神に愛された者
仄暗い灯台の灯りの下に、白く艶めかしい肢体が横たわる様を、頼朝は無感動な表情で見た。 その表情に目をとめて、情事の後で僅かに火照った顔で肢体の主である政子が問うた。 「どうかなさいました?」 「いいや・・・・彼の神が去ってもお前は変わらぬと思っただけだ。」 「まあ。」 彼女の年齢からすれば幼いとすら映るきょとんとした顔をして、政子は笑った。 『彼の神』、荼吉尼天。 政子の体を依代に、数多の平家の怨霊を屠り頼朝の最大の戦力と恐れられていた邪神。 頼朝は僅かばかり前にその力を失ったばかりだ。 だというのに一向に頼朝は動じた様子を見せない。 その為政者の器と、冷たさを感じさせる態度が政子には心地よかった。 「ご不満ですの?」 「何故だ?お前はお前だ。」 簡潔で甘さの欠片も感じさせない声音に、政子の胸が震える。 その感情の赴くまま、政子は体を起こすと頼朝の肩にしなだれかかった。 素肌から直に移る熱にうっとりと目を閉じる。 我が身を依代に降ろした神の消滅は政子の肉体には傷を残さなかったが、精神を傷つけた。 しかしこうしていると、その傷もゆるゆると癒えていくような心地になる。 政子を好きにさせておいて、頼朝は枕元に置いてあった杯を引き寄せて一杯煽る。 そしてぽつりと言った。 「・・・・朝比奈を越えた後の九郎一行の追捕をさせなかったそうだな?」 いつかは頼朝の耳に入るであろうと思っていた事柄を唐突に言われ、一瞬政子は身じろいだ。 「ええ。」 あの時、己の内に宿る荼吉尼天すら打ち倒し走り抜けていった彼らを、政子は追うなと言った。 九郎義経を逆臣と信じ息巻く御家人達を制したのは間違いなく政子だ。 それは本来ならば九郎を逆臣とした頼朝に背く行為にあたるが。 「そうか。」 あっさりと頷いて頼朝はまた杯を空けた。 あまりにも素っ気ない返事に政子は目をしばたいて、夫の横顔を伺う。 「・・・・お許しになってよろしいのですか?」 その言葉に頼朝はちらっと政子に目を走らせ、再び何でもないように言った。 「かまわん。 他の者がした事ではなく、政子のした事だからな。」 「まあ・・・・」 政子は今度は本気でポカンと目を見開いてしまった。 次いで込み上げてくる可笑しさに、くすくすと肩を揺らした。 「いけませんわ、厳しく追及致さなければ。もし、私が貴方様への謀反を企てていたりしたらどういたしますの。」 笑った事で政子の髪が揺れて肌を擦ったのがくすぐったかったのか、頼朝は杯を置くと空いた手で髪を絡め取る。 そして緩く引き寄せ、近づいた政子に向かって口の端を少し上げて見せた。 「つまらぬ事を言っていると黙らせるぞ。」 それだけの宣言で、頼朝は政子の口を己の唇であっさり塞ぐ。 深く、深く、時折離れるたび、政子のため息と笑い声が夜の空気を振るわせる。 それはじゃれ合う動物のように。 幾度も飽きるほど唇を重ね、離れて引いた銀糸すら愛おしげに政子はすくった。 「頼朝様。」 名を呼べば訝しげに頼朝が目で「なんだ」と問うてくる。 武士の世を目指し駆け出し始めた頃と何ら変わらぬその姿に、恋を覚えたばかりの娘のように政子の鼓動が高鳴る。 あの頃は、皆が伊豆に流され隠遁していた頼朝が平家を相手にむき出した牙に驚いた。 この世の何もかも諦めているような風情の源氏の頭領の息子に、これほどの器と才があったのか、と。 けれど政子はその前から流罪の身の頼朝の中に将を見ていた。 尊大で、冷酷で、力強い腕を持った頼朝の姿を。 (だから・・・・) 願った。 妖の頭領を有す平家との戦いは、負ければ頼朝の死を表す。 頼朝がただの男であったなら、あれほど願いはしなかっただろう。 けれど政子にはわかっていたのだ。 駆けだしたら最後、頼朝は上に向かって登り続ける、と。 それが止まるとしたら死ぬ時に他ならない。 (死なせたくなかったわ。どんな事をしてでも。) ―― ふいに政子はくすっと微笑んだ。 「なんだ?」 今度は口に出して聞いてきた頼朝に、政子は微笑んだまま言った。 「私、あのお嬢さんと自分が同じように思えましたの。」 その言葉に、頼朝が面白そうに方眉を上げる。 「京の守護者たる龍神に愛されたあの娘と、邪神をその身に宿したお前がか?」 「うふふ、そうですわね。 けれど、神という者は人の強い想いが好きなもの。そうでございましょう?」 霊験あらたかな坊主でも聞けば、罰当たりだと憤るかもしれないと思ってますます政子は可笑しそうに笑った。 けれど、そんな者にはきっとわからない。 あの娘 ―― 龍神の神子と呼ばれ、九郎に恋していた、あの望美の瞳に宿るものは。 ―― しずしずや・・・・ 不意に耳に鶴ヶ岡八幡宮で舞う望美の歌が蘇る。 あの歌を耳にした時、政子は唐突に悟ったのだ。 この娘には勝てないだろう、と。 髪を梳いて続きを待つ頼朝の手を絡め取って、政子は言った。 「殿方におわかりになるかしら。 きっと私も、あの娘も、自分の力ではどうにもならないものを前に、必死で祈ったのですわ。 ・・・・愛しい方を助けたい、と。」 鶴ヶ岡八幡宮で舞った時、望美は九郎のためにまだ力を欲していた。 九郎を生かすために、共に在るために。 対して政子は、頼朝と共に頂点まで駆け上がった時だった。 『想い』が違った。 そして同時に目の当たりにした『想い』は、かつて自分が抱いたものだと懐かしくさえ思った。 ―― この男(ひと)を助けたい・・・・護りたい! 「望んだのは、ただそれだけ。 けれどこれほど強く、確かな祈りはありませんわ。 聖か邪かなど、問題ではないのです。」 言い切って誇らしげに微笑む政子を、頼朝は無言で引き寄せた。 その暖かい胸に額をつけてすり寄ると、耳元で静かな頼朝の声が聞こえた。 「政子。」 「はい?」 「お前が側にいて、私はここまで上がってきた。」 「はい。」 「だからこれからも・・・・離れず、側にいろ。」 「・・・・はい」 灯台の灯りがゆらりと揺れて。 ぱたり、と床を打つ水音が一粒だけ落ちた・・・・ 〜 終 〜 |