犬も食わない痴話喧嘩



ちょっと興味があるだけです、なんて何気なく言うから、ただの世間話のつもりで答えたら ――

―― 旦那様は見事に拗ねた。

















「も〜、そろそろ機嫌なおして下さいよ、弁慶さん。」

半ば呆れ半ば困ったような望美の言葉に帰ってきたのはゴリゴリと薬をすり潰す音のみだった。

その音の示すとおり望美が見やる先にはこちらに背を向けてすり鉢動かしている望美の旦那様。

かつて鬼子と呼ばれた色素の薄い髪が薬をする仕草に合わせて揺れるのを見ながら望美は途方に暮れた。

もっともこれが本格的に弁慶が怒っているのなら、違う反応になっただろう。

元源氏軍の敏腕軍師を怒らせようものならこんな悠長なやりとりはしていられるはずもない。

おまけにこの状況の発端も望美にはわかっていた。

まあ、わかっているからこそ、望美としては呆れるやら困るやらなのだが。

(まさかあんな事で、ねえ?)

望美は未だ頑なに自分に向けられている弁慶の背中を見つめて一つため息をついた。

途端に、ぴくっと弁慶の方が揺れる。

その反応が妙に素直で望美は少しおかしくなった。

臍を曲げておきながら相手の反応が気になるなんて。

「弁慶さん、子どもみたいですよ?」

少し笑いの滲んだ声でそう言うと、今度はその肩越しに琥珀色の瞳が不満そうに向けられた。

それがまた完全に拗ねた子どものそれで、堪えきれずに望美はとうとう吹き出した。

「・・・・そんなに笑いますか。」

「だ、だって」

剣呑な目で見られても望美の笑いは収まらない。

まあ、それも仕方が無いといえばそうかもしれない。

笑顔という仮面の下に心を隠して数々の戦で命がけの化かし合いをして見せた武蔵坊弁慶と目の前のこの人が同一人物だと誰が信じるだろうか。

「弁慶さんがこんな事で怒るなんて思わなかったんだもん。」

「こんなことじゃありません。」

望美に言われて弁慶は再びぷいっと顔を背ける。

その後を追うように揺れた薄茶の髪がまるで猫の尻尾のようだ。

どうにもおかしくてクスクスと零れる笑いを納められないまま、望美は弁慶を覗き込むように側へ座る。

「こんな事、ですよ。だって本当に昔の話なんだから。」

「・・・・」

「弁慶さんだって昔の事だってわかってるからちょっと聞いてみたんでしょ?」

「・・・・それはそうですけど。」

薬草をすり潰す音に紛れそうなほど小さな声での肯定に、それみたことか、と望美は胸を反らせた。

その様子を横目に見つつ、弁慶の方はゴリゴリと刷り棒を動かす。

しかしその仕草はいつもの丁寧な弁慶のものとは違いどこか乱雑で、まだ納得しないのかと望美が呆れていると再びぼそっと弁慶が呟いた。

「・・・・わかってます。君の答えだっておおよそ予想が付いていましたし、そんなに意外だったわけでもない。」

「それならなんでまた・・・・」

元々策謀策略知略の類はお手の物の弁慶の事だ。

望美が答える前から質問の答えに予想をつけておくぐらいのことは容易いのだろう、と判断して返って望美は首をかしげた。

わかっていた答えが返ってきて、それで何故動揺しているのか、と。

その素朴な問いかけの視線への答えは。

「・・・・答えは予想通りでしたけど、こんなに面白くないのは予想外でした。」

本当に面白くなさそうな呟きと、ぷいっとそっぽを向けられた顔と・・・・ほんのり赤く染まった耳。

「!」

予想外だったのは望美のほうだ。

まさかこんな妙に素直な反応が返ってくるとは思っていなかったせいで、返って言葉を失う。

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・えーっと・・・・)

ついでに数秒停止した思考が緩やかに動き出した時には、なんだか逆に望美の方が照れてしまって。

「べ、弁慶さん、変わりましたね。」

「狭量な夫ですみません。」

「狭量・・・・」

そう言えばそうなのだろうけど。

(狭量っていうか・・・・)

思わず望美は弁慶をじっと見つめてしまう。

相変わらず薬をすり潰す手を止めないその姿はかつて源氏軍として行軍していた時に見ていたものと寸分違わない。

でもあの時は弁慶という人はつかみ所のないどこへ行ってしまうのかどこか不安な印象ばかり感じさせる人だった。

隙など欠片もなく真意を捉えようとすれば巧みな言葉で煙に巻いてしまうような、そんな。

それなのに、今はどうだろう。

『あんな質問』をして、答えが予想通りだったら拗ねて。

(・・・・ど、どうしよう。)

さっきの笑いとはまた別種の堪えようとしても緩んでしまう口元を押さえて望美は思わず呻いた。

(か・・・・)















―― かわいい、なんて思ってしまった。














「う〜・・・・」

唇から漏れた声に弁慶がおや、という感じで振り返る。

「望美さん?」

「弁慶さんのばか。」

「はい?」

さすがに望美の言葉は予想外だったのだろう。

きょとんとしたような様子で首をひねる弁慶を望美はじっと睨んで・・・・それから。

堪えきれなくなったように望美が大きく手を伸ばして。

「わっ!?」

かろうじて薬椀をこぼす寸前に手放して望美を受け止めた弁慶の体に習うように薄茶の髪が跳ねるのを見ながら一瞬だけ望美の脳裏に、質問を投げてきたところから弁慶の策だったのかも、という考えが浮かんだ。

でも、それも間近で見る琥珀色の驚いた瞳にあっさりと溶けて。

望美は白旗をあげるようなちょっぴりの悔しさを込めて、ぎゅうっと弁慶を抱きしめて言ったのだった。

「初恋が誰でも、こんなに私の事振り回していつまでたっても慣れさせてくれないのは弁慶さんだけなんだからね!」

















―― ところで、肝心の弁慶の質問はなんだったか、というと・・・・

「そう言えば望美さん。」

「はい?」

「望美さんの初恋って一体誰なんですか?」

「は?」

「ちょっと興味があったんですよ。小さな君の心を奪ったのはどんな男なのか。」

「奪ったってそんな大げさな。でも、そうですね。ん〜・・・・将臣君かな?」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
















                                              〜 終 〜















― あとがき ―
犬も食わない所か「あほう!」と叫んでちゃぶ台返したくなるような痴話喧嘩でした(^^;)