――「どうして・・・・もっと早く言ってくれなかったの?」 そう言って初めて涙を零した君を見た時、オレは初めて ・・・・自分の鼓動が跳ね上がるのを聞いた 神子姫の涙 濃紺の夜の闇に、溶けるような漆黒の海。 その境、港に停泊された小型の船の甲板にぽつりと人影があった。 闇の中にあって、一点の篝火のように緋色の色を失わない少年は何も見えない海に視線を固定したまま微動だにしない。 その眉間には深い皺が刻み込まれ、深く考えに沈んでいる彼の心中を表していた。 と、ふいに少年は顔を上げて後ろを振り返った。 同時に闇の中から声が響く。 「ヒノエ。」 「敦盛か。」 なじみの声に緋色の少年 ―― ヒノエは張りつめていた緊張を解いた。 そして船縁に上がってきた昔なじみの少年を見て少しだけ笑う。 「気配を消すのが上手くなったじゃねえか。」 「別に・・・・そういうわけではない。ヒノエこそ、ここで何をしている?」 独特の目を伏せるような仕草で側までやってきて見下ろす敦盛を見上げて、ヒノエは肩をすくめた。 「違うだろ。そんな事を聞きに来たんじゃない。違うか?」 「・・・・・・・・・」 静かに見つめ返されてヒノエは僅かに視線をそらした。 敦盛の目は澄んだ水鏡のように感じる時がある。 その中に自分の中に荒れ狂う気持ちを見てしまいそうで・・・・。 「・・・・望美は?」 「随分ふさぎ込んで帰ってきた。朔殿と弁慶殿が何とか夕食は食べさせたらしいが、それきり寝てしまったらしい。」 「そうか・・・・」 答えた自分の声が苦いのがわかる。 それに気がついているのか、いないのか、敦盛は一瞬の間を開けて言った。 「ばれたのだろう?ヒノエが別当だった事が、神子に。」 「・・・・ああ。」 端的に答えてヒノエは唇を噛んだ。 今まで春に京の六波羅で出会って以来、ヒノエはその本来の役目と身分を隠したまま望美達と行動を共にしてきた。 すなわち、ヒノエ自身が年若い熊野の別当職につく人間であるという事を。 目の前の敦盛と、狐が狸を被ったような叔父はその事実を知っていたけれど、熊野という土地柄を理解していたからばらされる心配もなかった。 その上でずっと望美を ―― 龍神の神子という存在を吟味してきたのだ。 今の情勢にどんな一石を投じるのか、どんな変化をもたらすのか、と。 ヒノエにとってそれは信じなかった、というのとは微妙に違う。 慎重に、手の内を隠して必要な情報を得るための最も最善の策だった。 しかし真っ直ぐで、人を信じることに関しては周りが心配する程純粋な望美にしてみれば、少なからず衝撃になっただろう。 ・・・・それでもそれぐらい大したことはないと思っていたのだ。 望美が一時的に傷ついたとしてもそれを取りなす自信もあった。 一度懐に入れてしまった人間に対して冷酷になりきれないのが望美だ。 自分の話術と彼女との関係を考えれば、多少望美のご機嫌を損ねたところで容易に取り返すことぐらい出来る・・・・そう思っていた。 そう、怒ることしか想像していなかったのだ。 「っ・・・・泣くなんて、思わなかったんだ。」 ―― 最初は望美に龍神の神子という価値を見いだした。 八葉に護られるだけでなく護りたいと言った強い瞳に、源氏の旗頭に慣れる可能性を見いだし、剣を振るう姿はますますその予感を補強してくれた。 おとぎ話半分の伝説だけでは人の心は動かない。 望美本人の資質が伝説を今に蘇らせ、今やほとんどの源氏軍の兵士達が彼女を神が使わした戦女神だと信じている。 他の女性達とは違い、戦場においても輝きを失わないその強さにヒノエもまた興味を持った。 柔らかいだけの花とは違い、一筋の鋭さを秘めた少女。 たぶん、そんな希有な所ばかりに心惹かれていて・・・・基本的な事を見落としていた。 否、感じさせないように精一杯に隠していたのだろう、望美自身が。 ―― 彼女は春日望美という一人の普通の少女である事を。 (烈火のごとく怒るか、あっさり受け止めるか、そんな風に思ってたんだよな、オレは。) たった一人海賊にさらわれたあの船の上でさえ、一人で反撃をする方法を考えていた望美だからきっとそのどちらかだと思っていたのに。 引っ立てられていく海賊を確認してヒノエが、さあこれから姫君のご機嫌をとるぞ振り返った時、望美は今までに見たこともない程頼りない・・・・感情のあふれ出すギリギリ縁にいるような顔をしていて。 ――「どうして・・・・もっと早く言ってくれなかったの?」 絞り出した声が微かに震えて、一筋彼女の白い頬に初めて見る涙が伝った時 どくんっ 信じられないほど大きく心臓が脈打つ音を聞いた。 そして ―― これまで彼女がどれほど懸命に龍神の神子を演じてきたかを知った。 「情けねえったらないぜ。」 思わず呟いた言葉はあまりにも苦々しくヒノエの耳に残る。 (望美に初めて会ってから、オレが見てたのはあいつが必死に演じていた姿だったのに、オレはそれを見ぬけねえで望美の美しさとか強さにだけ惹かれてたわけか。) 彼女が内に隠した弱さや恐怖心や、そんな苦しみを見せてもらえもせずに。 なまじ女性経験が豊富だったのが驕りに通じたのか。 そうして・・・・傷つけた。 信じていた人間に信じられていなかったと知った時、真面目な望美はどれほど衝撃を受けたのだろう。 そう、龍神の神子の仮面では覆いきれないほどに。 「・・・・くそっ」 苦しそうな表情を隠しもせず口元に手をあてて吐き捨てるヒノエを横目で見ていた敦盛はぽつりと言った。 「ヒノエのそんな顔は初めて見る・・・・本気になったのだな。」 「・・・・・・・」 返す言葉もなくヒノエは敦盛をちらりと見る。 相変わらず静かな表情にはヒノエを揶揄するような色は見られず、ヒノエは小さくため息をついた。 「鈍そうに見えて勘は良いよな、お前。」 「私とて一応は熊野育ちだ。勘がよくなければこの地では生き抜けまい。それに勘が悪くても今のヒノエの顔を見れば誰にでもわかると思うが・・・・」 「そんな顔をしてたかい、オレは。」 「ああ。神子を傷つけた事、よほど後悔しているのだな。」 「後悔、か。」 舌先で言葉を転がしてヒノエは顔を口元を歪めた。 (ああ、してるさ。この三月ほどの間に望美の隠してたものに気付いてやれなかった事も、あいつを傷つけた事も・・・・こんなに本気で惚れてるって事にここまで気付かなかった事もな。) そう、これまで望美の龍神の神子としての側面に興味を抱いていたのは本当だし、それ故にその気丈さや希有な性質に惚れたと冗談のように言っていた。 熊野で待つ部下達にも一目惚れだなんて言って。 馬鹿な話だ ―― その冗談にしていた気持ちのすべてが、自分でも半分忘れかけていた本気から来ている事に気がついていなかったなんて。 いや、あるいは気がついていてなお冗談にしておきたかったのかも知れない。 だって望美は他の世界からやってきた天女で、役目を終えればきっと帰ってしまう存在だから。 本気だなんて気付かないように、無意識に自分で制御していたのかも知れない。 それが・・・・望美の涙を初めて見た時、堰を切ったようにあふれ出しただけ。 涙をこぼす望美を前にして、言葉すら上手く見つからない程、体中を支配した想い。 「本気、か。」 呟いた自分の言葉に嘲るような響きを感じ苦笑する。 本気と気付いた途端に弁解の言葉ひとつ出てこないなんて、幾多の遊びの経験などなんの意味もない。 「ヒノエ。」 「ああ?」 「神子は明日、勝浦へ行くそうだ。」 「え・・・・」 「別当と約束したから、とそれだけ皆に言った。」 「・・・・・・・・」 ヒノエは一瞬言葉を失った。 確かに自分は勝浦にいるとそう言った。 でもまさかあれほど傷ついていた望美が正直にそれを受け入れ会いに来てくれるとは、半ば諦めていたのに。 そのヒノエをちらりと見て敦盛は言った。 「ヒノエにとっては好機だろう。神子を傷つけたのが貴方ならその傷は貴方にしか癒せない。その真意をちゃんと伝えてくれ。」 「・・・・敦盛。」 「なんだ?」 「お前も望美が好きなのか?」 今までのヒノエから考えれば信じられないほど直球な質問に、敦盛は一瞬驚いたように目を見開き、すぐに視線を落としてヒノエに背を向けた。 「・・・・私は神子が笑っていてくれれば、それでいい。」 「そうかよ。」 「ああ・・・・失礼する。」 それだけ残して去っていく敦盛の背中を見ながらヒノエは夜の闇に溶けそうなほど微かに呟いた。 「・・・・オレはごめんだね。」 (望美が笑っているのがオレ以外の奴の隣だなんてさ。) ヒノエは勢いをつけるように立ち上がった。 その振動に船が微かに揺れて波音を立てる。 聞き慣れた音を聞きながらヒノエは真っ暗な夜の海に目を向けた。 (・・・・今はこの海と同じだ。) 源氏と平家の戦況も、熊野の身の振り方も・・・・望美の気持ちも、その行く末も。 でも真っ暗な海にもいつか日が昇り、周りが見えてくる時間が来る。 その時に、望美が笑っているその隣に居るのは自分、そうしてみせる。 例え今が逆境で、他に優位にいる恋敵達が山ほど居ても、胸の内で火がついた本気は誰にも負けられないほど強くて熱いから。 「生憎オレは諦めが悪くてね。」 まずは明日の勝浦。 そこから名誉挽回と、たぶんこの機に乗じて点数をいくつか稼いだであろう恋敵達への巻き返しを図る。 ヒノエは先ほどまで胸に燻っていた苦い気持ちごと、胸に宿った炎を抱えるように自分の白い上衣を羽織る。 ―― そして酷く挑戦的な笑みを口元に刻んで囁いた。 「・・・・覚悟してなよ、望美。」 〜 終 〜 |