ココア味のキス
かすかに窓を叩く音にアイシュ=セリアンは片づけかけの書類から目を上げた。 思った通り夕暮れ近くなって薄暗くなった窓を細かな雨が濡らしている。 アイシュはその雨を見つめて無言で書類を机の引き出しにしまった。 今日はこの仕事を片づけてから帰ろうと思っていたから少し前に一緒に暮らしはじめたばかりの妻 ―― 異世界から来た少女、メイには先に食事をして寝ているように行って来たのだが。 (でも、こんな日にはきっと・・・・) アイシュは散らかっていた書類を手際よくまとめると、後で覗きに来るであろう同僚へ短いメモを書いて執務室を後にした。 優秀な文官であるアイシュにしては随分小さな郊外の彼の新居は雨に濡れてしんっと静まり返っていた。 でもけして誰もいないわけではない。 その証拠に二階の角の部屋、一番日当たりがいいからと2人で引っ越してきたその日に決めた寝室にだけ明かりが灯っている。 アイシュはやっぱりとため息をつくとさしてきた傘をたたんでそっと玄関のドアを開けた。 そのままアイシュは一階にあるキッチンへ向かう。 そして暗いキッチンに明かりをつけると小さなミルクパンにミルクとココアをいれて火にかけた。 静かなキッチンに炎の音だけが残る。 アイシュは文官の制服である上着とスカーフをはずしながらキッチンの窓を見つめた。 陽の落ちた窓にあたる秋の雨は寂しい音をたてる。 こんな日はきっと・・・・ アイシュは充分に暖まったミルクパンの中身を二つのマグカップにいれてキッチンを出た。 そしてマグカップの中身を零さないように注意しながら階段を上がると、二階の角の部屋のドアを開けた。 ―― 窓の側に小さな人影。 アイシュはそっとサイドテーブルにマグカップを置くと彼女が振り返るより早く、その小さな体を後ろから抱きしめた。 「アイシュ?!」 驚いた声が微妙に震えている事に気付いてアイシュは抱きしめた腕に少し力を入れた。 「ただいま帰りました〜」 「え?え?でも、どうして??」 今日は遅くなるって言ってたのに、と不思議そうに呟くメイの耳元にアイシュは口付けて言った。 「メイが、泣いているような気がしたものですから〜」 あたりでしょ〜?と言ってアイシュはメイの目元に残った涙を拭った。 「アイシュ・・・・」 腕の中で向き合う形になったメイの頬に流れた涙の跡にアイシュは自分が思っていた事があたっていた事を知る。 きっとこんな雨の寂しい時間だから、メイは・・・・自分がたった1年ほど前にいた暖かい場所を思いだしていたのだろう。 彼女の両親が、友人がいた異世界という場所を。 それを奪ったのは自分。 ・・・・でもいくらメイが望んでも彼女を帰す事はできない。 メイの笑顔が、「お帰り!」といって玄関開けるなり飛びついてくる彼女がいるこの場所が今のアイシュにとってなにより暖かく、大切な場所だから。 誰よりも愛おしい台風娘が幸せに笑っている場所は自分の腕の中であってほしいから。 どこへも行かすわけにはいかない・・・・でも ―― アイシュはメイを片腕に抱きしめたままサイドテーブルから彼女のカップをとると熱いですよ〜、と前置きしてから渡した。 「?」 首を傾げるメイにアイシュは自分のマグカップも側に引き寄せて言った。 「それを飲みながら僕に貴女の故郷の話を聞かせてください〜」 「え・・・?」 「この雨を見て何か思いだしていたんでしょ〜?」 メイが驚いたように大きく目を見開く。 「え?だって・・・・」 「ああ、そんなに目を大きく開けると目がこぼれちゃいますよ〜?」 冗談のようにそう言ってアイシュはメイのマグカップに自分のカップを小さくぶつけた。 かちんっと2人っきりの乾杯にしてはほんの少し間抜けた音が寝室に響く。 「ね、話してください〜。」 メイから故郷を家族を奪ったのは自分で、それはいくら願っても努力してもメイに返すことはできない。 なら彼女の郷愁まですべて包み込もう、と・・・・それがメイをこの世界に引き留めた時アイシュが決めた事だった。 だから寂しい思いも隠さなくていい、とそんな意味を読みとったのかメイの瞳から新たな涙が1粒こぼれ落ちる。 「アイシュ・・・・大好き。」 「僕もメイがとても好きですよ〜」 とろけそうな笑顔でアイシュはメイの涙を拭う。 「さあ、話してください〜。」 「うん!あのね・・・・」 一口、一口ココアをすすりながらメイが話しだした異世界の話をアイシュは一瞬も彼女から目を離すことなく聞き続ける。 きっとこれからの話の中でもメイは涙を零すだろうけれど、何度でも抱きしめてその涙を拭おう。 そして彼女が話し終わった時にキスをして伝えよう。 ―― 誰より愛しているメイの暖かい場所に必ず自分がなってみせるから、と。 そう言ったらメイはどんな顔をするだろう? アイシュはメイの話を聞きながらココアの味のキスをする時を思って優しく笑った。 〜 END 〜 |