Slowly 〜夏の一時〜
それはまだ、源平の争乱も半ばで勝敗の見えぬ夏の頃。 平敦盛は一人、外で降り注ぐ夏の日差しに目を細めながら大切な笛の手入れをしていた。 敦盛達がこの熊野の勝浦の宿で足止めをくったのは一昨日の事だ。 弁慶のもってきた熊野川が増水しているという情報に、とりあえずは待って様子をみようという事になったのだが前進できないなら今のうちに済ませてしまいたいと言う用事があったらしく、みんな出かけてしまっていた。 敦盛だけは特に用事も思いつかなかったし、何より燦々と降る太陽の光にさらされるのは少し辛そうだったので残ったのだ。 (・・・・昔はわりと好きだったのだが。) ふと懐かしい気分に駆られて敦盛は視線を外に向ける。 昔 ―― まだ敦盛が熊野にいた頃はこんな暑い日になるとヒノエが海に行こうと誘いにきたものだった。 あの頃から熊野の事なら海でも山でも街でも詳しいヒノエにつれられて日がな一日遊んだ覚えがある。 周囲の人間は大人しい敦盛が威勢の良いヒノエに連れられている姿を見て、遊んでいるというより引っ張り回されてるね、と言っていたけれど。 それでも楽しかった。 熊野の大地はヒノエが自慢する通り懐が深く、静かで暖かかった。 一日遊んでくたくたになって邸へ帰って・・・・ (遠い昔になってしまったな・・・・) 大切な思い出であり、同時に敦盛を苛む思い出に区切りをつけるように敦盛はため息をついて笛の手入れを再開しようとした、その時。 「あんまり大きなため息つくと、幸せが逃げちゃいますよ?」 真夏の空気の中の一筋の清風のように涼やかな声が耳を打って、敦盛は驚いて顔を上げた。 そこにはいつの間に来たのか部屋の入り口に一人の少女が立っていた。 肩を覆う長く艶やかな髪、陣羽織の下に小袖を変形させたような衣装、そして何より切れ長の美しい目をした少女は、伝説に等しいと言われた龍神の神子としてこの世界に降り立った春日望美だった。 「神子?」 「はい?」 「朔殿と出かけたのではなかったのか?」 「うーんと、誘われて出かけたは出かけたんだけど、早々と買い物も終わっちゃって、街をぶらつくにも暑いんで帰って来ちゃいました。」 「そ、そうなのか。」 それならどうして望美一人がここにいるのだろう、とか疑問はあったが問いを発する前に望美が口を開いていた。 「だから、ここにいてもいいですか?」 「え?あ、ああ。かまわないが・・・・」 ここは男性陣の宿泊用に借りた部屋だが、わざわざ望美が了解をとった意味がわからず敦盛の返事は戸惑ったような物になってしまう。 しかし望美の方は何故かほっとしたような顔をして、今まで立っていた部屋の入り口からぱたぱたと敦盛の側まで入ってきた。 そして隣に腰を下ろす瞬間、ふわりと甘い香りがした気がして敦盛の鼓動が高鳴る。 それを誤魔化すように敦盛は手元の笛の手入れを再開した。 「何をしてたんですか?敦盛さん。」 「笛の手入れをしていただけだが・・・・」 「へー、笛って手入れがいるんですね。」 初めて知った、という響きを含んで望美が敦盛の手元を覗き込む。 その視線を浴びた手がなんだか急に熱くなったような気がして、敦盛は焦った。 「ふ、笛に限らず楽器はすべて手入れが必要だ。」 「それもそうですよね。楽器は触ったこと無かったから知らなかったけど。」 でも、と望美は言葉を続ける。 「やっぱり大事にしてるんだね、その笛。とっても丁寧に手入れしている感じがします。」 そう言って望美は柔らかく笑った。 その笑みに、またどきっと敦盛の胸が鳴る。 望美は八葉の仲間の間でも良く笑うが、そういう笑みと今の笑みは違って見えたから。 いつもなら望美は明るく快活に笑う、が、何処かに一本切れぬ糸があるように見えた。 それが今はその糸が感じられなかった。 穏やかで酷く暖かい微笑み。 一瞬、こんな笑みを向けてもらえるのが自分だけのような錯覚を覚えて敦盛は望美から目をそらした。 (そんなはずはない・・・・当たり前だ。私のような者が神子に特別な笑みを向けてもらえるはずがないのに・・・・) どこかでずきっと痛む心を宥めるように敦盛は手元に意識を向ける。 そして会話が途絶えた。 外で今が天下と鳴き続ける蝉の声が室内にまで染みこんできて、その合間に勝浦の街を行く人々の声が遠く聞こえる。 不思議なことに、その沈黙は酷く居心地がよかった。 普通なら自分にはやることがあっても、それを見ているだけの望美は退屈ではないだろうかとか、そういう事が気になりそうなものなのに、なんとなくそんな事はないような気がした。 完全な無音ではなく、何処かから雑音が聞こえ、それでいて敦盛と望美の間には静かな沈黙が流れていて。 それを壊してしまうのが酷くもったいなくて敦盛は慎重に笛の手入れを続けた。 ぽすっ、と敦盛の左肩に何かが乗ったのは、それからどれくらいたってからの事だったのか。 最初、何が起こったかわからず目線だけ横に向けた敦盛は心臓が止まるかと思うぐらい驚いた。 というのも、望美が敦盛に寄りかかるようにして頭を左肩に乗せていたから。 「み、神子・・・・!?」 体だけはがっちり硬直して上擦った声を出してしまうが、それに対する返事は 「んー・・・・」 という寝ぼけた声だけ。 どうすればいいのか判断できず、とにかく固まっている敦盛の左肩で望美は本格的に寝息を立て始めてしまった。 こうなっては起こすのも酷なような気がして、動けなくなってしまった敦盛はなんとか心臓だけは落ち着けようと浅く深呼吸をする。 (神子は疲れているのだ。) そう考えながらなんだか自分に言い訳をしているような気がした。 確かにここしばらく熊野に入ってからは道のりもきついところが多かったし、その上、毎日剣の稽古をしている望美が疲れていないはずはない。 けれどそれならばちゃんと横になって休むように言った方が彼女のためだろう。 それなのにそうできないのは、言えないのは・・・・敦盛の胸に宿ってしまった想いのせいだ。 望美に側にいて欲しいと、触れていて欲しいと望む、想いのせい。 (・・・・こんな気持ちは抱いてはいけないというのに。私は・・・・) きりっと唇を噛んで敦盛は自分の手に視線を落とす。 それは見慣れた自分の手のひら ―― 生きていた時となんらかわりない。 けれどこの手のひらが醜く変形する様を敦盛は知っている。 爪が鋭く伸び、獣のそれへと変じる様を。 (こんな手に何をつかめるというのか。何一つだってつかめるはずがない。) 壊すことしかできなくなった身で、望めるものなどないというのに。 (・・・・けれど、今だけ) 今だけ、寄りかかってきてくれた望美に甘えても良いだろうか。 今だけ望美の体温を感じて支えている夢を味わっていても。 ふいにさらっと望美の髪が敦盛の左腕にかかった。 惹かれるようにその髪に右手で触れ、ほんの僅か梳く。 それだけで、胸が痛くなった ―― 否、痛いぐらい切なくなった。 耳元近くで聞こえる寝息に心が熱くなる。 (やはり、早く起こした方がいいかもしれない。) そうしないと育ちすぎた想いに押しつぶされそうだ。 蝉の声が聞こる。 懐かしい、熊野の夏の音が。 「貴女が・・・・ ―― だ・・・・」 あまりにも儚すぎる声は、自分の耳にすら聞こえなかった。 ちょうどその時、静かではあるがはっきりした足音が聞こえ戸口からひょこっと将臣が顔を出した。 そして敦盛と望美を見て、驚いたように目を見開く。 「なんだ、ここにいたのか。そいつ。」 「ま、将臣殿。」 第三者に見られたことで急に現状がいたたまれなくなった敦盛がわたわたし出すのを笑って将臣は止める。 「いーって。もう少し寝かせてやれよ。」 「しかし・・・・」 「ま、お前が望美の枕にされてちゃ不満なら退かしてやるけど?」 「そんなことはない。」 赤くなった顔のわりにきっぱり否定した敦盛に将臣は笑みを深くする。 そして視線を敦盛の左肩、眠っている望美に向けて呟いた。 「しかし、お前なんだな。」 「は?」 何が言いたいのかわからず眉間に皺を寄せる敦盛に対して、将臣は悪戯っぽい顔で肩をすくめた。 「わかんなくていーぜ。・・・・ちょっと悔しい気もしないでもないしな。」 「??」 余計わからない。 首をかしげそうになって、側に望美の頭があることを思い出し慌てる敦盛を今にも吹き出しそうになりながら眺めて将臣は踵を返した。 「あ、将臣殿?」 「それなりに望美も見る目はあるんだなって事だ。」 「?だからさっきから何を言ってるのですか?」 「だから悔しいから教えてやらね。じゃあな、他の奴らには適当に誤魔化しといてやるよ。」 「あ!」 結局、疑問を残したままで部屋の向こうへ消えてしまった将臣を見送って敦盛はため息をついた。 なんだかよくはわからないが、とりあえずしばらくはこの時間は保証されるらしい。 敦盛は再び静寂の戻った部屋で、夢の守人に戻った。 目が覚めた時、望美がどんな反応をするのかほんの少し恐れ、ほんの少し楽しみにしながら。 眠り続ける神子姫は、まだ当分起きる気配はなかった。 ―― 実はそれが甘え下手な望美の甘え方である事を敦盛が知ったのは、もっとずっと後の話である。 〜 終 〜 |