あなたと未来(さき)へ
夕暮れの迫る瀬戸内の海を軽快に飛ばす船の船尾に、望美は一人佇んでいた。 黄昏の色に染まった海の向こうに海の神を迎えるために立てられた朱色の鳥居が遠ざかるのが見える。 あの鳥居の前で清盛と、継いで黒龍と対峙したのがほんの数時間前だったなんて信じられないほどの静けさを遠ざかる厳島は湛えていた。 「・・・・望美さん」 ほとんど微動だにせずに厳島を見つめていた望美は背中からかけられた声に緩やかに振り返った。 そしてそこに立つ黒い袈裟の装束の青年を見て笑う。 「弁慶さん。」 「ここにいたのですね。みんなが探していましたよ。」 「え?全然気がつかなかった。」 「戦勝祝いをしようという話らしいですが・・・・」 言いかけて弁慶は望美の隣に並ぶと目を細めた。 「ああ、もう厳島が見えなくなるんですね。」 「はい。」 弁慶にならって視線を後方の景色に移した望美が静かにうなずく。 「もう少し、見ていましょうか。」 「いいんですか?みんな探してるんでしょ?」 「ヒノエの自慢の船ですから、すぐに見えなくなってしまいますよ。それぐらいの時間二人きりにしてくれても罰は当たらないと思いますけどね。」 茶目っ気さえ感じさせるような仕草で笑う弁慶に、望美も笑った。 そして海風にさらされる髪を掻き上げる。 その横顔が酷く大人びて見えて、弁慶はどきりとした。 それは旅の間でも何度か目にした普段の望美とは合わない、遠くを見るような視線。 弁慶でさえその先を計り知ることは出来ない程、遠い何かを見ているような顔。 「望美さん・・・・?」 「あ、ごめんなさい。一人で考え込んじゃった。」 しまったというように笑う望美の心を今なら覗けるような気がして弁慶は言った。 「厳島に、何を見ていたんですか?」 「えーっと、いろんな事を。」 (そう、いろんな事・・・・) 沈みゆく夕陽の緋色に彩られたあの小さな島で、望美は弁慶を失い、そして得て戦の終わりを見た。 それはあまりに壮絶な運命ばかりで、こんなに簡単にその舞台が遠ざかっていくことがなんだか不思議だった。 「清盛の事とか、黒龍の事とか、戦の事もあったでしょ・・・・それに弁慶さんの事。全部が今日あの島で起こったことで、こんな形で側にいられるなんてなんだかちょっと信じられないなって思ってました。」 そう言って微笑む望美を弁慶は優しい目で見つめる。 「僕もです。僕の犯した最大の罪の決着をつけられた事も、それなのにいまだにここに生きていられることも信じられないような気がしますね。」 弁慶は柔らかく同意を示し、「なにより」と言葉を継ぐ。 「君が僕の側にいてくれる。それが一番奇跡のようで信じられません。」 そうして風で頬にかかっていた望美の髪をそっと耳にかける弁慶の仕草は、壊れ物に触れるように恐ろしく優しくて、望美は思わず赤面してしまった。 どんな甘い言葉より、頬に掠めた指先が弁慶の気持ちをダイレクトに望美に伝えてきたから。 「弁慶さんの女たらし・・・・」 自分だけ照れているようで悔し紛れに望美の口から憎まれ口が零れ落ちる。 なのに弁慶の方は極上の愛の言葉でも聞いたかのように、穏やかに微笑んで答えた。 「心外ですね。僕の口説き文句は貴女のためだけにあるんですよ?貴女に会った時から、ね。」 「も、もう!じゃあもし私が帰っちゃってたら、他の女の人にはそんな事言わなくなったんですか?」 言外に「言うでしょ?」という意味を込めたつもりだったのに、弁慶はさっと顔色を変えた。 そして怖いくらい真剣な瞳で望美を射抜く。 「言いません。それ以前に貴女を帰す気はなかった。貴女が帰ると口にしたら、僕の持てる力をすべて使っても君をこの地に繋ぎ止めようと足掻いたでしょう。」 「弁慶さん・・・・」 「だから貴女が頷いてくれてよかった。僕も貴女を悲しませるのは本意じゃないですから。」 さっきまでの真剣さはどこへやら、にっこり笑う弁慶に望美は何となく狐につままれたような気分になる。 (もしかしたら私、これからしょっちゅうこんな風に弁慶さんに振り回されていくのかも?) それはちょっと・・・・嬉しいような、不本意なような。 なんとなく複雑な気持ちのまま弁慶を見上げて・・・・目があって。 その瞬間、ふんわりと本当に嬉しそうに微笑んだ弁慶の笑顔を見てしまった望美は思わずため息をついた。 (ああ、やっぱり私きっと弁慶さんには振り回されるんだ。) 雄弁な言葉よりも、心を覗かせる笑顔を向けられてしまえば何でも許してしまいそうだ。 (・・・・でもそれもしかたないかな。) 何度も時空を越えて見せて欲しいと願い、求め続けた弁慶の本当の姿。 それは望美にとっての媚薬にも等しく、きっと何度でもその姿に恋をするだろう。 「・・・・なんか、負けっ放しって感じで悔しい。」 「?何がですか?」 「いーえ。なんでもないです。」 きょとんと問い返してくる弁慶がなんだか悔しくて望美は再び厳島の方へ視線を戻した。 見ればいつの間にか朱の鳥居は豆粒ほどになっていて、ふと襲った切なさに望美は自分の胸に手を当てた。 二度、あの島へ上陸して一度目はあの島が遠ざかる姿を見なかった。 一度目は時空を越えたから ―― 弁慶を失って。 きゅっと唇を噛みしめた望美を弁慶が気遣わしげに覗き込む。 「どうしました?」 その瞳が、側にあることで生まれる温もりが感じられて、望美は知らず知らずのうちに笑っていた。 華が咲くように、本当に本当に・・・・嬉しそうに。 その美しさに弁慶が息を詰めた事にも気付かず望美は頭一つ分上にある弁慶の顔の横の僧衣のかぶり物を掴んで引き寄せる。 被っている物を下へ引っ張られれば当然の法則で弁慶は腰をかがめ ―― 「・・・・み、望美ー?どこにいるの?」 「あ、朔。そう言えば探されてるって言ってたっけ。早く行かなくちゃ。先、言ってますね。」 夕陽のせいではなく顔を赤くした望美がそでを翻して、彼女の対の少女の下へ歩いていくのを呆然と弁慶は見つめていた。 そしてその姿が完全に視界から消えてしまって数秒。 「・・・・・・・・・っ」 今更という感じで弁慶は口元を手で覆った。 ほんの僅か望美の唇が掠めていった唇を。 (・・・・まいったな。) 触れている自分の頬が熱いのは、手が海風で冷えているだけでは絶対にない。 そうでなければ、耳元で鳴り響いているような鼓動など聞こえるはずがないのだから。 (どうしてくれるんですか、望美さん。) 本当に微かな触れた感触が消えてしまいそうで声を出すのも惜しい、なんて。 口先で言いくるめるのが自分の常套手段だったのに、その言葉すら望美は簡単に封じてしまうことが出来る。 そうなったら自分は一体何で彼女を繋ぎ止めればいいのか。 どうしようもなくみっともなく望美に縋ることしかできないような気がするなんて・・・・ 弁慶はゆっくりと自分の袈裟を外して海風に頬をさらす。 冷たい海風が宿った熱を冷ましてくれるようで心地よかった。 その風に舞い上がる自分の髪を押さえて、弁慶は困ったように小さく囁いた。 「・・・・負けっ放しで悔しいのは僕の方ですよ、望美さん。」 ―― 海風がさらった甘い本音はいつの間にか見えなくなっていた厳島の方へ流れていった。 〜 終 〜 |