さらさらと降る雨は、貴方に会える先触れ。 さらさらさらと指の間を滑って、やがて静かに消えていく・・・・ 雨音が聞こえる 〜 遙かなるお題 32〜 サァアア・・・・ 絶え間なく耳に届く囁き声のような雨音を聞きながら、永泉は土御門邸の渡殿を歩いていた。 雨音を聞くのは久しぶりだ。 いつも本格的な夏に入る前は鬱陶しいぐらい雨が続くのが常だが、今年は鬼の呪詛によって日照りが続いていたせいで、雨が降っていなかったから。 きしっと床が立てた小さな音が雨音に混ざる。 雲を通して僅かに届く日の光だけの世界は、酷く静かだった。 明日になれば・・・・ 「あ・・・・」 渡殿の先に求めていた姿を見つけて、永泉は思考を中断させた。 部屋の中にいるものだとばかり思っていたその人 ―― 元宮あかねが縁に架かった階に座っていたからだ。 女性はむやみに姿を人にさらしてはならないと言われるこの世界で、お行儀が悪いと怒られそうな格好ではあったけれど、そ永泉は目を細めた。 あかねの姿はあまりにも美しかったから。 軒先からこぼれこぼれ落ちる滴ごしに、庭に降る雨をあかねは見つめていた。 絶え間なく降り落ちる雨を、とても ―― とても愛おしそうに見つめて。 あかねが何故そんな風に雨を見つめるのか、永泉は知っていた。 声をかけることが出来ず、ただ立ちつくしていると、気配に気が付いたのかあかねが視線を滑らせる。 そして永泉に気が付くと、にっこりと笑って言った。 「永泉さん。」 途端に灯りが灯ったように胸が温かくなって ―― 不意に、ああ、『あの人』も彼女に名を呼ばれた時、こんな気持ちになったのだろうかと思った。 『あの人』・・・・あかねが恋し、今も恋している多季史も。 「永泉さん?どうかしたんですか?」 再度問いかけられて、永泉ははっとした。 「いいえ、大丈夫です。あ、どうぞそのままでいらしてください。」 腰を浮かしかけたあかねを制して、永泉はあかねの側へ寄ると彼女に習うように階に座った。 「雨を見ていらしたのですか?」 「はい。鬼の呪詛も祓ったし、明日はきっと決戦ですね。」 表情を引き締めるようにしながらそう言うあかねは、凛々しい『龍神の神子』の顔をする。 それが頼もしくもあり、少しだけ寂しくもあった。 『龍神の神子』である彼女は、明日、鬼の一族との決着が付けば役目を終えこの京から去ってしまうだろう。 サァアア・・・・ 雨音が一瞬の沈黙に入り込む。 「・・・・今だから、言えるんですけど」 ぽつっと前置きをして、あかねは言った。 「呪詛で雨が降らなくなった時、少しだけほっとしたんです。」 「え・・・・」 「あ、えっと京の人が困るとかそういうのもわかっていたんですけど、ちょっとだけ。・・・・ちょっとだけ、雨が降って、それを見て色々考えちゃう時間が減るなって。」 馬鹿ですよね、と付け足してばつが悪そうに笑うあかねに、永泉は返す言葉を持たなかった。 『季史さんと会う時は、いつも雨が降ってたんですよ』 あかねがいつかそう言っていたのを、永泉は聞いたことがある。 雨が降るたび、あかねは一人でどれほど苦しい想いをしたことだろう。 「でもね、」 呟かれた言葉に永泉が顔を上げると、あかねはいつの間にかその視線を雨に戻していた。 「ずっと雨が降らなくて、鬼の事とか呪詛の事とか色々あって、毎日忙しくて・・・・。こうやっていけば、いつかは忘れるのかなって思ったんです。 でも雨がまた降って、それを見た時、思い出したのはやっぱり季史さんだったの。」 そう言ってあかねは目を細める。 それは過去を見つめる瞳ではなく、今もなお雨の向こうに在る季史も姿を見つめていた。 「不思議なんですけどね、その時、とっても嬉しかったんです。 ・・・・季史さんは、もういない人だから本当はこんな風にずっと想うのはいけないのかもしれない。 でも、それでもこれから先ずっと雨が降るたび、私は季史さんの事を思い出すんだって思ったら、なんだかとっても嬉しかったんです。」 あかねは雨を見つめながら、微笑んでいた。 その瞳には暗い影は欠片もなく、あるのは穏やかな光だけ。 「神子・・・・」 永泉は言葉を詰まらせる。 その反応をどうとったのか、あかねは慌てたように永泉に顔を戻して笑った。 「ごめんなさい、変な事言っちゃいましたね。さあて、明日はアクラムと決着つけなくちゃいけないし、早く休まないと・・・・」 「神子」 「え?」 珍しく永泉に言葉を遮られて、驚いたようにあかねが永泉を見る。 その視線を受け止めて、永泉は少しだけ目を閉じた。 ―― 願うのは、彼女の幸せ。 心に大きな傷を負ってなお、京を助けようとした尊い神子である彼女の。 永泉の心に小さな灯りを灯していった、元宮あかねという一人の人間である彼女の。 「神子、私は祈ることしかできませんが、ずっと祈り続けましょう。 貴女が雨を見る時、いつも幸せな気持ちでいられますよう。 ・・・・そしていつか、雨を見る時、貴女の望む人が側にいるようになる事を。」 サァアア・・・・ 雨が降る。 水の匂いと、湿った土の匂いが雨音を彩る。 驚いた表情をゆっくりと崩し、そして笑ったあかねの笑顔は、いつよりも美しかった。 「ありがとう、永泉さん。」 自分もまた、この雨を忘れないだろうと永泉は思った。 そうして異世界の少女は成すべき事を成し、その心に一つの想いを抱いて、在るべき世界へ戻っていく。 ザァアア・・・・ 「嘘!こんな天気ってあり!?」 急に空が暗くなったと思った途端に降り出した雨に、あかねは駆けだした。 アスファルトを叩く雨は通学鞄を頭の上に乗っけても、容赦なくあかねの上に降り注ぐ。 「夕立なんて聞いてないんだから!」 人がいないのをいいことにブツブツ文句を言いつつも、あかねの表情は口から出る文句とは裏腹に笑みに近い物があった。 コンクリートに囲まれた町に降る雨は、土の匂いも木の匂いも伴ってはいないけれど、煙るような景色は変わらないからかもしれない。 (そういえば、あの時も走ってたっけ。) パシャパシャと水を跳ねさせる自分の足音を聞きながら、あかねは少しだけ口元を緩める。 (落ち込んで雨にも降られて走ってたら前から・・・・) その時、雨に煙る前の道に不意に人影が現れた。 傘を差しているのに、その人は酷く急いでいるように走っていた。 ―― いつかの、季史のように。 ドクンッとあかねの鼓動が跳ねる。 (まさか) そんなはずはない、あり得ない、と思いながらもあかねの走る速度が落ちる。 ザァアア・・・・ バシャバシャッ 痛いほどに心臓が鳴るのを聞きながら、人影が近づいてくるのを待つように走る。 遠目に緋色の、少し癖の付いた髪が見えた。 (まさか・・・・) 耳元で鼓動がなっているようにうるさい。 走る人影が近づいてくる。 ザァアア・・・・ 雨音が耳を打つ。 傘が揺れる。 ザァアア・・・・ バシャバシャッ すれ違う ―― その瞬間、あかねは足を止めていた。 真横で見た緋色でくせっ毛の人は、初めて見る少年だったから。 すり抜けていく人影を追うように、あかねは振り返る。 「望美!」 「わっ!?なんでいるの!」 傘を持った少年は、あかねの後ろを走ってきていた少女に傘を差し掛ける。 藤姫を思い出させるような綺麗な髪をした女の子は、少年を見て驚いたように目を丸くして、直ぐに嬉しそうに笑った。 「ホントに神出鬼没だよね。」 「なに言ってんだよ。オレが望美が濡れて帰ってくるのを待ってるだけだとでも?」 「もう、」 ウィンク付きで言われた言葉に女の子は呆れたような、でも幸せそうに笑って彼の傘に入る。 ザァアア・・・・ 去っていく後ろ姿を、あかねは小さくなるまで見つめていた。 ザァアア・・・・ 急に降り出した雨。 水の匂いと、走る人々―― でも、今は今であって、あの日ではないのに。 「・・・・季史さん」 ぽつりとこぼれ落ちたあかねにとって特別すぎる名前は、雨の音に紛れてしまうほど小さく。 ずぶぬれになって冷たくなった頬に、一筋、熱い滴が零れた。 ―― その瞬間、あかねの周りだけ雨が止んで 「・・・・濡れるぞ」 ばさっと、自分の手から鞄が滑り落ちた音が遠い出来事のように聞こえた。 さっきのように暴れるような鼓動は聞こえず、かわりに息をすることも出来ない。 幻なら嫌と言うほど見たし、幻聴を聞くこともあった。 でも、今、確かにあかねの上だけ雨は止み、そしてそれは・・・・ ザァアア・・・・ ・・・・パシャン 雨音の中に、傘が落ちた音だけが聞こえた。 あかねが振り返って抱きしめた人の。 あかねを抱きしめた季史の手から零れた傘が落ちた音だけが。 ――・・・・そしていつか、雨を見る時、貴女の望む人が側にいるようになる事を ―― 〜 終 〜 |