―― 「すまない・・・・いや」 もう、儚い影になった貴方が微笑む。 寂しそうな面影を残したまま、何処か嬉しそうに。 ああ、なんて ―― 「・・・・ありがとう」 残酷な人・・・・ 鳴らない笛 夕暮れ時の由比ヶ浜を、望美は一人で歩いていた。 年開けてすぐの初日の出の時には大混雑していた浜も、さすがに一月も中頃になれば人はいない。 まして夕暮れとなれば、サーフィンをする人影も消え波音の支配する静かな世界だった。 波音の間に聞こえる街の音が遠いのが心地よかった。 さく・・・・さく・・・・ 足下で砂が音を立てる。 なんだかその音が酷く懐かしかった。 望美にとっては二年以上ぶりに踏む由比ヶ浜の音だったから。 もっとも『こちらの時間』では存在しない二年だ。 『こちら』ではなく『あちら』 ―― 京という異世界で過ごした時間。 その地で望美は龍神の神子と呼ばれ、八葉という仲間達や対の存在だった黒龍の神子と一緒に歴史の流れに巻き込まれ、その運命に翻弄された。 そしてそこで ―― 望美は出会った。 八葉の一人で、望美と行動を共にしていた源氏に敵対する平家の一員だった青年に。 ザザァ・・・・ 押し寄せる波の音に望美は足を止める。 頬を撫でるように吹いた風に促されるように望美は海へ目を向けた。 緋色の夕焼けが目を焼いて、望美は目を細める。 「綺麗・・・・まるで」 ―― あの時のように。 ふと望美は何か思いついたように鞄に手を入れると、中から藤色の細長い袋を取り出した。 そして鞄と手袋を外すと足下に置き、藤色の袋の中から美しい横笛を出した。 美しい意趣の施された笛が思いの外大きい事を知ったのは、この笛の持ち主がいなくなってからだった。 (・・・・繊細な手で持ってたせいかなあ。) 今思えば、彼と共に過ごしていた時はこの笛を持たせてもらった覚えはない。 あんまり彼の手に笛がしっくりと合っていたから、持たせて欲しいなんて口に出す事も思いつかなかった。 そう思い出しながら、望美は自分の手に余る笛を見つめ、ほんの少し口元を緩める。 「・・・・ほら、やっぱり手放しちゃいけなかったんだよ。」 出会った時に、彼はこの笛を元の持ち主に返そうと自らの危険も顧みずに、敵である源氏のいた京の街にやってきていた。 本当は笛を手放すのが寂しいと、悲しいと思っているのにその感情を器用に押し殺して。 「我慢ばっかりして、自分の事に無頓着だったから・・・・」 いつだって儚い笑みを浮かべて、自分の大事な一族に弓引く苦しさを覆い隠していた。 そうして望美の事ばかり心配して。 (優しくて、儚い人だった。) 個性の強かった八葉の一行の中で一人ひっそりとした雰囲気を持っていた彼に、目がいくようになったのはいつからか。 目を離したらふっとかき消えてしまいそうで、いつもこっそり見つめていた。 歩く時はなるべく側にいたし、戦場に出る時も離れないようにしていた気もする。 (護っている気でいたのかもしれない・・・・) 他の男性陣に比べて武芸に関しては一歩引いていた彼だったから。 ―― でもその実、護られていたのは望美だった。 物理的なものではなく、その繊細な心遣いでいつだって望美の肩の力を抜いてくれたのは彼だった。 彼の側は静かで穏やかな空気が流れているような気がして、黙って彼の側にいるのが望美にとって一番無理をしてない時間だった。 旅先の宿でも、京の梶原邸でも夕方を過ぎる事になると彼はよくぽつっと一人で庭にいた。 その隣へ名前を呼んで座ると、きまって驚いた顔をして何度か瞬きして・・・・そして困ったように微笑む。 でもそれは拒絶ではなくて自分の価値を今一歩わかってなかった彼の戸惑いだと望美はわかっていたから。 後は黙って側に座って。 『私は・・・・穢れているから』 まるで自分にも言い聞かせているかのように何度も何度も繰り返していた言葉が耳に蘇って、望美は緩く首を振った。 「貴方は穢れてなんかいなかったよ・・・・」 (確かに怨霊という存在だったけど、貴方は誰より静かな気を持ってた。) 望美は自分の手の中に居心地悪そうに収まっている笛に目を落とした。 穢れてなんかいなかった。 弱くもなかった。 強くて、綺麗で、優しくて・・・・そして 「・・・・酷い人・・・・」 ぽつりと零れた言葉が、自分でも驚くほど悲しげで望美は唇を噛みしめた。 (酷いんじゃない。あの人はそれを望んでた。) だから清盛と対峙した時、正気を失った彼を望美はその手で。 ―― 『・・・・ありがとう』 ―― 「敦盛さん・・・・っ!」 名前を口にした途端、堰を切ったように望美の瞳から涙がこぼれ落ちる。 彼を、敦盛を封印してから何度こんな風に泣いたかしれない。 敦盛がもう同じ世界に存在しないその辛さに、たった一言の自分の気持ちを伝える事が永遠に出来なくなったその悲しさに。 けれど、とうとう望美はあちらの世界で望美の最大の武器だった時空を越える白龍の逆鱗を使うことができなかった。 (だって・・・・貴方は笑ったから。最期の時に。) ありがとう、とそう言って。 消えゆく直前に敦盛が見せた安らかな笑顔が望美に逆鱗を使うことを躊躇わせた。 敦盛が望んでいたのなら自分の我が儘の為に時を遡って敦盛の運命を変えることはできなかった。 それでも育ってしまった気持ちは消せない。 抱いてしまった気持ちはあまりにも大きくて、大切すぎて捨てられなくて。 せめて敦盛と過ごした思い出のあるあの世界を離れれば、少しは薄れて行くかも知れないと思ったけれど。 「・・・・無理だよ・・・・忘れられない・・・・っ!」 あんなに綺麗な人はいない。 あんなに悲しい人はいない。 (あんなに好きな人にはもう二度と会えない・・・・っ) 音も立てずに望美の頬を幾筋も涙が伝う。 それはこぼれ落ちて、手に、敦盛の笛にも。 望美はそっと笛を引き寄せた。 そして初めてその笛を口元に当てる。 口づけをするように、優しく押し当てた唇から震える息が流れ込んでも、笛は微かな音も立てなかった。 聞こえるのは波の音ばかりで、敦盛の奏でた澄んだ音の欠片も蘇らせることはできない。 それがまるで、無力さを思い知らされているようで望美は唇に自嘲気味な笑みを刻んだ。 ―― その時 ―― ザアッ・・・・ 波の寄せる音がして ―― 抱きしめられた 背中から肩を抱きしめられた望美は身を固くする。 それは怯えからではなく ―― あまりにも信じられない思い故に。 だって胸の上で交差したその腕を、その手を・・・・望美は知っていたから。 いつだって見つめていた、その手を。 「・・・う・・・・そ・・・・」 声が涙のせいでなく掠れた。 (嘘・・・・うそ・・・・そんなことあるはずない・・・・) 残酷な幻なら早く消えて、と。 必死で願う望美を、ますます強く腕は抱きしめる。 そして肩に押しつけられた『その人』の頭が僅かに動く気配がして。 「・・・・それでは音は鳴らない。―― 神子」 波の音にも消されてしまいそうに小さい、けれど確かに血の通った現実に響く声に、望美は弾かれたように振り返った。 そして振りほどかれる形で腕をといた『その人』と望美は向かい合う。 あちらの世界で見慣れていた装束ではなく、こちらの世界にそぐう姿になっている『その人』。 でも望美が見間違えるはずがない。 紫紺の髪と紅の瞳の、『その人』を。 「あ・・・・つも・・り・・・・さん・・・・?」 ひどく震えた声で名を呼ばれた『その人』は、一瞬何かに耐えるように目をつぶって、それからしっかりと頷いた。 「ああ。」 ―― その瞬間、望美はぶつかるように抱きついていた。 目の前にいるその人が幻でないと確かめるように強く強く。 「敦盛さん・・・・敦盛さん・・・・敦盛さん!」 涙に震えて、霞む声で必死に名前を繰り返し抱きついてくる望美を、敦盛も強く抱きしめる。 「神子・・・・!会いたかった!」 耳元で震える声が聞こえる。 ずっと焦がれ、求めていた声が。 幻に何度も聞いたその声だから、今も都合の良い夢を見ているような気になった望美の体を軋むほど敦盛が強く抱きしめる。 夢ではない、とそう言うように。 そこまでが限界だった。 「っうあーーーーんっ!!」 堪えきれなくなったように大声で泣き出してしまった望美を敦盛は揺るがぬ力で包み込む。 幻ではないその感触に、望美の涙は止まるところを知らないように零れ続けた。 夕陽が完全に海に沈んでしまう頃、やっと望美は顔を上げることが出来た。 腕を少し緩めて望美の動作を許したその人を、改めて望美は見つめる。 長かった髪は首のあたりで一つに括ってあって、着ている物も現代風の洋服だが、優しい瞳や何よりその存在を望美が間違うはずもない。 「・・・・敦盛さん。」 「そうだ。」 確かめるように名前を呼ぶ望美に、敦盛はしっかり頷いてくれた。 その事にほっとしつつ、望美の頭には一つの疑問が浮かんでいた。 「でも、なんで?どうして敦盛さんがこっちにいるの?・・・・あの時、私は貴方を・・・・」 唇を噛んで俯きかけた望美の頬に敦盛は遠慮がちに触れる。 促されるように顔を元に戻した望美に、敦盛は優しく微笑んで見せて言った。 「神子が封印してくれたから。だから私はここに在る事ができたんだ。」 「?どういうこと?」 「あの時・・・・消える直前に、白龍の声が聞こえた。神子に伝え忘れた事はないのか、と問うてきた。 だから私は答えた。ある、と。」 「伝え忘れた事?」 「ああ。けれどあの時は言ってはいけないと思っていた。私は怨霊で、不安定な存在だったから。 ・・・・それを白龍は見抜いていたのだと思う。だから私に言ったんだ。 伝え忘れた事を伝えるために、私は生きなくてはならない、と。その声を聞きながら私は闇に沈んで・・・・気がついた時にはこの世界の19年前に生まれ変わっていたらしい。」 「え?生まれ変わったって・・・・」 目を丸くする望美に、敦盛は困ったように少し笑った。 「言葉の通り、赤子としてこの世界に生を受けた。幼い頃の記憶はかなり曖昧なのだが、物心着く頃にははっきり京の世界での記憶を取り戻していた。」 「そんなに・・・・?そんなに長い間、こっちの世界で過ごしてたの?」 「いや、その・・・・長くはない。ずっと、考えていたから。」 そう言って一瞬だけ目線を反らし、すぐに望美に戻した敦盛の表情は酷く真剣で我知らず望美もその瞳を真っ直ぐに見つめ返す。 「ずっと・・・・ずっと考えていたんだ。神子に再び会えることが出来たなら、なんと伝えればいいかと。 幾通りもの言葉を考えて・・・・けれど、思いつくのはいつも結局は同じ事だった。」 言葉を切って敦盛は深呼吸をするように深く息を吸う。 そして言った。 「私は・・・・神子が好きだ。」 零れんばかりに目を見開いた望美と対照的に敦盛は、何処か切なそうにさえ見えるほど愛おしげに目を細める。 「やっと・・・・言えた。 京で共に戦ってくれていた時からずっと、神子は私の憧れだった。美しく、強く、しなやかな神子が。 同時に護りたいとも思っていた。貴女の弱い部分もすべて護ることができるなら・・・・と。 けれどあの時の私は怨霊だったから、こんな気持ちを伝えてはいけないと思っていたのだ。」 「そんな・・・・そんな事、関係なかったのに・・・・」 「そう・・・・神子は何度も、そう言ってくれたな。けれど私にとってそれは一番の楔だったんだ。 神子と同じ時を生きることが出来ない者に、貴女を幸せにすることなど出来ない。 だから諦めようと思っていた。けれど・・・・」 敦盛は言葉を切って、微かに触れていただけだった手を望美の頬に寄せた。 冬の海風にさらされて冷たくなっていた左の頬を包んだ暖かい感触に、望美はあやうくまた泣きそうになった。 「けれど、私は今、生きている。だから・・・・だから諦めたくない。」 何処か強い響きを滲ませた言葉を囁くように紡いで、敦盛は左手も望美の頬へ添わす。 「聞かせて欲しい・・・・神子は、その・・・・私を・・・・」 両頬を挟むように包まれ、視線を真っ直ぐ敦盛に向ける形になった望美は思わずくすりと笑ってしまった。 さっきまであちらの世界の敦盛ではあり得なかったほどに迷い泣くきっぱりと言っていたのに、望美の気持ちを聞く段になって急に緊張したようになつかしい口調に戻ってしまった敦盛が酷く・・・・愛おしくて。 「敦盛さん」 名前を呼ぶと、敦盛はびくっと震えた。 何を言われると思っているのだろう、と思って望美は苦笑した。 (答えなんて決まってるのに。) あちらの世界から苦しい程の想いと共に大事に抱えてきたもの。 もう永遠に形にはできないと思っていた気持ちを、形に出来る予感に望美は震える。 望美はそっと自分の頬に触れている敦盛の手に、自分の手を重ねた。 ふと、視界の端にいつの間にか手から零れてしまっていた笛が砂浜の上に転がっているのが映った。 (また、吹いてくれるかな・・・・) 今度はこの世界で。 未来の予感に望美は柔らかく微笑んだ。 敦盛がその美しさに息を呑んだほどに。 そして ―― 「・・・・貴方が、敦盛さんが好きです。」 ―― それは時空を越えた未来への扉が開く音となる 〜 終 〜 |