十六夜の月
「先生」 夜の静寂を破った声に、一人縁に座して黙していたリズヴァーンは目を開けた。 ゆっくりした動作で視線を横に滑らせれば、白い人影が目に入る。 「神子、どうした?このような夜更けに。」 問われて立っていた少女 ―― 望美は困ったように微笑んだ。 「隣、座ってもいいですか?」 「構わない。」 リズヴァーンが頷くと望美は静かにその隣に膝を抱えるようにして座った。 寝支度をして、おそらくは寝床にも入ったのであろう。 少し乱れた髪が望美の肩を滑った。 リズヴァーンはもとより余りしゃべる方ではないし、望美も今は会話を望まないのか静かに視線を庭に滑らせた。 秋が近い庭は葉を茂らせている木々も減り、星空がよく見える。 密やかな虫の音が耳をくすぐった。 「・・・・眠れなかったのか?」 そんな庭が奏でる音に紛れるほど自然に、リズヴァーンの声が望美の耳に入る。 望美はちょっとバツが悪そうに笑って答えた。 「はい。寝ようと思って布団に入ったんですけど、全然・・・・。」 「そうか。」 短く答えただけで、リズヴァーンはそれ以上問わない。 またしばらく、沈黙に浸った。 雲が動き、月明かりだけがさす庭の様相を変えていくのをただ黙って見つめる。 「先生。」 望美は視線を動かさずに、小さく呟いた。 「もしも、もしもの話をしてもいいですか?」 虫の音と変わらぬ密やかさで耳に入る望美の言葉にリズヴァーンは静かに頷いた。 それを見て取ったのか、望美がゆっくりと『もしもの話』を始める。 「もしも、先生が時間を自由に移動できる力を持っていたとして。 一度、ある人の死に出会ってその人をどうしても助けたいと思ったとします。」 リズヴァーンは何も言わず頷く。 虫の音が遠くから近くから木霊する。 「でも何度も何度も時間を行ったり来たりしても、その人を助けることはできなかった。 どうしても、何度も何度もその人は目の前で死んでいく・・・・」 池に映る月影が揺れる様をリズヴァーンは見つめていた。 漆黒の影にしか見えない木の葉が風に揺れ、月明かりの中を散っていく姿を望美は見ていた。 「・・・・でも、何度も繰り返しているうちに、気がつくんです。その人を生かす道があることに。それはとっても大きな賭だけど、みんなが幸せになる道に通じているんです。 ・・・・ただ、その道を選ぶと」 望美は息を吐いた。 内に凝った感情が少しは夜風に溶けていくような気がした。 その風に乗せるように、望美はゆっくり言った。 「その道を選ぶと、その人は私の事を知らないまま、なんです。」 ―― お前に会えるのを、楽しみにしてたぜ?源氏の神子・・・・ ―― お前が源氏の神子、か・・・・ ―― 待ち人は来ず、珍客来る、か・・・・ ―― お前は何者だ・・・・? 夜風がさやさやと耳に音を運ぶ。 月の光がふっと翳った。 月が雲に隠れたせいではなく、望美が抱えた膝に額を付けたせいで。 ・・・・選択の時空(とき)が近い。 それがわかっていて、なお、結論が出せない。 (やっと見つけた選択なのに・・・・) それを選ぶ事に迷うのは、忘れて欲しくないからだ。 何一つ望美自身が忘れることが出来ない事を。 何より、春日望美という存在の事を ―― あの人に。 (なんて奴・・・・) 自分で自分を嘲る。 その選択を選び取ることが出来れば、誰も命を落とさずに、望美が知る限り最も最良な結果にたどり着くというのに。 ぎゅっと望美が掌を握りしめた時、ふいに隣の気配が動いて、同時に頭の天辺に暖かさが生まれた。 「?」 驚いて顔を上げれば、隣で庭を見ていたはずのリズヴァーンと目があった。 その瞳の穏やかさに驚き、次いでその手が望美の頭に撫でるように乗っている事に驚いた。 「先生?」 「神子。『もしもの話』に結論は出せない。」 「え・・・・?」 「だが、ひとつだけ言えることがある。」 望美は何も言えずリズヴァーンを見つめていた。 その視線を受け止めて、リズヴァーンはよく響く深い声で言った。 「知らないのなら出会えばいい。」 (・・・・ああ) 望美は小さく目を見開いた。 その変化を見て取ってかゆっくりと望美の頭を撫でて手を離したリズヴァーンは、目元に穏やかな笑みを刻む。 「生きているのなら出会うこともできよう。出会ったその者が覚えていない事も、お前は覚えていることが出来る。」 ―― いつの時空の事も。幾多の出会いも・・・・別れも 「その者が知らぬ思い出でも、お前は抱え続けることができ、そして新たなものを紡いでいくことも出来る。」 ―― 先へ、進んでいくことが出来る 「違うか?」 「・・・・いいえ。違いません。」 自分の声が奇妙にきっぱり聞こえた。 リズヴァーンが微笑む。 わかっているのだ、と望美は思った。 (私が選んだ事を。) 望美は勢いよく立ち上がった。 視界が広がる・・・・導かれるように、望美は階を裸足のまま降りる。 軒先から、月が見えた。 「満月・・・・じゃない、少し欠けてる?」 呟いた望美の隣に、いつの間にかリズヴァーンが立っていた。 そして同じ月を見上げ呟く。 「十六夜の月、だな。」 「十六夜・・・・」 口の中でリズヴァーンが言った言葉を繰り返し、望美は目を細めて惜しみなく光りを降らす月を見上げた。 その光に映した面影を見つめていた。 ―― だから望美は知らない。 望美の横顔を、リズヴァーンが見つめていたことを。 音もなく、唇が刻んだ言葉の意味を。 |
| 『もしもの話、か』 |
―― 十六夜の月は、それぞれに微笑む二人の上で輝いていた・・・・ 〜 終 〜 |