素敵に平和な、そんな一日
背中に何か暖かいものがあたった、と思った瞬間、首にぎゅっと抱きつかれた。 吃驚するには首の下に回された腕は見覚えのありすぎるもので、調合していた薬の鉢をかき混ぜながらその腕の主を呼ぶ。 「望美さん?」 彼女は午前の診療を終えて、洗濯をしに出ていたはずだけれど、愛妻の腕を弁慶が見間違えるはずもない。 「ん。」 案の定、短くも端的に肯定を意味する返事が帰ってきて弁慶は少し首をかしげた。 もちろんそれは腕の主が望美であった事への疑問ではなく、彼女がこんな行動をするという事に対しての疑問。 望美はもともと滅多に人に甘えたりしない。 かつて龍神の神子をやっていた時は時勢と背負ってしまった役目故の虚勢かと思っていたら、昔から望美をよく知る二人はけろっと「昔からそういう奴(人)なんだ」と言っていた。 実際、一緒に暮らすようになってそれは弁慶自身も実感していた。 滅多に人に弱みを見せず、甘えない。 その性質は望美をより凛々しく見せ、同時に彼女を特別に想っている者にとっては一抹の寂しさを感じさせる。 そんな望美がこんな風に抱きついてくるなんて。 「何かありましたか?」 少し緊張をにじませて言った言葉への返事は 「何もないよ。」 というなんの含みもない答え。 そのわりに望美は一向に離れる気配もなく、しっかり弁慶に抱きついている。 望美のしたいことはさっぱり理解できないが、嫌なわけではい(むしろ嬉しい)ので大人しくしているとぽすっと今度は頭が押しつけられて、そして。 「望美さん。」 「うん?」 「なんで笑っているんですか?」 「うん。」 答えにならない答えを返してくすくすと尚も笑いを零す望美に、弁慶はお手上げのかわりに調合していた鉢を置いた。 そしてしっかり背中に抱きつかれているために振り向けないものの、なんとか視線だけ振り向いて聞いた。 「降参です。本当に何があったんですか?」 「別に何もないんだってば。でもね。」 そう言って顔を上げた望美はなんだかとても嬉しそうに笑っていた。 その笑顔があまりにも綺麗で、弁慶の鼓動が自然と早くなる。 そんな事に気付いているのか、いないのか、望美は言った。 「何でもないんだけど、平和だなあって。」 「ああ・・・・そうですね。」 なんとなく望美の笑いの意味がわかった気がした。 戦火が去って数ヶ月。 今ではあの時の事が遠い昔のように思えるが、確かにあれは現実にあった出来事で、思い返してみるに今ここにこうしていられる現実がとんでもない綱渡りの結果の奇跡であると思える。 「それにどうやら僕は一度死んだらしいですし。」 「そうだよ。」 答える声はくったくないが、抱きついている腕に少しだけ力が籠もった。 弁慶が苦しくないようにほんの僅かだけ籠もった力が、望美の言っている事が真実で、そしてその事で彼女がした想いを雄弁に物語っていて弁慶の胸が少し痛む。 「すみません・・・・」 弁慶が殊勝に謝った途端、望美の含み笑いが大きさを増した。 「本当だよ。少しは反省してもらわないと。」 「反省、ですか。」 「まあ、それは冗談として・・・・今日、すごくお天気いいでしょ?」 急に変わった話題に動揺もせずに弁慶は視線を窓に滑らせる。 格子のはめてあるその向こうには、抜けるような青空と極上の綿のような雲がぷかぷか浮いているのが見える。 「ええ。景時ならきっと洗濯日和、とでも言うでしょうね。」 「そうそう。洗濯ものが良く乾きそうなポカポカ陽気で、さらしとか手ぬぐいとか干したら日差しにあたってすごく綺麗に見えて・・・・それでちょっと上機嫌で帰ってきたら、弁慶さんの背中が見えて、ね。」 「はい。」 「そうしたら、すごく・・・・なんだかすごく嬉しくなって、気がついたら抱きついちゃってた。」 それはもう、とろけるような、という表現がぴったりとしか言いようがないほど甘い望美の囁きで。 思わず弁慶は片手で口元を覆う。 (・・・・今の顔、ヒノエにだけは見せられませんね。) 口達者な昔なじみにこんな顔を見られたら死ぬほどからかわれるに決まっている。 ―― こんな、どうしようもないほど赤くなった顔なんて。 ああ、でも今はそんな事はどうでもいい。 考えられるのは背中に張り付いている望美のことだけなのだから。 弁慶は首もとに回されていた手をつかむと素早くほどいて体を反転させる。 支えを失って倒れるように腕の中に転がり込んできた望美の体を弁慶はぎゅっと抱きしめる。 「望美さん。」 「え、何?」 「あんまり僕を喜ばせないで下さい。」 「?なんで?」 きょとんとしたように問い返してくる望美の耳元に口を寄せて、弁慶はわざと低い声で囁いた。 「午後、臨時休業にしたくなりました。」 「?・・・・・・・!?」 考えるような一瞬の間の後、望美は弾かれたように弁慶から離れた。 その顔は見事に朱に染まっていて、こらえきれず弁慶は吹き出す。 「か、からかったの!?」 「いえ、本心からの本気です。」 「〜〜〜〜〜〜」 涼しい顔で言ってのける弁慶とは反対に望美は怒って良いのかどうしたらいいのかわからない表情で口をつぐむ。 そんな表情も愛おしくてしょうがない、と言ったら九郎あたりは呆れたように「どうかしてるぞ」などと言いそうだ。 (どうかしてますからね。) 幸せで、望美が大切で、どうかしそうだ。 どうしても零れてくる微笑みを隠すこともせず、弁慶は再び望美を腕の中に納める。 そうしてまだ赤さを残す望美の額にかかる髪をさらりと分けて、口づけを落として悪戯っぽく笑った。 「とりあえずこれで我慢しておきますよ。」 「べ、弁慶さん!!」 ―― それは素敵に平和な日の出来事 〜 終 〜 |