月光
蒼い月が漆黒の空にぽつりと浮かんでいる様を一人の男が見上げていた。 崩れかけた羅城門と、貴族の宴の席に現れてもおかしくなさそうな出で立ちの差異が一種異様な程の美しさを作り出している。 その美しさはまさに妖と呼ぶに相応しく ―― そして事実、彼の者はそう呼ばれる存在だった。 鬼、という名の。 かつてその名を冠している者は多くいた。 京に暮らす人々とは異なった容姿、異なった力を持つ者達。 ある者は人々から隠れるように山の奥で暮らし、ある者は人々と異なる力を持って人の世を攪乱した。 そして彼もまた後者の一人だった。 僅かに残った鬼の一族の首領として育てられ、幼い頃からいずれ京の人間を跪かせるのは自分だと信じていた。 脆弱な力しか持たぬくせに、数が多いだけで彼らを鬼と罵り異質なモノとして排除しようとする者達を。 そして実際に彼らが動き出した時、最初は順調に進んだのだ。 何もかも、彼が思い描いていたとおりにいった。 ―― あの娘と出会うまでは 男は無言で衣服が汚れる事も気にせずその場に座った。 そして崩れかけた門柱に頭を預け感情を映さぬ瞳で月を見つめる。 桜色の娘だった。 たった一人で見知らぬ土地に連れてこられた娘は最初に出会う彼を信じ、頼り、そして彼の意のままに動くはずだった。 彼女より前に呼び出した黒龍に魅入られた娘のように・・・・「現在」のように。 しかし出会った瞬間、二つの誤算が生まれた。 一つは彼女が彼の手を振り払った事。 心細くて仕方がないはずの娘は怯えた目をして、それでも彼の手を取ろうとはしなかった。 それから幾度手をさしのべても、どんな奸計を持ってしても娘を手に入れることは出来なかった。 その桜色の瞳で彼を見据え、娘はいつも泣きそうになりながら言った。 『貴方は間違ってる!!』 「―― ふん」 ありありと耳の奥に響いた声(きおく)を鼻であしらう。 (お前が正しかったというのなら、今の京はなんだというのだ。自ら滅びを願う愚かな者どもの破滅への歯車の音を、お前はどう説明する?) 不意に、その答えをあの口から聞いてみたくなった。 ・・・・それがけして叶わないとわかっていて。 (・・・・殺しておくべきだったのだ。) 彼がそれ以前、あるいは以後に出会った神子のように手の中で転がらぬ存在だとわかった時に。 あの桜が頼りない若木であった頃に、全てを散らしておくべきだった。 ―― 否、そんな事はわかっていた。 けれどできなかった。 あの時自分の下にいた部下が勝手に彼女を殺そうとした時、やらせておけばよかったものを、自分はそれを禁じた。 ・・・・彼女と出会った瞬間生じた誤算故に。 怯え、戸惑いながらも真っ直ぐに彼を断じた桜色の瞳に出会った瞬間に |
欲しい、と思ってしまったがために |
「っ・・・・!」 ガッ 初めて彼は苛立たしげに地を殴りつけた。 途端に鋭い痛みが皮膚が破けた事を知らしめる。 血が僅かに滲んだ掌を目線まで持ち上げて、彼は忌々しそうに舌打ちをした。 「何故、私は生きている・・・・!」 護るべき者も失い、己の意味も失い ―― 殺さなくてはならないとわかっていながら狂おしいまでに求めた存在とけして越えられない時の壁を隔てて。 百年という時の向こう、あの日の神泉苑で彼が光に飲まれようとしたその時 ―― 初めて彼女は彼に手を伸ばした 懸命に伸ばされた手を、彼女の唇が刻んだ言葉を、彼は見てしまった。 |
『アクラム!!』 |
悲鳴のように、彼女は彼の名を呼んだ。 そして初めて伸ばされたその小さな掌に・・・・アクラムの手が届くことは無かった。 「・・・・これが罰、か・・・・」 最後に彼女が手を伸ばすことさえなければ、アクラムにとって彼女は過去に出来たかもしれない。 忘れることが、できたかもしれない。 ―― しかしあの瞬間、彼女の存在はアクラムの心に癒えぬ傷のように焼き付いた。 そしてその傷は徐々にアクラムを浸食していくだろう。 鮮やかに桜色の髪を思い出すたびに。 意志の強い瞳を思い出すたびに。 憎らしい事しか言わなかった唇を思い出すたびに・・・・。 あるいは彼女を手折る事ができないと思ってしまった時から、龍神の罰は始まっていたのかもしれない。 どんなに不可能だとわかっていても、その存在を手に入れたいと切望した時から。 傷は徐々にアクラムを浸食し、いつか彼を喰い殺すだろう。 (・・・・これが、お前が一心に信じた龍神の与えた罰だ。) 緩慢で、残酷な。 もし、彼女がこの事を知ったとしたら・・・・ 「―― お前は何と答えるであろうな・・・・あかね」 月の光に溶けるほどに密やかに呟いて微かに笑みを浮かべた時、遠くから砂を蹴る音がした。 それを聞き取って、アクラムは外していた仮面を付ける。 予定通り、アクラムの『呼び出し』を受け取った現在(いま)の神子が来たのだろう。 彼の手の中で転がる神子が。 心の奥底に燻る空虚感と共に、桜色の傷跡をアクラムは身のうちに沈めた。 (ただ罰せられるものか・・・・!) 戯れのようにこの身を生かしたのなら牙を剥き続けてやる。 己の運命に、そして彼女と自分を巡り合わせた断罪主に。 ゆっくりと、アクラムは立ち上がった。 ―― 蒼い月はいつの間にか雲間に沈んでいた・・・・ ~ 終 ~ |