ネクタイ 〜誤解と策略の使い方〜
「じゃあ、僕も少し出かけてきますね。」 「あ、弁慶さん。ちょっと待って!」 コートを持って立ち上がった弁慶を思わず望美が呼び止めたのは、ちょっとしたことに気が付いたからだ。 有川家のリビングでの打ち合わせを終え、三々五々出て行こうとしていた八葉達がその声に一瞬動きを止める。 そんなことには気が付かなかった望美はつかつかと弁慶の前へ歩み寄った。 その視線が見ているのはただ一点。 「望美さん?」 「ちょっと動かないで下さいね。」 弁慶の前に立った望美はそう言うとすっと手を伸ばした・・・・弁慶の襟元に。 ぎょっとしたように譲が目を見張ったのも、望美の視界には入っていない。 ただ手際よく弁慶のリボンタイをほどくと、丁寧に結び直した。 そしてきゅっと力を入れて最後を締めるとその喉元を辿るように視線をあげて、にっこり笑って言った。 「ネクタイが曲がってたから。もう、大丈夫ですよ。」 ネクタイを結び直す、ということは結構ネクタイをしている人物に近づく必要がある。 当然、今回も望美は弁慶の至近距離に立っているわけで。 「・・・・望美さん」 「はい?」 きょとんっと聞き返した望美に、弁慶はにっこり・・・・それはにっこり笑った。 その瞬間、九郎と景時は嫌な予感に思い切り口許を引きつらせたが、生憎弁慶の口を塞ぐまでには間に合わず。 「キスして良いんですか?」 「は・・・いいいいいいい!?」 望美の悲鳴なんだか、疑問なんだかわからない声が有川家のリビングに木霊した。 「な、な、な、何言ってるんですか!?弁慶さん!!」 「そうだぞ、弁慶。大体魚をどうするんだ!?」 「ちょ、九郎。それ違うから。」 真っ赤になった望美と同時に的はずれなツッコミをした九郎を思わず景時がフォローする。 ちなみにその横では将臣が笑い転げている。 九郎同様きょとんっとしているリズヴァーンと敦盛はそもそも『キス』がなんたるかがわかってないらしい。 対してさりげなく望美の隣にやってきたヒノエは揶揄するように言った。 「なかなか面白い冗談だけど、無粋すぎるんじゃねえ?弁慶ともあろう男がさ。」 「おや、僕は君のように冗談でこんなことは言いませんよ。こちらの世界の礼儀なんでしょう?」 「は?な、なんのことですか?」 「ネクタイを結んでもらったら口付けをする。確かてれびというものでやっていたと思いますが?」 (な、な、なんの話!?) にっこりと答えられて、すでにパニック状態の望美は追い打ちをかけられて思わず左右を見てしまった。 と、目があったのはいまだに爆笑中の将臣で。 「将臣君っっっ!!」 「お、おかし・・・くくく・・・・いや、あれだろ?ほら、新婚の。」 「へ?」 眉を寄せた望美に、近くにいた朔が困ったような顔で付け足した。 「昨日、私がどらまというものを見ていたんだけれど、その主役の二人がネクタイを結び直して口付けしているところで弁慶殿が帰ってきたのよ。」 (つまり、弁慶さんの頭の中ではネクタイを結ぶ=キスをしてもいいという構図が出来上がってたってこと?・・・・ああ、だから「キスして良いですか」じゃなくて「キスして良いんですか」だったのか。) 「・・・・って、違います!!!!」 めでたく結論が出た所で望美は勢いよく顔を左右に振ってしまった。 あまりに勢いがよすぎて隣にいたヒノエが飛び退いた気もするが、構っていられないかった。 「違いますからね!?ネクタイ結ぶのは別に新婚さんじゃなくても、キスするような関係じゃなくてもするんです!」 「なんだ、そうなんですか。」 少し残念そうに言われて望美は思わず言葉に詰まった。 普段、穏やかながら不敵な笑顔を浮かべている弁慶にこういう顔を見せられると望美は滅法弱い。 が、こればかりは誤解を正しておかないと偉いことになるわけで。 「違います!ね、譲く・・・・」 「譲ならさっきからフリーズしてるぞ。」 「え?あーーーーーーー!!」 将臣に言われて望美が見た先で譲は確かにフリーズしていた。 ・・・・中途半端に中身の入ったコーヒーカップを傾けたまま。 「零れてる!中身零れてるから!!」 「シミになるな。」 「当たり前の上に冷静だな〜、リズ先生。」 「あの、将臣殿。早く拭かないと取れなくなると思うが・・・・」 この状況でも非常に控えめな敦盛の声に、各自がはっとしたように布巾だなんだと動き始める。 それを見て望美も動き出そうと弁慶に背を向けて、止まった。 というか、正確には止められたのだ、望美の腕を掴んだ弁慶に。 望美の片手を掴んだ弁慶は背を伸ばすように望美の耳元に唇を寄せて・・・・ 「では、出かけてきますね。」 「てめえが原因なのに後始末もしないで行くのかよ!」 「染み抜きにそんなに人数はいらないでしょう?」 「この悪徳軍師!」 ヒノエの文句など何処吹く風で出て行ってしまった弁慶を少々あきれ顔で見送って振り返った朔はぎょっとした。 なにせ、そこにはどうしてか右耳を押さえるようにしてうずくまった望美がいたから。 「どうしたの!?」 「さ、朔〜〜〜〜」 驚いて駆けつけてくる朔の気配を感じてはいたけれど、望美は生憎顔を上げられなかった。 ―― 上げられるどころではなかった、のだ。 顔が熱い。 それよりもっとずっと、弁慶の言葉が吹き込まれた耳が・・・・弁慶の唇が掠めていった耳が熱くて。 (〜〜〜〜考えてみたら弁慶さんがテレビの知識を鵜呑みになんてするはずないよね。) やられた、と望美は頭を抱えたい気分で一杯になった。 たかがネクタイひとつ。 されど、ネクタイひとつ。 ほんの少し、弁慶のリボンタイが曲がっていることに気が付いた時点で、望美は弁慶の策にはまっていたのかも知れない。 ・・・・彼の言った言葉どおりに。 『―― 崩れたネクタイに気が付くぐらいは僕のことを見ていてくれたんですね。』 蘇ってきた弁慶の声に望美は深く深くため息をついた。 たかがネクタイひとつ。 されど、ネクタイひとつ。 『―― ありがとうございます。いい牽制になりましたよ。』 自分の結んだネクタイのように、きゅっと心に何かを結ばれたような気がして、望美はますます赤くなるのだった。 〜 終 〜 |