ありふれた奇蹟



至福の時間とは何か、と聞かれたら今まさにこの時間と答えるだろうな、と思う。

ごりごりとすり鉢で薬草を粉にしながらふと、そんな事を考えた。

子どもの頃は一人で居る時間が何より好きだった。

いくら寺とはいえ、鬼子として預けられた見習いの小僧に優しくしてくれる者も少なかったし、比叡は元々が厳しい戒律を持っているだけに居心地の良い場所とは言い難かったし。

それなりに長じてからは九郎や景時のように仲間と呼べる人間も出来て昔よりは一人でいるばかりではなくなったけれど、それでも一人で書物を捲ったり薬を調合したりしている時間が一番落ち着いていた。

・・・・ああ、違いますね。

落ち着いていた、であって至福だと思った事はなかった。

調合した薬が効いたと喜んでくれる患者をみた時や、九郎の戦術の力になれた時にそれなりに幸せだと思ったことはあったけれど。

でもたぶん、今までの人生の中で至福と称せるような時間はほとんどもったことはなかった。

だから僕にとっては「至福」などお伽噺も同然でけして僕とは縁のないものだと思っていましたよ。

それが。

「・・・・今ではこんなです。」

「?弁慶さん、何か言いました?」

ぽつり、と零れた言葉に厨に立っていた望美さんが振り返った。

出会った時のような戦装束ではなく、今は年頃の娘らしい淡い薄紅の着物に襷と前掛け姿の望美さん。

僕はいつからか作る必要の無くなった笑顔が浮かぶのを感じつつ軽く首を振る。

「いいえ、大したことは。それより望美さん、見ていないと汁が吹きこぼれますよ?」

「え?あー!危ない!」

言われて慌てて火力調整に戻る望美さんを見て吹き出しそうになるのをなんとか堪えた。

最近火力の調整も覚えてきて、もう塩辛いぐらい煮詰まった汁は出なくなっていたけれど、今日も大丈夫かな。

もともと望美さんのいた世界には火力の調節が瞬時に出来る竈や火を使わずに料理を作ることが出来る調理器具など便利な物があったと譲くんが言っていたのを思い出す。

そんな便利なものずくめでも料理は苦手だったと言っていた望美さんだけに最初はこちらの厨にてんてこ舞いでしたね。

何が出てきても全部食べるつもりでしたけど、真っ黒い「何か」が出てきた時はさすがに驚きました。

それでも今は手際の少し良くなって。

ゴリゴリと薬草をすり潰す手は止めずに、僕はそっと厨の方を伺い見る。

小さな家だから僕の居る所からすぐ土間があって、そこが厨で。

そこで右へ左へ忙しそうに動き回る望美さんがいる。

ご飯の様子を見たり、何か洗ったり。

僕の・・・・奥さんの後ろ姿。

「・・・・ふふ」

なんて言ったらいいでしょう、酷くくすぐったいんです。

絶対に手にはいることなどないと思っていた幸福。

けして結ばれることなどないと思っていた人。

どちらも今ここにあることがとてもとてもくすぐったくて。

ああ、そう。

これを人は「至福」というのだと。

「望美さん。」

「はい?やっぱり何か用ですか?」

呼べば一も二もなく柔らかい髪を揺らして振り返ってくれる望美さん。

さて、何と言ったらいいでしょうね?

貴女が僕にくれた「至福」をどんな言葉で表したら。

・・・・いいえ、違いますね。

貴女が丸ごと僕の「至福」なのだと。

いつの間にか薬をすり潰していた手も止まっていて、自然と自分の顔が微笑んでいるのがわかった。

けれど、きっと君にはいつもの笑みと映るのだろうと思うと少し残念です。

他の人に見せる笑みと、今の笑みでは全然違うのだとこの胸を開けて見せたらわかるのに。

でも、それは秘密にしておきましょうか。

せめてもの、夫の矜持というやつです。

だから代わりに。

「愛していますよ、望美さん。」

「は!?」

僕の言葉に望美さんは真っ赤になって立ちつくして。















―― しばし後、焼きすぎた黒い「何か」を前に僕は望美さんに「調理中の爆弾発言禁止令」を言い渡されるはめになった。



















                                       〜 終 〜
















― ひとこと ―
台所に立つ新妻の後ろ姿に萌える旦那様の図(笑)