恋する不安
「あのー・・・・シリウス様?」 途方に暮れたような声にもシリウスは振り向かなかった。 きっと後ろで秘書であり、恋人であるマリンが部屋に入った時のまま、完全に困った顔で立ちつくしていることも痛いほどわかる。 自分がしていることが子どもっぽい事であるってことも。 (でも・・・・ね。) 「シリウス様ぁ、なんでそっちを向いたままなんですか?」 問いかけるというより困り切っているマリンの声にもぶすっとした沈黙で答える。 はっきり言おう。 シリウスは拗ねていた。 宿に割り当てられた部屋の応接間のソファーでマリンに背中を見せるようにそっぽを向いて。 人が見たらあんたいくつだよ!と突っ込まれそうであるが、拗ねる原因は大人ならではだからたちが悪い。 シリウスの片手にはまった相棒が肩越しにマリンの方へ向かって言った。 「・・・・ウワキモノー」 「なっ!?」 マリンが絶句した気配が伝わってきたがシリウスは振り向かなかった。 代わりにマリンの怒号が響く。 「何言ってるんですか!!!」 「ウワキシタラ、ウワキモノデショ。」 「ボビーさんじゃありません!シリウス様!!!」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「私は何もしてません!」 「・・・・・・・・したじゃないか。」 「何をですか!?」 「・・・・・カイナス殿と食事に行った。」 「なっ!そ、それはシリウス様が行けって言ったんじゃないですかーーーーー!!」 まったくもって、事の成り行きは彼女の言うとおりだったりする。 ―― そもそも、昨日の昼食会の時、スラッとした青年が近づいてきた時から嫌な予感がしたのだ。 20代半ばで年若く見える青年は、今2人が滞在しているダリスの隣国クラインの貴族の中でもかなり実力を持つカイナス家の現当主、ネイビー・カイナスと名乗った。 明らかに彼がやり手である事を悟ったシリウスは例のごとく話始める・・・・そこまではいつも通り。 しかし彼は一通りの挨拶をすませて去り際に予想外の行動に出た。 シリウスの横で所在なさげに立っていたマリンの前にスッと跪くと彼女の手の甲にキスをして言ったのだ。 「先程から貴女のことが目に入って美しい方だと気にかかっていたのです。よろしければお名前を伺っても?」 「あ、あの・・・・マリン=スチュアートです。」 「それはまた可愛らしい貴女のぴったりのお名前だ。シリウス様の秘書とお聞きしていますが?」 「あ、は・・・・」 「そーなんですよ!」 マリンが答えるより早く口を突っ込んだシリウスは軽く引っ張るようにして彼女とネイビー・カイナスを引き離す。 さすがに『さっさとはなしやがれ、この野郎』という物騒な表情は貼り付けた笑顔の下の押し込んで置いたが。 『ちょ、ちょっとシリウス様!』 まずいですよ、と小声で言ってくるマリンの声は聞かなかったことにする。 相手があんまり増長する前に止めておかないと、自分の理性がぶちっと切れてバッサリ殺ってしまうかもしれないんだから、相手にだって親切みたいなものだ。 などととてもじゃないが親善大使として口に出せないような事を考えつつ、マリンを背中に隠すシリウスを見ていたネイビーは何故か口元をきゅっと上げた。 その笑みと呼ぶには恐ろしげな表情を見てシリウスは心底嫌な気分になった。 この笑みは見覚えがある・・・・そう、シリウスが他人をからかう時に浮かべるそれだ。 案の定、ネイビーはその整った顔に極上の笑みを乗せて(会場のご婦人の間からため息が漏れた)宣ってくださったのだ。 「シリウス様の秘書とは随分聡明でいらっしゃるんでしょうね。でもそうすると明日の晩は貴女はお一人かな?」 「え?」 きょとんっとしているマリン横目にシリウスは舌打ちしたい思いに駆られた。 明日はクラインの国王とのプライヴェートな会合の予定で、夕食を共にする事になっているのだ。 確かに伴侶でもない秘書が同席する必要はない。 「どうでしょう?よろしければ明日の晩は私に貴女のエスコートをさせていただけませんか?もちろん諸国に名高いダリスの『月光の王子』の代わりが勤まるとは思いませんが。なにせ私は小国の一貴族に過ぎませんから。 ですが、承知していただけるならとっておきのクラインをご紹介致しますよ?」 この言葉に込められた裏の意味を読みとってシリウスはますます苦々しい気分になる。 要するにマリンを夕食に行かせればそれなりのクラインの情報も流してくれるというのだ。 もちろんその情報の全部が全部役に立つ物かはわからないが、ネイビーの立場を考えるにそれなりの収穫はあるだろう。 こういう外交手段が無いわけではないのだ。 頭ではわかっているが、心は拒む。 その狭間で幾分迷ったシリウスは賭に出ることにした。 すなわち少し振り返って、話の当事者マリンへと問いかけたのである。 「こうおっしゃられているが君はどうしたい?」 もし話の裏の意味がわかっていたら正義感が強い彼女の事だから承知してしまうかも知れない。 でもわかっていなかったら警戒して頷かないだろう。 確立は五分五分。 (頼むから断ってくださいよ!) 半ば祈るように待った彼女の答えは。 「あの・・・・それじゃ、お言葉に甘えてもいいでしょうか。」 シリウスは賭けに負けた。 「ええ、喜んで!では明日の夕刻迎えにいきます。よろしいですね、シリウス殿?」 嬉しそうな笑顔で問いかけてくる表情の中に明らかに悪戯が成功した子どものような輝きを見つけてしまって、シリウスは珍しくも敗北感に打ちひしがれながら今もっとも口にしたくない一言を口にしたのだった。 「ええ・・・・お待ちしていますよ。」 ―― で、現在に至るわけである。 シリウスの方はクライン国王の夕食会もマリンの事が気にかかって早々に切り上げて帰ってきてしまったというのに、彼女が帰ってきたのはすっかり夜も遅くなってから。 その間最初はネイビーへの文句やら苛立ちをボビーと話し合ったりしていたのだが(何故だかその間誰も部屋を訪れなかった)時間が過ぎる事になんとなく不安になり、いつしか自分の事など忘れて楽しんでしまっているかも知れないマリンへの恨み言に変換されてしまったらしい。 大声で自分の正当性を主張しても背中を向けっぱなしで一向に機嫌を直そうとしないシリウスの耳に、とうとうマリンの大きなため息が聞こえた。 そのため息があまりにも疲れたような響きを持っていた事にシリウスはぎくりとする。 (呆れられた、かな。) 急に不安になって振り向こうかと迷った瞬間、背中がきゅっと捕まれた。 (え・・・・) 多分両手で服を捕まれたんだと認識するより早く、捕まれた場所より少し上にこつんっと何かがぶつかる。 それがマリンが額を押しつけたのだとわかって、何故かシリウスは固まった。 こんな風にマリンが触れてくるのは初めてだったから。 いつもマリンを抱きしめるのも、キスをするのもシリウスからで、マリンはどちらかというといつも戸惑ったようにされるままになっているのに。 さほど強く握られたわけでもないマリンの手がまるで強い戒めのように動けなくなる。 額を押しつけられたあたりにあるだろう心臓が急に締め付けられたように痛くなった。 「マリン・・・・?」 「シリウス様の、ばか。」 無意識のうちに甘い言葉を期待していたシリウスは容赦ないマリンの一言にがくっと首を落とした。 しかしそんなシリウスの様子をもろそもせず、マリンはぎゅーーっと額を押しつける。 「シリウス様のばかばかばかばか。」 「こ、こら!痛い痛いっ。」 肩胛骨のあたりを思い切りグリグリされて思わず悲鳴を上げてもマリンは容赦ない。 「このぐらい当然です!私を疑ったんですから!!」 「・・・・だってそれは・・・・いたっ!」 「問答無用です!シリウス様は前々から思ってたんですけど、私の気持ちなんて全っっっっ然わかってないんですから!」 「え・・・・?」 急に攻撃が止んだ。 代わりに、深いため息が聞こえる。 「だいたい、ちょっと考えればわかるじゃないですか。私はシリウス様に・・・・殺されるかも知れないってわかってても貴方を信じたんですよ?それなのにこんなところで浮気なんかするわけないです。」 口を開こうとしてシリウスは失敗した。 あの時の事は消えない傷として今もハッキリ残っている。 あの時がなければ今はないとわかっていても、マリンを無惨に傷つけたあの時の自分を斬り殺したくなるほど憎くなる時がある。 マリンが自分の側で笑ってくれればくれるほど。 自分のすべてを許してくれる存在が側にあることに救われるほど。 彼女を大事に思うほど、一番彼女を傷つけたのは自分だったと痛感するから。 それなのに、彼女は今だってかなり言いにくそうに、照れたように 「私は・・・・私はですねえ、シ、シリウス様に・・・・」 きっと赤くなって 「命がけで、恋したんですから。」 ・・・・なんて事を言ってくれるものだから。 弾かれるように振り返るなり、シリウスは大切な大切な少女を乱暴なまでに抱き寄せた。 「君って子は・・・・!」 「シ、シリウス様〜、苦しいですって。」 「ああ、ごめん。」 ほんの少しだけ腕を緩めると、大きく息を吐いたマリンが笑顔で見上げてくる。 「ご機嫌は直りました?」 まるで幼子に聞くように言われてシリウスは苦笑する。 「直ったとも。まったく、私はどうしようもないね・・・・もうけして君を傷つけないと誓っていながらこんな些細なことで君を疑って傷つけてしまった。」 でも・・・・と付け足して、シリウスは抱きしめたマリンの額に自分の額をこつんと合わせた。 「私の怖さもわかってくれないかい?君はちっとも変わらないから、いくら抱きしめてもキスをしても私の色に染まることなく綺麗なままだから・・・・不安なんですよ。いつか、君が私の醜さに離れていってしまうかも知れないって。 だからちょっとしたことでもすぐ見えなくなる。愛おしすぎて君の気持ちさえ見えなくなってしまうんだ。」 愛おしいから、大切だから彼女の気持ちが見えなくなる。 不安で不安でしかたなくなる。 そんな風に告白されて驚いたように目を見開いていたマリンはほおを染めてくすくす笑い出す。 「シリウス様がそんな事で不安になるんですか?アロランディアでも刃傷沙汰を起こしたぐらいの女たらしさんが?」 「うっ、そんな話は忘れてくださいよ。それに女たらしなんて看板はとっくの昔に下ろしました。私は君だけで精一杯ですから。」 「えー?本当ですかあ?こないだだって綺麗な女の人と親しげに話してたじゃないですか。」 「ソウダ、ソウダ!」 「って、人の相棒と勝手に話さない!」 いつもよりかなり高い声のボビーの茶々にシリウスも思わず吹き出す。 ひとしきり笑い合った後、もう一度目が合った。 自然に、ゆっくり唇を重ねる。 触れるだけ、それだけのキスで胸が痛くなるほど幸せになれるなんて知らなかった。 こうやって彼女は何も知らないような素振りでいろんな事を教えてくれるから。 だから 「マリン。」 「はい?」 「ありがとう。」 何度でも言おう。 きょとんとする君に、無条件に許してくれる、信じてくれる君に。 君がいてくれる事がどんなに救いになっているかを。 どんなに彼女を必要としているかを。 そして 「・・・・愛しているよ。」 言葉では伝えられないぐらいの想いを。 ―― シリウスはいつまでも慣れることなく赤くなっている大切な少女に優しい優しいキスをした。 〜 おまけ 〜 「・・・・ところで」 「はい?」 「カイナス殿とは本当にただ食事しただけ?」 「あ、当たり前です!まだ言うんですか?」 「ふーん?本当に?」 「は、はい。」 「ホントーニ?」 「・・・・別れ際に・・・・」 「ほら、怒らないから正直に言ってごらん?」 「ラクニナルゾー?」 「うう・・・・・その・・・・・また、手にキスされました。」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「で、でも本当にそれだけですよ!?本当に!!」 「大丈夫、信じるよ。で、右手?左手?」 「・・・・左手です。・・・・ひゃあっ!何するんですかぁ!」 「消毒、消毒。」 「そんな失礼な・・・・って!首筋になんてキスされてないですよ!」 「だってー、婚約者以外にキスさせるような油断してる子にはお仕置きしておかないとー。」 「お仕置きって・・・・だいたい、いつ婚約者になったんですか!」 「いや?」 「え、そ、あ・・・・う、嬉しいですけど。」 「ナラ、モンダイナーイ!」 「そうそう。もうそろそろ限界だったし。と言うわけで、これからはそう紹介するし公の場所にも連れて行くから覚悟しておくんだね。」 「う、はい。」 「よしよし。じゃ、続きしようかー。」 「は?わっ!どこ触ってるんですか!!」 「だからー、お仕置き。」 「えーーー!?そんな理不尽なあ!」 「うーん、元気のいい口だなあ。塞いじゃお。」 「へ・・・・んっ!」 ―― それから後は、ボビーにも内緒の二人の時間♪ 〜 END 〜 |