しあわせの地図
「ただいま。」 部屋に入ると同時に発した声に返る声はなく、ヒノエはどことなく憮然とした表情になる。 三日ほど交易のために留守にしていた自分の邸に帰ってきたヒノエが真っ先に向かった部屋。 そこには予定としてはこの春迎えたばかりの最愛の奥方、望美が澄んだ笑顔で待っているはずだった。 望美が前任の別当であるヒノエの父親、湛快と一緒に出かけたので留守にしているという話自体は玄関で女房の一人に聞いていたのだが、思ったよりもずっと望美の「おかえりなさい」が聞けなかった事に対して不機嫌になっている自分を自覚してヒノエは肩をすくめた。 そして大股で部屋の中へ入って、ふといつも望美が使っている文机に目を落とす。 そこには一枚の紙が広がっていて、なんとも不器用な筆使いで図形が書いてある。 壺のような形から、なんとなく熊野の地図なのかもしれないと予測はついたが、その半島の絵の中に丸や四角、さらにヒノエには見たこともないような図形がいくつか書き込まれていて、その意味はよくわからない。 とりあえずその文机の前に座って謎の地図をなぞりながらヒノエはぽつっと呟いた。 「・・・・何をしてるんだかね。オレの奥方は。」 望美が慌ただしく帰ってきたのはそれから一時ほどたってからだった。 そのころにはすっかり床に寝転がっていたヒノエは遠くからしてきた足音に、素早く身を起こす。 他の者の足音は聞き分けなど出来ないし、する気もないが、この足音だけは間違えない。 と思って待っていると予想通り慌てた様子でヒノエの待ち人、元龍神の神子にして、現在熊野別当の最愛の妻である望美が飛び込んできた。 「ヒノエくん!ごめんね!」 もう神子の時のように動きやすい服ではなく、こちらの女性の装束と同じように着物を纏っているというのに、相変わらず活発な動きで飛び込んできた望美にヒノエは相好を崩す。 「違うだろ、望美。」 「え?」 「ごめん、じゃない。」 いきなりの否定の言葉にきょとんとする望美の腕を掴んで少し強く引けば容易に腕の中に転がり込んでくる望美。 正面からヒノエの胸に飛び込む形になった望美が顔を上げるタイミングを狙って、その額に髪の上から口づけてヒノエは言った。 「おかえり、望美。」 「あ・・・・ただいま、ヒノエくん。」 少し顔を赤くして微笑む望美を見て、やっと三日ぶりに自分の邸に帰ってきた事を実感してヒノエは笑った。 (望美に会ってまだ二年とたっていないのにな。) 数々の強力な恋敵達を出し抜いて望美を妻と呼べるようになってから数えればまだ三月。 それなのに、いつのまにか自分の帰る場所は望美の側になっている事がくすぐったくて可笑しい。 「こうして望美におかえりを言うのもなかなか悪くないね。ま、待ってる間はつまらないけど。」 「う、ごめんなさい。」 冗談と恨み言の微妙な狭間の言葉に望美は申し訳なさそうに眉を寄せる。 そんな望美の髪をさらさらと梳きながら、ヒノエは更に問いかける。 「で、オレの奥方様は旦那を放って何をしていたのかな?」 言葉の字面ほどはトゲが感じられないのは、それを紡ぐヒノエの声がやたらに甘いせいなのだが、望美は十分責められたと思ったようで困ったような顔をした。 「えーっと・・・・その・・・・」 「何?オレには言いにくいのかい?」 「言いにくいって言うか・・・・」 彼女にしては歯切れの悪い返事の連続に、ヒノエはほんのわずか苛立つ。 それは彼女に対してというわけではなく (オレのいない間、湛快(おやじ)と何してたんだ?) という非常に微妙な嫉妬心からきていたりするわけで、自分でもくだらないと思う。 思うが、望美のこととなるとちょっとでも気になって仕方がないのも事実なのだ。 (まあ、ここまでオレを虜にしちまった自分を恨んで、少しは意地悪にも耐えてくれよ。) 紛れもなく自分勝手な意見の下、ヒノエは感情の赴くまま望美の髪を梳いていた手を移動させて耳を露わにすると、その耳ぎりぎりに口を寄せて囁いた。 「望美?オレに隠し事なんて出来ると思ってるの?」 「ひゃっ!」 予定通り首をすくめた望美は真っ赤になってなんとかヒノエから距離をとろうとジタバタする。 でももちろんそれをヒノエが許すわけはなく、追いつめられた望美はとうとう白旗を揚げた。 「わかったから!言うから離して〜。」 「残念。もう少し粘ってくれたら閨まで運んであげたのに。」 悪戯っぽくそう言いながら腕を緩めてやると、顔を真っ赤にして望美が転がり出る。 「ヒノエくんの意地悪!」 「光栄だね。それで?オレのいなかった間に何をしてたのか話してもらおうか。」 「うん・・・・」 まだいまいち渋る望美にヒノエはさっき文机の上にあった地図(らしき物)を取り上げた。 「これに関わる事?」 「あっ!出しっぱなしにしちゃってたんだ。」 しまった、という顔の望美を横目にヒノエは地図に目を落としながら言った。 「これは熊野だろ?」 「うん、そうだよ。」 「なんで印がついてんだ?」 「うーんと、それは私が行ってみた所の感想なの。」 「行ってみたって・・・・」 さらっと言われた内容に、思わずヒノエは絶句した。 なにせ地図の上に記された印は20近くある。 望美が熊野に嫁いできてから三月ほどの間、ヒノエが交易に出て留守にしていたのは総合しても半月程度に過ぎないだろう。 それなのにこの印は熊野の全土に渡っている。 「閉じこもってるだけの姫君じゃないと思ってはいたけど。」 まさかこんなに行動的に動いているとは知らなかった、と思わずため息をついてしまったヒノエに望美は居心地悪そうに首をすくめる。 「ごめんなさい。」 「何で謝るんだい?」 「だって・・・・呆れたでしょ?」 眉をよせた望美にヒノエはくすっと笑った。 気の強い望美が自分に対してだけこんな顔を見せてくれるのが、実はかなり嬉しいなんて言ったら彼女はどうするだろうか。 「別に呆れはしないけどね。でもなんでこんなに熊野を走り回ってるんだかは教えて欲しいかな。しかもオレと一緒じゃなくて。」 「え?だってヒノエくんは忙しいでしょ?」 当たり前の事を言うように言われてちょっとだけヒノエは傷つく。 「そりゃ、まあ、オレはいろいろやらなくちゃいけないこともあるけど、姫君のお望みとあればいくらでも時間ぐらい作ってみせるぜ?」 「いいんだってば!ヒノエくんはヒノエくんしかできない事をしてるんだから、私のためにそれを疎かにする必要なんてないの!」 たたき返すような望美の返答に、嬉しくなる反面少し寂しくなる。 (少しは甘えて我が儘を言って欲しい、なんてオレの方がよほど我が儘なのか?) そんな事をヒノエが考えていると気付いているのか、いないのか。 望美は小さくため息をついて言った。 「だから最初は大人しくしてようって思ってはいたんだよ?奥さんらしくお屋敷にいて大人しくヒノエくんの帰りを待ってようって。 ・・・・でも、最初にヒノエくんが交易に出ちゃって留守になった時、退屈だろうって義父さんと義母さんが遊びに来てくれて、その時に思わず言っちゃったんだ。熊野をもっと見て回りたいのにって。 そうしたら義父さんがヒノエくんの留守の時ならいつでも付き合ってやるって言ってくれて、義母さんもそれがいいって言ってくれたからつい。」 「それでオレが留守の時には熊野を見て歩いてたってわけか?」 「うん。」 「なるほどね。事情はわかったけど、なんで望美はそんなに熊野を見て回りたいんだ?邸の中はそんなに退屈?」 口にしてどきっとする。 もし別当の妻なんて不自由な身分に望美が飽きていたらどうしようなんて考えてしまって。 しかしそれについては望美が即座に首を振った事で解消された。 「そんなことないよ。みんなよくしてくれるし、覚える事がいろいろあるのも楽しい。でも・・・・」 「でも?」 「いろんな事を覚えるより前に、私は熊野を好きになりたいの。自分の目で熊野を見て、素敵なところとか、大変なところとかいろんな事を知って好きになりたい。」 「どうして?」 好きになりたい、と言っている言葉に聞き返すのは変かも知れないが、ヒノエは思わず聞き返していた。 その言葉の裏に何かとても大切な理由があるように、望美の瞳がきらきらと輝いていたから。 それを知りたくなった。 そして思った通り、望美は嬉しそうに、でもどこか照れくさそうに言ったのだ。 「だって熊野はヒノエくんにとって大切なモノでしょ?だから私も好きになりたい。好きな人の好きなモノはやっぱり好きになりたいよ。 ・・・・それに、そうじゃないと熊野にやきもちやいちゃそうだしね。」 「・・・・望美」 「ん?・・・わっ!」 引き寄せられてヒノエの腕の中に逆戻りした望美が小さな抗議の声を上げるのもかまわず、ヒノエはその頬に、額に、最後に唇に口づける。 軽く触れるだけで離れれば、望美の顔は真っ赤に染まっていて、その頬を愛おしそうにヒノエはなぞった。 「オレはモノを見る目には自信があったけど、やっぱりだったな。」 「・・・・なんでそこで自画自賛なの?」 「だってそうだろ?お前ほど熊野別当の妻にふさわしい女はいないぜ。」 「いたら私が困る。」 軽快な切り返しにヒノエは声を上げて笑う。 「なあ、望美。オレがお供できないってのは悔しいけど、思う存分熊野を見てくれ。そうして一緒に護っていってくれ、この場所を。」 「うん。」 目を細めて頷く望美が酷く可愛く、そして愛おしくてヒノエは突き動かされる感情のままに唇を重ねようと望美の顎を掬う。 そして、ふともう一つ思い出したことを口にした。 「そういえば望美。あの地図の中に菱形を変形させたような印があっただろ?あれは何?」 「菱形?・・・・あ、ハート形・・・・」 「はあと?」 「なんというか、その・・・・」 「望美」 「う・・・・言わなくちゃダメ?」 「言いたくなければ言わなくてもかまわないけど、その代わり朝まで寝かさないよ?」 さらっととんでもないことを言ってにっと笑うヒノエに望美は口元を引きつらせる。 この手の発言は100%本気だと悲しいかな、しっかり経験している望美である。 「それはその・・・・ヒノエくんと行ってみたいな、と思ったところにつけた印なの。」 「え・・・・」 恥ずかしそうな望美の答えに再度地図に目を向けてみれば、20近い印の半分がハート形で。 「オレは随分姫君のお供をしないといけないみたいだね。」 言葉とは裏腹に嬉しそうにそういうヒノエに望美は顔を真っ赤にして背ける。 (そんな仕草がますますオレを煽ってるんだけど、お前はわかってるのかな。) きっとわかってないと思いつつヒノエは望美の頬に手を当てて正面に向き直らせた。 すねたような望美の赤い顔と向き合って、ヒノエはとろけるように笑った。 「少し、親父の気持ちがわかったかな。」 「え?」 「さっさとこんな忙しい仕事から引退して、お前と熊野を回りながらおもしろおかしく暮らしたくなった。」 「ええ!?それは・・・・」 真面目に目を丸くする望美の唇についばむような口づけをして、ヒノエはウィンクをひとつ。 「でも、まあ、それはこの先の楽しみにとっとく事にしとくよ。なんたって、オレ達はずっと一緒に生きていくんだから、ね。」 「もう・・・・うん。そうだね。」 相変わらずの調子に、呆れたようにため息をついた望美もすぐににっこり笑って。 その輝くような笑顔に、ヒノエはそっと唇を落とした。 〜 終 〜 |