月見酒 〜 遙かなるお題31 〜
京の外れ、人の世界と妖の世界の狭間にある山を京の人々は北山と呼ぶ。 日が暮れれば人は恐れて近づかないその山の裾野にひっそりと庵が建っている。 人目を避けるように建てられた簡素な庵が実は内裏でも一目置かれている陰陽師、安倍泰継の庵であることを知る者は少ない。 そもそもこの庵は結界によって人目に付かぬようになっているから、その存在を知る者自体がすくないかもしれない。 そんな庵の縁側に、今夜は珍しく庵の主泰継の他にもう一人人影があった。 肩を大きく出した独特の着物が目を引く赤茶の髪をした男は数刻前に徳利片手にこの庵に訪れた男、平勝真であった。 そして今、開け放した軒下の柱に右と左に分かれて背を預ける泰継と勝真の間には僅かなつまみと、先ほど勝真が持ってきた徳利が鎮座している。 その中から注いだ乳白色の酒が揺れる素焼きの杯ごしに、泰継は目の前の男を見る。 『月見酒といこうぜ』 そう言って訪れた言葉に嘘はなかったのか、勝真はぽっかりと白銀に輝く満月の浮かんだ夜空を見上げている。 たいした話もしないまま、数刻。 ふと、泰継は口元に笑みを掃いた。 「?何だ?」 声も出していないのに、視界の隅に写っていたのか月からこっちを向いて問うてきた勝真に泰継は答える。 「おかしなものだ、と思っていた。」 「おかしい?」 「このようにこの庵で人と酒を呑むとは考えたこともなかったからだ。」 言われて勝真もくっと笑う。 「まあな。俺だって陰陽寮で有名な安倍泰継とこんな風に呑むなんて考えたこともなかったぜ。」 「以前だったなら人をここまで入れようとも思わなかったはずだ。・・・・おかしなものだ。」 繰り返した泰継に勝真は意味ありげににやりとする。 「ああ、おかしなもんだな。こんな風に人と関わることを考えなかったし、変わる事も考えなかった・・・・あいつが来るまで、な。」 誰の事を言っているのか、わざわざ言われなくてもわかる。 二人に変化をもたらした者は一人しかいない。 この世でたった一人、『龍神の神子』の称号を冠する少女 ―― 高倉花梨だけ。 八葉となった二人の守るべき異世界の少女。 ついっと泰継が視線を夜空に向けた。 つられて自分もそちらをむいた勝真の目に映ったのは深い闇の夜空に煌々と輝く月。 「風雅な連中なら、こんな月は情緒がない、とか言いそうだな。」 月の様相を変える薄雲も、ちりばめられた星もない、ただ夜空に浮かぶ月はあまりにも目映すぎて和歌の題材にはなりそうもない。 「だが・・・・」 泰継は杯を口元に持って行き、僅かに口に乳白色の液体を口に含む。 同時に舌先を襲う疼きにも似た刺激。 それは自分の胸の奥にある感情に似ていた。 「だが、闇の中に輝く灯りはいつでも美しい。」 「だから余計な虫も寄ってくる、か。」 茶化すように言った勝真と泰継の視線がぶつかる。 勝真は一口杯から酒を呑むと彼らしい、挑戦的な声で言った。 「お前、花梨が好きか?」 無表情で泰継は勝真を見ると自分も一口杯を煽る。 そして答える。 「・・・・誰をおいても護る、という感情をそう呼ぶのなら、そうだな。」 「相変わらず回りくどい言いようだな。まあ、いい。 ・・・・先に言っとく。俺は八葉の仲で一番、お前を信用してるぜ。腕も知識も。」 「そうか。」 「だが」 勝真は泰継に向けていた視線を、真っ直ぐに月に ―― 月に重ねた面影に向けてきっぱりと言いはなった。 「渡さねえ。あいつだけは、な。」 「・・・・そうか。」 表情を変える事なく頷いた泰継に、勝真は苦笑した。 「たく、気概が削がれるな。冷静な野郎だぜ。」 「わざわざ言うまでもない決意を言うあたりが勝真らしい、と思っていただけだ。 ・・・・私も言っておこう。 勝真は八葉の中でも優れた腕と覚悟、精神を持っていると思っている。」 「そ、そうなのか。」 自分で同じ事を宣言しておきながら、相手に言われて居心地悪そうに勝真は頬を掻いた。 そんな勝真の反応にくつくつと低く笑いを漏らしてから、口を開いた。 「だが」 「?」 中途半端に発せられた言葉を不審に思って勝真が泰継を見ると、彼は真っ直ぐに勝真を見て、言った。 「渡せないのは、私も同じ事だ。」 言い終わると同時に煽った杯から喉に流れ込んできた酒は、喉を滑り、まるで直接心で呑んだように胸が熱くなる。 そして視界の端で苦虫を噛みつぶしたような顔をしている勝真を見て、泰継は珍しく低く笑ったのだった。 〜 終 〜 |