後戻りはできない。 それでかまわない。 親しかった者達に恨まれようと、どんなにこの手を血に染めようとも。 ・・・・けれど、一つだけ たったひとつの真実 西へと向かう平家の船の中で弁慶は深いため息をついた。 この船に乗ってから平家方の負傷者の治療に追われていた弁慶に休息が言い渡されたのはついさっきにすぎない。 船の板壁に背を預け腰を下ろすと、途端に強い倦怠感が襲ってきた。 (少し・・・・疲れました、ね。裏切り者は3倍の働きをとはいうものの、相変わらず人使いの荒い事だ。) 浅くため息をつきながら考えるが、それがこの倦怠感のすべての原因でないことは自分でも嫌と言うほどわかっていた。 『弁慶・・・・何故だ!?』 気を抜いた瞬間、耳によみがえった悲鳴のような声に弁慶は唇を噛んだ。 まだ子どもだった頃から剣を交えた親友であり戦友である義経のあんな声を初めて聞いた。 それほど弁慶が裏切るなど彼の頭の中にはなかったのだろう。 (いえ、それも計算のうちだった・・・・) 義経の信頼をしっかりと自覚していたからこそ、これから自分が立ち向かう『敵』を欺く最大の切り札にした。 予定通り平家の連中は弁慶が冷たくも、義経を裏切ったとあっさり信じた。 実のところは二重の裏切りを仕組んでいるとは気づきもせずに。 けれど。 (すみません、九郎。) 馬鹿正直で真っ直ぐな彼は後で弁慶の真意を知れば許してくれるかも知れない。 けれどあの瞬間、義経を深く傷つけた事は確かだろう。 それにその頃にはきっと自分は ―― この世にいない。 |
| 『弁慶さん!』 |
| ふいにぎくりとして弁慶は己の腕を握った。 (そのぐらいわかっていたはずでしょう?覚悟はできている・・・・そのはず) なのに何故思ってしまう? ―― 死にたくない、と。 (ああ、理由なんて1つしかない。) 弁慶は僧衣のかぶり物に深く頭を沈めて瞼を閉じる。 それだけで鮮やかに蘇る、一人の少女の姿。 凛々しく強くしなやかで美しい若竹のような神聖な少女。 (望美さん・・・・) 龍神の神子と呼ばれる彼女は今、この船に乗っている。 弁慶が逃げ延びるための人質として。 清盛への『手土産』として。 けれど、それは本当に正しかっただろうか? 軍師として蓄えた知識はそれこそが最良の道と告げている。 龍神の神子以上に貴重で『敵』が一目置く存在はなかったのだから彼女を切り札に使うのは当然の事。 しかし彼女が側にいる事で、手の届く場所にいることで・・・・自分の決心が揺らぐのではないか。 実際、何度か緊張の糸をゆるめた瞬間にそういう誘惑が頭をよぎる。 望美の手をとって逃げて逃げて、どこか戦とは関係のない場所へ行って彼女の側で生きていたいと。 贖罪も、友も、地位も、名も居場所も何もかも投げ捨てて、望美だけ手に入れて・・・・。 その時、ふいに目の前を過ぎた平家の兵の足音に弁慶は夢から覚めたように我に返った。 そして緩く自嘲気味に首を横に振る。 「まったく・・・・貴女は本当にいけない人だ、望美さん。」 こんなにも自分を虜にしてしまうなんて。 ここまで来てしまって後戻りも後悔も許されない自分に、尚も生に執着させるほどの想いを抱かせるなんて。 酷く重く感じる体を無理矢理動かして弁慶は緩慢に起きあがる。 体は休息を悲鳴のように要求するが、今を逃せばもう機会はないだろう。 だから弁慶は歩き出す。 今だけは『余計な接触はしない方がいい』と警告する軍師としての自分の声に耳を塞いで、心のままに。 ゆっくりと一歩一歩、望美がとらわれている船尾の牢に向かって足を進める。 きっと伝えることはできない想いに突き動かされてその足は少しだけ速くなる。 (怒って・・・・いるでしょうね。) 罵られるか、軽蔑した目で見られるか。 ・・・・どちらでもかまわない。 口をきいてくれなくても、どんなに手ひどく追い払われてもいい。 ―― ただ一目、彼女に会いたかった。 ・・・・一つだけ伝えたかった 貴女の事が好きだった、と ―― 〜 終 〜 |