その光景があまりにも幻想的で、あまりにも儚かったから。 一瞬幻か夢でも見ているのかと思った ―― 望月の神子 真夏の熊野はとにかく暑い。 しかし夜ともなれば、それなりに過ごしやすい気温まで下がってくれる。 熊野に着いたその日の夜、武蔵坊弁慶がふらりと外へ出たのはほんの夕涼みのつもりに過ぎなかった。 少し頭をすっきりさせたかったというのもあったかもしれない。 頼朝の命に反して、熊野が動かない事は目に見えていた。 まして弁慶のよく知る現在の熊野別当もちょっとやそっとの事では動かせない曲者であることも、弁慶の頭を悩ませていた。 熊野水軍の力を得なければ源氏は苦戦を強いられる。 逆に言えばそれだけのギリギリの状況である源氏に熊野はつけない。 絶対的に動かせない二つの折り合いをどうつけるのか、そして最終的に自分の方へ結果を引き寄せるにはどうするのか。 源氏に組して五年の間、軍師として経験を蓄えた弁慶といえど、それは難題だった。 だから頭を切り換えたくて宿を抜け出した。 他の面々はとうに眠っていたからそれはとても容易な事で、想像していたとおり涼風の吹く田舎道は月に照らされて気持ちが良かった。 (今夜は満月ですか・・・・) 漆黒の空に神々しく輝く月を見上げた弁慶の脳裏で、酷く自然に満月と、同じ名を持つ少女の面影がだぶる。 満月 ―― 満ちた月。 その名を冠する少女もまた、時として神々しい。 剣を振るう時、怒りに震える時、何かを諭す時、彼女はまるで現し身の人ではないような天人の片鱗を見せる。 それは少女が『龍神の神子』と呼ばれる伝説の存在だから、と言うだけではないような気がした。 (・・・・時折見せる表情のせい、か。) そんな事を考えて弁慶ははたと気付く。 いつの間にか自分が策を練る時と同じ仕草をしていることに。 そして一人密やかに苦笑した。 (頭を休めるつもりが、悩ませているなんてばかげていますね。) その言葉で弁慶は彼にしては珍しく中途半端に思考を打ち切った。 望月の少女のことを考えれば、熊野を攻略する策などよりもっとやっかいな事を考えなくてはいけなくなる・・・・と、わかっていたから。 気持ちに区切りをつけるように弁慶は被っていた袈裟を外して夜風に頬さらす。 そしてそぞろ歩きを再開しようとした時 ―― パシャ・・・・と、小さな水音が聞こえて。 その涼やかな音に惹かれるように、薄暗い林を入ってさほど大きくはない河原が目に入った時 ―― そこにあった光景に息を呑んだ 沢山の蛍の光が舞っていた。 その光が反射する川面に白い足を浸し、冴え冴えと降り注ぐ月の光を全身に浴びる少女がいた。 まるで無数の蛍を慈しむように、あるいは惜しげもなく降り注ぐ月の光をすくい取るかのようにその細い手を少女は真っ直ぐにさしのべて。 その腕に甘えるように幾筋かの光の粒が掠めては離れ。 月の光は彼女の上から翳ることを知らず、彼女の何の感情も刻んでいない唇を愛おしげに照らし出している。 ・・・・一瞬、弁慶は自分が見ている少女は幻ではないかと思った。 弁慶の知る少女は限りなく「動」に近しい人だ。 笑い、怒り、戦い、動く。 なのに今目に映っている彼女は完全なる「静」だった。 儚く夜の闇にそのまま溶けてしまいそうな、「静」。 しかし瞬きをしても少女の姿は消えることはなくそこにあり、それを確認すると同時に激しい不安に襲われる。 本当にこのまま夜の闇に、月の光に溶けてしまうのではないかと。 そうして何もかも・・・・弁慶自身の抱えている気持ちすら残して。 そんなはずはない、と十二分にわかっているのに彼女の名を呼ぶ声に不安が滲んだ。 「望美さん・・・・」 「!」 弾かれたように少女 ―― 望美が振り返る。 素直に主に従う長い髪に追い立てられ、光の粒がせわしなく動く。 「静」から「動」へ。 振り返った望美は悪戯が見つかった子どものようにバツが悪そうな顔で笑った。 「弁慶さん。」 その声がいつもの高さで、いつもの調子だったので・・・・弁慶は知らず知らずのうちにほっと息をついた。 そして釘付けになったように動けなかった場所から歩を進め、彼女の隣に並ぶ。 「隣に座ってもいいですか?」 「どうぞ。」 頷く望美を見ながら腰を下ろす段になって、初めて弁慶は望美がいつもの格好とは違うことに気がついた。 基本的には小袖を変形させた上衣とスカートという短い履き物であることは変わらないが、陣羽織のような防具をつけていない。 それどころか帯刀すらしていないのを見て取って弁慶は少し眉を寄せる。 「こんな夜更けに、そんな軽装でどうしたんですか?」 穏やかな言葉の中に責めるようなものを感じ取ったのか、望美はますます居心地悪そうに答えた。 「なんとなく、です。」 「なんとなく、そんな無防備な格好でいたのですか?」 「はあ、まあ・・・・」 歯切れ悪く答える望美に、弁慶は先ほどとは違う意味でため息をついた。 「見つけたのが九郎だったら、力一杯叱られていますよ。」 「あんまり考えたくない感じですね。」 九郎に怒られる図を想像したのか望美は顔をしかめる。 「九郎だけではありません。僕も、今は少しお小言を言いたい気分ですね。 望美さん、この熊野へは平家も来ているのだと言いませんでしたか?」 「う・・・・はい」 「それでなくても女性の一人歩きは危険なんです。貴女は誰かが垣間見れば邪な心を起こさないとも限らない可愛らしいお嬢さんなんですから。」 もし自分以外の誰かが先ほどの彼女の姿を見つけていたら? 仮定するのも嫌になるような想像はさっさと捨てて弁慶はじっと望美を見つめた。 「ごめんなさい。」 しおらしい謝罪に弁慶は微笑んだ。 「わかって下されば良いんです。でも今度一人で夜に出かけたいと思ったら誰かを連れて行って下さいね。僕でよろしければもちろん喜んでご一緒しますよ。」 「はい・・・・」 頷いたものの、望美は動かない。 もう、夜も遅くて明日も熊野路の強行軍が待ちかまえていると思えば、今彼女を連れて帰って寝かしつけるのが最善だとわかっていても、なんとなく弁慶も動けなかった。 さらさらと望美の足の間を滑っていく水の音だけが夜の世界に静かに響く。 ふいに、パシャッと音を立てて望美が水を蹴り上げた。 僅かに跳ねた水滴は夜の光源を一瞬だけ反射して光り、そして流れへと沈む。 「・・・・何を、していたんですか。」 静寂に広がる波紋のような自分の声を弁慶は何処か別の所から聞いている様な気がした。 しかし望美は気にした風もなく、自分の足下を流れる流れに目を落としたまま答える。 月が照らすその横顔は先刻の「静」の顔だった。 「夢をみたんです。」 「夢?怖い夢でも見ましたか?」 それならば寝床を抜け出して気分転換に来るのも無理からぬ事・・・・そう思いかけていた弁慶の前で望美はゆっくりと首を横に振った。 「ううん。優しい夢でした。優しい、とってもいい夢・・・・私が望んでいる未来の夢。」 「え・・・・」 弁慶が聞き返そうとした言葉は望美が急に立ち上がったことでとぎれた。 驚いてみている間に望美は二歩三歩と河の中に進んでいく。 ふくらはぎの半分ぐらいまで水に浸かったちょうど五歩目。 「望美さん!」 弁慶がその名を呼んだのと、彼女が立ち止まって振り返ったのは同時だった。 そして望美は何を思ったか、屈んで両手に水を掬うと自分の頭上に向かって投げ上げた。 蛍が慌ただしく舞う。 月の光に煌めく水滴が望美に向かって降り注ぐ。 その真ん中で、望美は月に向かって手を突き出した。 「良い夢だったんです。怖いことも、嫌なこともみんな終わって、大切な人たちが幸せそうに笑ってる、そんな夢。見ている間はとても幸せで・・・・でも起きた時に怖くなった。」 「・・・・・・」 「私の手は小さいから。・・・・あんまりにも小さくて、弱くて。」 望美の独白に弁慶は唇を噛んだ。 (違う。貴女は強い。) 小さい手を必死に鍛えて強くあろうとする、そんな望美が弱いわけがないのだと、そう言いたかったが言えない何かが今の望美にはあった。 そっと望美は自分の両手を握り込む。 何かを抱きしめるように。 「だから・・・・一人、せめて一人だけでも助けたいのに。」 一人と言うのが一体誰を指すのか、弁慶にはわからなかった。 ただ焦げ付くような胸の内を抱えて言葉を発することもままならないまま、望美を見つめる。 その視線の先で望美が月の光に身を浸すように目を閉じた時、弁慶は先ほどの望美の行動の意味を知った。 跳ね上げて髪から零れる滴の中に、一筋、堪えきれないように伝ったものを隠すために。 (僕に見せては、もらえないんですね・・・・) そう思う反面、何を馬鹿なと思う気持ちもある。 自分もまた、望美に心の内など覗かせてもいないくせに、と。 その声を無視するように弁慶は立ち上がった。 そして被っていた袈裟をとって心地よい冷たさの水が衣の裾をぬらすのもかまわず河に入る。 「弁慶さん!?」 驚いたように駆け寄ってきた望美を弁慶は袈裟で受け止めるようにして抱きしめた。 「弁・・・・」 「今夜は月が綺麗です。」 「・・・・?」 驚きの声を上げかけた望美が弁慶の言葉に不思議そうにしたのはわかったが、あえて弁慶はそれを無視した。 そして壊れ物をそうするようにくるりと望美に頭から袈裟を被せて抱き込む。 「月が綺麗で、僕ももう少し月見をしたいところですが、君が冷えるといけません。だから、すみませんがしばらくこのままで我慢して下さいね。」 「っ・・・・・・・・・・・」 袈裟の内で望美の体が小さく震える。 華奢で腕の中にすっぽり入ってしまうその体を力の限り抱きしめたくなる衝動を抑え込んで弁慶は月を仰いだ。 押し殺した嗚咽は河の音にかき消されて弁慶の耳には届かない。 (ああ、本当に小さいのは僕の腕だ・・・・) 抱えすぎた罪が多すぎて、一番護りたい望美を抱きしめることも出来ない。 この強くて優しい少女を護りたいのにそれすら許されない。 いつか、遠からず自分は望美の前から消えざるを得ないだろう。 その時、この少女は自分の手が小さいから零れてしまったと嘆くのだろうか・・・・。 弁慶はきつく目をつぶる。 (せめて・・・・せめて君が護りたい誰かが君の手の中に残るように祈ります。) それが誰であっても、望美を幸せにしてくれるなら・・・・こんな風に泣かせないのなら、それで十分だから。 (どうか、零れ落ちる僕が君を苦しませないように・・・・) 祈るように細く目を開ければ望月が映る。 その光りを見つめ、腕の中で小刻みに揺れる望美を感じながら ―― 胸がつぶれそうだ、と思った・・・・ 二人の足下を流れていく水が、運命の流転が止められないことを示すかのように、流れ夜の闇へ吸い込まれていった・・・・ 〜 終 〜 |