むせかえるように甘いその香りは・・・・ 金木犀 ~ 遙かなるお題 41 ~ 寺の境内を掃除している時、ふと鼻を掠めたその香りにイサトは顔を上げた。 「?どうかしたのか?」 近くで箒を動かしていた先輩の僧兵がその動きにつられたように顔をあげて尋ねてくる。 「あ、いや。甘い匂いがしないか?」 「甘い・・・・?ああ、あれだろ。」 顔を動かして香りを捕まえた先輩の僧兵があっさり指さした先には、鮮やかな黄昏色の花を零れんばかりに咲かせた低い木。 「金木犀か。」 「ああ。今が満開だからな。じゃあ先に道具片付けにいくぜ。」 「よろしく。」 返事を何処か上の空でイサトは返していた。 先輩の僧兵の足音が去って人気の無くなった境内で、引き寄せられるようにイサトは金木犀に近づいた。 近くに行けば行くほど鼻をつく、甘くむせかえるような独特の匂い。 全身をその香りに染め抜かれそうな程、その木に近づいたイサトはそっと小さな小さな花に手を伸ばす。 途端 はらはらと花が崩れ落ちた。 「っ!」 まるで何か酷く悪いことをしたように、イサトは思い切り手を引っ込める。 その衝撃でまた数個の花を散らせた木を見つめ、イサトはそっと唇を噛んだ。 ―― さっき、この木を見た時、この香りに惹かれた時、重ねたのは面影だった。 この甘い、けして不快ではない強い香りのように見えない何かで人を惹き付ける少女の。 一見すれば鮮やかな色に見える木が小さな花の集合体であるように、様々な表情をもって存在を焼き付ける少女の。 大切な、大切な・・・・愛おしい少女の面影。 けれど 「・・・・触れられないところまで似なくたっていいだろ・・・・」 思わず零れた言葉を拾った者はいなかった。 もしいたとしたら思わず己の胸を押さえてしまったであろうほど、その呟きは苦しげで。 (触れられない・・・・触れちゃいけない・・・・) 少女は聖なる少女。 神に選ばれた神子。 この京に生きる者すべてにとって必要な存在で、けして一人のための存在になってはならぬ娘。 ふいにイサトは滅茶苦茶に金木犀の花を散らしたい衝動に駆られた。 目の前で花開く可憐な花をすべて散らしたら、人を惹き付ける芳香をすべて奪い去ったなら。 ―― たった一人のものになってくれるだろうか ―― (・・・・違う。そんな事は望んじゃいない。) いつの間にかイサトは自分の左胸、心臓の上をつかんでいた。 (痛い・・・・) 酷く、胸が痛い。 彼女に会うたびに嬉しそうに跳ねる心臓が、今は締め付けられるように痛かった。 甘い芳香に包まれて、優しい花を見ているのに、強く唇を噛みしめていないと声を出して泣いてしまいそうな程に苦しかった。 どうにもならないものは諦めるしかない、それはこの京という人の間に歴然たる格差のある世界では常識。 触れられないものはそのままに。 得られぬものは諦めるしかない・・・・わかっているのに、慣れていたのに。 (・・・・痛いんだ。) 金木犀に重ねる面影を得る前にはもう戻れない。 だとするならば、今、身を苛むこの痛みにいつかとどめを刺されるまで触れることを恐れ、触れられないことを嘆きながら待つしかないのだろうか。 いつか ―― 金木犀がすべて散り、彼女がこの世界から消える、その時まで。 「花梨」 金木犀の花のようにこぼれ落ちた名は、あまりにも儚く愛しい響きを持ってイサトを苛む。 「花梨・・・・花梨・・・・!」 喉の奥が痛い。 霞んだ視界の中で、黄昏色の花だけがその名のごとく光を受け金に輝いている。 来年、またこの花が満開に咲いた時、自分はどうなっているのだろう。 彼女を護ろうとする自分の手が、彼女のいない未来へと自分を押し出していく。 「・・・・ち、くしょう・・・・」 どうすればいいのかわからない。 でも、きっと明日も自分は花梨のために錫杖を振るうだろう。 甘い、頭の何処かを麻痺させるような香りが鼻につく。 ああ、きっとこの香りを忘れることは一生ないだろう、花梨の面影をけして忘れないだろうという確信と共にイサトは思った。 むせかえるような金木犀の花の香り、それは・・・・ 耐えきれなくなったように、根本に膝をつき顔を覆うイサトの上に、音もなく金木犀の花が1つ、2つ、こぼれ落ちた。 むせかえるように甘いその香りは・・・・苦しくて切ない、恋の欠片 ~ 終 ~ |