神泉苑には龍神が棲むと言われている。

真実を知っているわけではないのにずっとそう信じられていると聞いた時には不思議に思ったが、目の前に広がる神泉苑の池を前に花梨は納得した。

早朝のせいか周りに人はいず、遠くから聞こえる鳥のさえずりと時折揺れる木々のざわめきだけが僅かな喧噪だった。

その中央で朝日を受けて煌めく湖面は大きな鏡のようにも、またどこか途方もなく遠い場所への入り口にも見えた。

「きれー・・・・」

無意識に呟いて花梨は池の縁へと足を進める。

さくっと踏んだ草が音を立てた。

(何かすごいものが棲んでるか、どっかへ通じてるかって思うかも。こんなに綺麗なら。)

もっとも花梨にはこの池に龍神が棲んでいるわけではないという事はわかっている。

(棲んでいないってわけでもないんだけど。)

自分でも説明のしがたい感覚に花梨は苦笑した。

龍神は何処か特定の場所に住んでいるようなものではないのだ。

強いて言うのであれば京全体に棲んでいる、とでもいうべきか。

花梨も以前はそれがよくわかっていなかったが、龍神を召還し京を浄化した後は当たり前のようにわかるようになった。

(これが龍神の神子って事なのかな。)

だからといって何が代わったというわけではいけれど、京全体を見守っていてくれる『何か』がいることはとても安心出来る。

そんな事を考えて花梨はくすっと笑った。

そういう感覚を前に説明したら複雑そうな顔をされた事を思い出したからだ。

曰く

『龍神の神子らしいことを言うと、嬉しいけれど自分には手の届かない存在になるような気がしていやだ』

だそうだ。

(今までずーっとらしくない、らしくないって言い続けてたのにね。)

そう言い返した花梨に彼はやっぱり複雑そうな顔のまま『龍神の神子らしい女だったらこんなに好きになってない』などと天然なのかタラシなのかわからないような発言をかましてくれたのは記憶に新しい。

思い出すだけでちょっとにやけてしまった花梨の頬を朝の風が撫でる。

「とと、思い出してる場合じゃないよね。」

我に返った花梨はしきり直すように池に向き直った。

そして。

「龍神様、おはようございます!お願いがあってきました!」

静かな湖面に花梨の声が波紋を作る。

何となくそれが龍神という途方もなく大きな存在が自分の声をちゃんと聞いてくれているサインのように感じて、ほっとした。

そして今朝ここへ来て初めて自分の左手に付けていた細いチェーンのブレスレットに目を落とした。

それは花梨が元の世界から持ってきた唯一の物だ。

この世界へ落っこちる時、鞄も何もみんな放り出してしまったから服とこれだけが花梨にとっては元の世界を感じさせる数少ない物だった。

それを、花梨はゆっくりと外す。

片手でチェーンの留め具を付けるのが最初は難しくて母親まで巻き込んで騒いだ覚えがあるからきっと家族はこのブレスレットの事を覚えているだろう。

買った時はあっちにしようか、こっちにしようか、と散々悩んだ覚えがあるから、きっと友だちも。

ずっと、ほとんど身体の一部のように身につけていたブレスレットが外れて、左手が妙に軽くなった気がした。

細いブレスレットを右手で握って祈るように左手を被せる。

「この・・・・このブレスレットを元の世界へ届けて下さい。私の知っている人たちの所へ。」

元の世界で自分がどうなっているのか、もう知る術はない。

もう花梨は選んでしまったから。

誰よりも大切な人のそばにいる事を。

だからせめて元の世界に届けたい。

「私は元気だから・・・・幸せだから。」

握りこんだブレスレットに言い聞かせるように花梨は呟く。

そして。

意を決したように花梨は顔を上げる。

真っ直ぐに、異世界への入り口と言われる池を見つめて。

そして思い切り腕を振りかぶって ――














朝日にキラキラと光が尾を引いて弧を描き・・・・水に落ちる直前にふわりと、かき消すように消えた。
















「・・・・・ふぅ」

水音はしなかった。

それを確認して花梨は大きく息を吐いた。

(届いたかな?届いたよね。龍神様が受け取ってくれたみたいだし。)

個人サービスはしてくれなかったらどうしようと思ってたんだけど、などと呟き花梨は大きく伸びをした。

思っていたより緊張していたようで、全身で朝の空気を吸うとひどく気持ち良かった。

「さてと、帰らないと。」

朝の警備の緩む時間を狙って抜け出してきたから今頃は多分花梨が居ないことがばれてお屋敷は大騒ぎになっているかもしれないけれど。

もしかしたら・・・・否、もしかしなくてもきっと花梨の大切な人もその中に加わって右往左往しているかもしれない。

そうは見えなくても、結構心配性な人だから。

「お説教はやだな〜。」

そう呟きながら自分が微笑んでいる事も花梨は知っていた。

ほんとのところ、何でも良いのだ。

お説教でも、愛の言葉でも、他愛ない話でも、なんでも。

側にいられるだけで、幸せというやつなのだから。

「・・・・・・・」

花梨は池の中央・・・・さっきブレスレットが消えたあたりを見やった。

そこには何事もなかったように穏やかな池と朝日が降り注いでいる。

一瞬だけ眩しそうに目を細めた花梨はそのまま池に背を向ける。

そして少し歩いて・・・・勢いよく振り返った。
















「さよならっ!!」
















木々の梢に、湖面に響いた声は少しだけ揺れて。

ざっと音を立てて花梨は踵を返して走り出した。

いつもと同じように、呆れたようにあの人が元気だなというはずの走りなのに、少しだけ。

左手が軽いだけでバランスが悪い気がして。

(今日は手をつないで欲しいって言おう。)

そう言って甘えたらあの人はどんな顔をするだろうか。

驚くか、怒るか、笑うか、照れるか・・・・どっちにしてもきっとつないでくれるだろうから。

そうしたらあの人は気が付くだろう。

いつもしている物がなくなっている事に。

どうしたのか聞かれたら、笑って答えよう。

―― 手首ではなく手の中に選び取った未来の話を・・・・



















                                               〜 終 〜
















― あとがき ―
相手はあえて登場させませんでした。
たぶん、誰を選んでも花梨ちゃんはこうするんじゃないかと。