紅い鏡像  〜遙かなるお題20 紅葉〜



秋の陽はつるべ落とし、とはよく言ったものだと現在進行形で望美は実感していた。

ちょっと身体を動かそうと梶原の京屋敷を抜け出して神泉苑まで来たのはまだ明るいうちだったのに、夢中になって剣を振っているうちに気が付けば周囲は夜の風景に様変わりしていた。

(早く帰らないと譲君と朔に怒られる!)

かなりの確立でステレオでのお説教に突入するだろう事を想定して望美はよりいっそう必死で足を動かした。

秋も深まった夜の空気はいつもの戦装束ではしのげないほど寒い。

はあ、と吐き出した息がうっすら白くなった事に気が付いて望美は表情を歪めた。

(そっか、もうすぐ冬なんだ。)

この世界に来たのも冬だった。

それから春がきて、夏は熊野に行った。

そして秋を過ごして冬・・・・紅蓮の炎の中に全てを失ってたったひとつ手の中に残った逆鱗を手に時を遡った。

それからいくつの季節を飛んで、いくつの季節を過ごしたか。

(それでも『一度目』なんだよね。)

望美以外の誰も逆鱗の存在を知らないから。

京で迎える晩秋が望美にとっては初めてではないと知っている者もいない。

ふっと疼いた感傷を振り捨てるように、望美は足を早めた。

(知らなくてもなんでもいいって決めたんだから。今度こそ、悲しい冬にはしないって。)

そして・・・・。

望美は無意識に、握っていた手に力をこめる。

ちょうどその時。

茂みを抜けた先が開けた。

水がかれる事がないと言われ神泉苑の名前の由来にもなっている大きな池が月下に姿を見せる。

その姿に望美は思わず足を止めた。

「・・・うわ・・・・」

口から知らず知らず声が零れる。

それほどそこにあった光景は美しかった。

月が煌々と照っていて、風がまったくなかったのが幸いしたのだろう。

池の水面が鏡のようになっていて、そこに映りこむのは ―― 紅。

秋が深まってよりいっそう紅の色を深くした紅葉だった。

「すごい・・・・」

ただ池の水面に紅葉が映っているだけならこれほど鬼気迫る美しさは感じなかっただろう。

夜闇に不必要な光がなく、風が水面を揺らさないから、その世界はそこに在った。

深い深い闇と鮮やかに浮き上がる紅葉の姿。

引き込まれるようだ、と望美は息を飲む。

妖しささえ感じる幽玄の美。

生まれて初めて見るその引き寄せられるように水辺へ近寄る。

(・・・・時季はずれの怪談話みたい。)

ふとそんな事を思ったのは、美しい鏡像に引き寄せられていると感じたせいか。

見えているのは水の下の世界ではなく、この鏡像のしたに何を隠しているかわからないのに。

「・・・・まるで弁慶さんみたい。」

ぽつり、と零れた自分の呟きに望美は苦笑した。

あまりにも自分が例えた人がはまりすぎていたから。

最初に出会った時に感じたのは穏やかで優しい印象だった。

けれど、いくつもの季節を越えているうちに気が付いた。

武蔵坊弁慶という人は恐ろしくやっかいな人なのだと。

最初に見せた穏やかで優しい印象は、弁慶自身が見せる為に選んでいた姿だというのも知った。

まるでこの水が普段は人の目に映るものを写しているだけでなにも見せないように。

そして大切な何かを隠し続けるのだ。

けれど、ほんの一瞬・・・・まさに目の前のこの光景のように、弁慶の内が透けて見える時がある。

他愛もない一言、一瞬だけ見せる表情 ―― そんな僅かなものに惹き寄せられる。

弁慶が見せている鏡像の下に隠した世界に触れたくて魅入られたように。

でも、いくつも季節を巡ってきてもまだ弁慶の真意に、心に触れることは出来ない。

きゅっと望美は唇を噛んだ。

(でも・・・・)

おもむろに望美は腰を屈めて池の水面へと手を伸ばした。

僅かに地面を掘り下げて低い位置にある水面はほんの少し手が届かない。

「も・・・ちょっと ――」

少しだけ手が届かない事に望美はムキになる。

(もう少しなんだけど・・・・)

なかなか届かない距離。

何かの神様の嫌味かと思うぐらいに象徴的で望美は腰を屈めて手を伸ばした。

かなり身体を前向形に倒してギリギリバランスが保てるかどうかという怪しい態勢になりながらも、伸ばした指がもう少しで水面につこうかとした、その時。

「あっ!!」

ほんの少し足下が揺らいだ。

けれど、それがきわどいバランスを保っていた望美を揺るがせるのには十分で、視界が前に揺れる。

(落ちる!)

思わず望美はぎゅっと目を閉じた。

―― 刹那















「危ないっ!!」















前へとかしいでいた身体が引き戻される。

大きく空気が揺れ、夜の闇と見まごう漆黒が舞って。

「べん・・・けいさん?」

倒れ込むように草原に尻餅をついた望美は、たった今自分を引き戻した腕の主をみて惚けたように呟いた。

思い切り望美を後ろに引っ張ったせいだろう、同じように草原に膝をついていた弁慶が大きく息を吐くのが見えた。

「はあ・・・・何をしているかと思えば、無茶が過ぎますよ。望美さん。」

弁慶にしては珍しい責めるような気配を感じ取って望美は小さくなった。

「ご、ごめんなさい。」

「その言葉は屋敷に帰って朔殿と譲君に言った方がいいですね。」

忘れかけていた現実(おせっきょう)を思い出して望美はますますばつの悪い顔になってしまう。

「忘れてた・・・・やっぱり怒ってました?」

「怒っているというか、一騒動でしたよ。ちょうど用があって顔をだした僕や九郎もかり出されましたから。」

「うわー・・・・」

お説教がステレオどころか三重奏になったという宣告に望美は頬を引きつらせた。

その表情が可笑しかったのか、弁慶は微笑を浮かべて立ち上がった。

そしてまだ尻餅をついたままの望美に手を差し出してくれる。

有り難くその手を借りて立ち上がった望美は無意識に池へと視線を滑らせていた。

そこには先ほどと変わらない鏡のような水面が広がっていた。

(触れられなかった・・・・・)

不意に苦いものが胸に広がって望美は俯いた。

心の奥底で燻る不安をやり過ごすように僅かに目を閉じる。

―― だから、望美が気づくことはなかった。

俯いた望美に弁慶が一瞬手を伸ばそうとして・・・・苦しそうに顔を歪めて拳を握った事に。

「望美さん。」

穏やかに促すような声で呼ばれて望美は感情を振り払うように顔を上げる。

「ごめんなさい。早く帰らないと、ですよね。」

「そう、ですね。」

珍しく少し歯切れの悪い弁慶の言葉に、望美は気が付かなかった。

「うう、失敗したなあ。帰ったらきっとみんな怒ってますよね?」

わざとらしいほどに明るい声で戯けてみせれば、弁慶も苦笑ともつかない笑みで答えた。

「そうでしょうね。お忘れのようですけれど望美さん。僕も実は怒っているんですよ?」

「え」

笑顔のままで言われた言葉に望美はぎょっとしたが、弁慶は変わらぬ様子で歩き出した。

「さあ、帰りましょうか。あ、お説教は4人分を覚悟しておいて下さいね?」

「ええっ!?」

望美の悲鳴が夜の空気を振るわせる。

ごめんなさい、と繰り返す望美の声と弁慶の微笑む声が神泉苑の空気から消える頃。
















ふわり、と一枚の紅葉が落ちて





                 鏡の水面に緩やかな波紋を描いた・・・・



















                                                〜 終 〜
















― あとがき ―
京都に旅行に行った時、清水の紅葉ライトアップでこんな状況に出会いました。
鏡のようになった水面に映りこむ紅葉は本当にそこの別の世界があるようだったのを覚えています。