思えないほど静まりかえった邸に、その音は染みこむように静かに流れる。 岩の間を縫って零れるように流れる清水のごとく、闇の、夜の邪魔をすることなく。 甲高い音色でありながら、耳障りな響きは欠片もない。 実際、月も中天にあがりかなりの深夜であるというのに、一人、館の縁に座り音色を奏でる青年を咎める者は一人もいなかった。 唇に笛を当て、音色を奏で続ける青年は月の光に照らされ美しいとさえ言える景色を自らが作り出している事など気にもせず一心に笛を奏でている。 強いてこの雰囲気に水を差しているのは青年の手と首に巻かれた戒めの鎖だろうか。 けれど、それすら月の光りを受け銀の輝きを放ち繊細な装飾にすら見える。 ―― ふと、何の前触れもなく音が途切れた。 区切りでもなく、酷く中途半端に旋律を絶った青年は、今まで笛を奏でていた時には浮かべなかった表情を浮かべる。 眉を寄せ、何かを考え込むような、そんな表情を。 「・・・・敦盛」 「兄上!?」 ふいに夜闇を破る人の声に驚いて振り返った青年 ―― 平敦盛は少し離れた縁に立っている兄の姿にますます驚いた。 しかし兄、経正のほうは弟の意外そうな表情に穏やかな笑みを零して、弟の側に歩み寄る。 「良い月夜に、お前の笛の音が聞こえてきたから久しぶりに私も風雅に浸っていたのだよ。ここのところ厳しい戦いばかりが続くからね。」 「・・・・はい。」 経正の言うとおり、平家の戦況は日増しに悪くなるばかりだ。 (・・・・それなのに私は・・・・) 己の心を振り返り、敦盛はどこか後ろめたい気分にとらわれる。 今、平家の一門であるならば考えるべきは平家の再興・・・・だというのに、自分の心に今有るのは。 「敦盛。」 穏やかな兄の声に、敦盛ははっとして顔を上げた。 いつの間にか思考に沈んでいた事に、経正の顔を見て気付く。 「何か思い悩む事があるようだね?」 「そ、そのような事は・・・・」 「ない、のかい?違うね。敦盛は昔から心を強く捕らえることがあると、笛を奏でそうして自分の考えに没頭していた。」 「・・・・・」 反論も返せず無言の肯定をする弟に、経正は苦笑した。 「お前は素直だ。私はお前が考えに浸ることを責めているのではないよ。」 そう言って経正は敦盛の隣に腰を下ろす。 そして彼の視線に合わせて言葉を続けた。 「けれど、お前が楽を途中で途切れさせることなど今までなかっただろう?だから先ほど音色が途切れて気になって来てみたのだよ。」 「申し訳ありません。」 反射的に謝ってしまった敦盛に、経正は優しく笑う。 「私が勝手に聴いていたのだ。謝るものではない。ただお前の気鬱をはらすのに、この兄が役に立てるのならばと思ったのだが、どうかな?」 「兄上・・・・」 敦盛はしばらく無言で経正の顔を見、そして言葉を探すようにしてぽつりと呟いた。 「・・・・わからないのです。」 「わからない?」 「はい。己の考えていることがわからないのです。今は一門の苦難の時。それを第一に考えるべきが私の役目・・・・そのように考えていたのですが」 敦盛は言葉を切って手の中に収まっている笛に目を落とした。 (そうだ・・・・あの時までは確かにそれが全てだったはずなのだ。それこそが、私が理を歪めてまでここにあるその理由だったのだから。) それなのに。 「・・・・先日、この笛をお返しに上がろうと都へ参りました。」 「なんだって!?京へ?」 驚いたように目を見開く経正に敦盛は頷く。 それを見て経正は思わずため息をついた。 「よく無事だったものだ。今の京は源氏の手の者が警護にあたっているだろう?」 「はい。あれほどの警戒とは思っていなかったのですが、私の考えが甘かったのです。源氏の手の者に見咎められました。」 「見つかった?それでどうやってお前は無事にここへ帰ってこられたんだい?」 「・・・・助けて下さった方がいました。」 下級武士に射かけられた矢のせいで怪我を負い、咄嗟に逃げ込んだ邸に。 ―― そう (―― あの、不思議な人がいた) 真っ白い夜着が月の光に輝き、それとは対照的な紫紺の長い髪で肩から背を覆った少女が立っていた。 本来、女性は妻戸を閉めてしまえば朝まで表に出ることなど無い。 だから夜の闇に浸るなど考えられないというのに、その少女は当たり前のようにそこにいた。 月の光と戯れるように。 夜の闇を労るように。 そして、唐突に塀を越えて現れた敦盛に怯えた表情の欠片も見せずに言ったのだ。 『早くこっちへ来て、隠れて下さい』と。 冷静に考えれば、飛び込んだ邸がどこであれ今の情勢で源氏の兵に追われる者をかくまうなどあり得ない。 だというのに、敦盛は無意識に少女に従っていた。 何故かこの少女の言うことは信用できると知っていた。 (・・・・そう、『知っていた』のだ。私は。) 推測や憶測ではなく、当たり前のように敦盛は少女を信用した。 まるで良く知っている友に心を許すのと同じように。 そう思う反面、その事に激しく動揺もした。 敦盛の記憶に有る限り、少女は敦盛にとって『見知らぬ娘』だった。 それなのに、何故、何故彼女を知っていると思うのだろう。 その後邸の中にまで入り込んできた兵達の会話を漏れ聞くに、その邸は源氏の戦奉行梶原景時の邸で、少女はおそらく源氏と縁のある人だとわかったが、その情報はますます敦盛を混乱させた。 源氏に縁のある女性などに知り合いはいない。 やはり『見知らぬ娘』のはずだ。 (だというのに私は・・・・) 「・・・・会いたい、と思ってしまうのです。」 こぼれ落ちた、前の会話の流れと繋がらぬ言葉に隣にいる経正が息を飲んだ事に敦盛は気付かなかった。 目に浮かぶのは、あの日から幾度目を開けても閉じても焼き付いてしまった一人の姿。 別れ際、目を細め切なそうな瞳でこちらを見て『また、会いましょう』と言った少女。 何処か確信めいたその囁きに、とっさに否定の言葉を返していたのは僅かばかり働いた理性。 喉元まで出かかった言葉はその言葉のおかげで辛うじて押さえ込むことが出来た。 (何故、あの時、彼女が源氏の者であると分かっていながら・・・・側にいたいなどと思ったのだろうか。) 敦盛は大きく息を吐いた。 「あの日から気がつくと私はその人の姿を思い描いているのです。そんな場合ではないとわかっていながら。・・・・そんな事が許される相手ではないとわかっていながら。 どうしても姿が消えず、そのたびに全身が落ち着かない気分に苛まれるのです。 笛を吹いてもそれが消える気配もない・・・・兄上、私はやはり浅ましい存在だからこのように思うのでしょうか?」 そんな風に言って見返してくる敦盛の視線を受け止めて、経正は心の内で嘆息した。 敦盛は多くは語っていない。 だから経正に与えられた情報も多くはないが、これだけで十分にわかるというのに本人は全くその気持ちを理解していないようだ。 「敦盛」 「はい。」 「お前を助けたという女性は、お前とよほど深い縁があるのだろうね。」 「は・・・・?」 意味がつかめないのだろう、ぽかんとする弟の頭を経正は軽く撫でて言った。 「大丈夫、そのような思いは人であらば誰しも持つもの。けして苦しいだけではなく、喜びも楽しさも与えてくれるものだ。大切に抱いていなさい。 いつかきっとそれはお前の力になるだろう。」 「・・・・はい。」 兄の言った言葉の意味はいまいち掴みきれなかった敦盛だったが、それでも肯定された事が嬉しかった。 珍しく嬉しそうに笑う敦盛に、経正もつられたように微笑む。 ―― そして同時に僅かばかり哀れに思う。 この純粋な弟は、哀しい定めを背負ってそのような想いを抱えてしまったのか、と。 戦火の元で生まれた敦盛の気持ちは、彼の音のようにあまりにも繊細で・・・・脆すぎる。 「兄上?どうかされましたか?」 問いかけられて経正ははっと顔を上げた。 そして不思議そうに自分を見ている敦盛に変わらぬ笑みを向けて言った。 「いいや、何でもないよ。・・・・そうだ、敦盛。ひとつ兄の頼みを聞いてくれないか?」 「はい?なんでしょうか。」 「その女性の事を考えながら笛を奏でてくれないだろうか?」 「えっ?」 敦盛は驚いて目を見張る。 今まで彼の人の姿を忘れようとして笛を奏でた事はあっても、思い浮かべて吹いたことなど無かった。 しかし兄の頼みと言われれば断るわけにもいかず、敦盛は頷いて笛を口に当てる。 そして思い浮かべるのは、あの夜、月光の中で見た少女の姿。 突然現れた敦盛に驚きもせず僅かに微笑みすら浮かべた瞳。 怪我を心配そうに見てくれた顔。 敦盛を隠すように広げられた細い腕。 肩から零れた紫紺の髪。 ―― 息を深く吸い 名前も知らない。 誰なのかもわからない。 けれど彼女は『また会いましょう』と、そう言った。 (・・・・それならば) ―― 笛に息を吹き込む いつか、また会えるのだろうか。 (いつか・・・・会いたい) ―― 夜の闇に再び響いた音色は、途切れる前よりも数段、切なく、美しく響き・・・・ 月夜の空に優しく溶けた ―― 〜 終 〜 |