バスタイム・パニック




「オリヴィエ様ー!早く早くー♪」

ほんのりバラのバスオイルの香りが漂ってくるバスルームから上機嫌な鈴をふるような可愛らしい声が呼ぶ。

いつもならその声を聞いただけで綻んでしまう顔を、今は滅多にのせることのない苦悩の表情に変えてオリヴィエは呻いた。

「・・・なんでこんな事になっちゃうかなぁ・・・」

その声は彼の好敵手、炎の守護聖が聞いたらお腹を抱えて笑い転げそうなほどらしくない途方にくれたものだった・・・








―― ことの起こりは1時間ほど前にさかのぼる。

その日、オリヴィエは聖殿での仕事を終えて私邸に帰る途中だった。

今考えればあの時、馬車で帰ればこんな事にはならなかったかもしれない。

しかし常に気紛れなオリヴィエはたまたまその時も気紛れを起こして歩いて私邸まで帰ろうを思い立ったのだ。

天気もすこぶる良かったからそのせいかもしれない。

ところがオリヴィエが私邸の側まで来た時、いきなり聖地にはめったにない夕立に見舞われてしまった。

「あー、まったくついてないね。」

取りあえず手近な木の下に飛び込んだオリヴィエは濡れてしまった服の裾を軽く絞りながら毒づいた。

「まあ、しょうがないか。走ってドロが跳ねるのは嫌だし。」

私邸を目の前にして帰れないより、オリヴィエにとっては特製の服にドロ染みをつける方が遙かに辛い。

あっさり雨の中を走り抜ける事を放棄したオリヴィエは木に寄りかかるとぼんやり雨を眺めた。

まるで水のカーテンのように降る雨に包まれた聖地はいつもの活気に溢れた雰囲気とはがらりと違って静かだ。

永続的な水音をBGMに眺めるこんな聖地の風景も悪くない。

(ドロさえ跳ねなければ、こんな景色を見に出るのも悪くないんだけどねぇ。・・・でも)

あの子だったらきっと、そんな事気にせずに傘さして飛び出して行きそう。

オリヴィエはふと無邪気な笑顔の少女を思い出した。

少女の名はアンジェリーク・コレット。

現在行われている新宇宙の女王試験に参加している女王候補生の一人だ。

一般人出身で屈託のない笑顔を、無邪気で人の事をとっても気遣う少女。

・・・そしてオリヴィエが密かに大切に想っている少女・・・

彼女だったらこんな綺麗な雨の日に部屋でじっとしてなどいられずに、服が濡れるのもかまわず飛び出してくるだろう。

そんな様子を想像してオリヴィエは一人くすっと笑った。

と、ちょうどその時



パシャッパシャッパシャッ・・



雨の中を走る水音にオリヴィエは首を巡らした。

そして雨の向こうから走ってくる人影を見つけて、オリヴィエは一瞬自分が夢でも見ているのかと思った。

自分の鞄を頭の上に乗っけて一生懸命走ってくる人影・・・それはまさしくさっきまで考えていたアンジェリークだったからだ。

「ア・・」

オリヴィエが名前を呼ぼうとしたその瞬間

アンジェリークが足下の石に蹴躓いた!

「きゃっ!」

「アンジェリーク!」



べしゃっ



オリヴィエが慌てて飛び出して差し伸べた腕もむなしく、アンジェリークはものの見事に水たまりにすっころんだ。

「アンジェ、大丈夫?」

「は、はい。なんとか・・・・って、ええ?!オリヴィエ様?!」

取りあえず差し伸べられた手を掴んで起きあがったアンジェリークはその手の主を見て目を見開いた。

(オ、オリヴィエ様にこんな所見られちゃったのー??)

あまりの恥ずかしさにアンジェリークはどばっと赤くなる。

「す、すみません!」

「別に謝らなくてもいいの。それよりどこも怪我してない?」

そう言われて慌てて自分の体を見たアンジェリークはますます恥ずかしくなった。

水たまりで転んだせいで、彼女の洋服はすっかりドロを被ってしまっていたのだ。

「はい・・大丈夫です。じゃあ、あのこれで・・・」

「ちょっと待って。」

とにかく早くオリヴィエの前から逃げ出したくて立ち上がるなり走りだそうとしたアンジェリークをオリヴィエは慌てて止めた。

「あんた、その格好でここから女王候補寮まで走るつもり?」

「はあ、はい。」

「今頃は守護聖達が私邸に帰る時刻だよ?ジュリアスにでも見つかったらどうするの?」

そう言われてアンジェリークの顔色がさっと変わった。

こんな格好で走っている所などジュリアス様に目撃されてしまったら、100%待っているのはお説教だろう。

顔色を赤から青へ器用に切り替えるアンジェリークに苦笑しながら、オリヴィエは彼女の手を掴むと無造作に歩き出した。

「あ、あの・・オリヴィエ様?」

「いいから、ついておいで。そこが私の私邸だから。」

そう言ってオリヴィエは軽くウィンクして見せた。






「とりあえずその格好じゃ風邪ひいちゃうね。」

アンジェリークを引っ張って私邸についたオリヴィエが最初に言った言葉がこれだった。

そしておいで、と言うと先に立って歩き出す。

「あ、あのオリヴィエ様・・・?」

「大切な女王候補生に風邪ひかすわけにはいかないでしょ。
・・・ほら、ここ。入って。」

オリヴィエが前で立ち止まった扉に、半ば押し込まれるようにアンジェリークは入った。

―― そして、その中の光景にアンジェリークは大きな目をこぼれ落ちそうになるぐらい見開いてしまった。

豪華・・・・・その言葉がアンジェリークの頭をチカチカと駆けめぐった。

一点曇りのない大理石の床と壁。

至る所に置かれた見たこともないようなカラフルな観葉植物の鉢。

磨き上げられて波紋のたたない水面のように光っている片面の壁一杯の鏡。

「ほら、こっちに来て。」

入り口でぼーぜんと佇んでいたアンジェリークをいつのまに部屋の奥へ入ったのかオリヴィエはじれったそうに手招きした。

見れば彼の手元には籐で編んだ浅めの籠がある。

「濡れた服はここへ入れて。
タオルは中へ入れば入り口の脇にある棚にたくさんから好きなのを使っていいよ。」

「あ、あの、オリヴィエ様・・・」

オリヴィエのさも当然というような言葉の端々から推理できる結論を、引きつりながらアンジェリークは口にした。

「もしかしてここって・・・」

「バスルームだけど?」

「やっぱりーーーー!」

がくーっとアンジェリークは膝をついて頭を抱えたくなった。

だってこの脱衣所らしき部屋でさえ、アンジェリークの今使っている女王候補寮の部屋と大差ない大きさなのだ。

ということは、主星の実家の自分の部屋よりも大きいということで・・・・・

(駄目よ、そんな風に考えちゃ!ここは聖地なのよ!それでさらに守護聖様の私邸なのよ!)

必死に言い聞かせてみるものの、根っからの庶民であるアンジェリークの心をどこかもの悲しい風が吹き抜けた。

そんなアンジェリークの様子にオリヴィエは思わずクスクス笑ってしまう。

「驚かせたならごめんね〜。
でもバスタイムは私の1日でもお気に入りの時間の1つだからつい力が入っちゃって。
まあ、その分の元とって余りあるぐらいのリラックスタイムを過ごせてるけどね☆」

オリヴィエはそう言うと手近にあった磨りガラス戸をからりと開けた。






その瞬間、ふわりっと甘い香りがアンジェリークの鼻を掠める。

「わあ!」

開かれた戸の中を見てアンジェリークは思わず歓声を上げた。

そこはまるで小さな温室だった。

色とりどりの観葉植物が葉を広げ、所々に原色の花が咲いている。

そしてその向こうには大理石のバスタブ(なんてレベルじゃないぐらい大きい!)がガラス張りの天上から差し込む雨上がりのキラキラした光に輝いていた。

「すごいですね!こんなお風呂、私初めて・・・」

素直に驚くアンジェリークが可愛くてオリヴィエの口元が自然と緩んだ。

「気に入ったら、ゆっくり入るといいよ。
着替えは用意させて置くから、あがったらそれに着替えて声をかけて。
必ず誰か気がつくはずだからさ。」

「え?でも・・・」

振り返ったアンジェリークの表情から何を心配しているか容易に読みとれてオリヴィエは言う。

「私は後から入るから気にしなくていいよ。」

「でも・・・」

オリヴィエの髪にはまだ水滴が光っているし、雨に濡れた事は彼も変わりない。

いくらアンジェリークよりは強いとはいえ、はやく暖まらなければ風邪をひくのは彼も一緒だろう。

(オリヴィエ様が風邪ひかれてしまわれたら心配だし・・・・・・そうだ!)

ぱっと上げられたアンジェリークの表情にオリヴィエはどきっとした。

アンジェリークがこんな風に「いいこと思いついた!」と顔に書いてあるような表情をする時、彼女はとんでもない事を言い出す可能性がある。

・・・そして今回もその予想は裏切られなかった。

アンジェリークは笑顔で爆弾投下。






「オリヴィエ様、一緒にはいりましょう!」






「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」

「そうですよ。そうしましょう!
このままオリヴィエ様、風邪ひいちゃったら大変だし。
こんなに大きいんですもん。2人だって大丈夫ですよね。」

事態が把握できずに石化しているオリヴィエを横目にうんうん、と一人で納得するアンジェリーク。

「あ、それじゃあ先入りますね。
この服、ドロだらけだから中で脱がなくちゃ。」

そう言ってアンジェリークは服のままバスルームの扉を潜って・・扉を閉める直前、最後の宣告をした。

「じゃあ、オリヴィエ様も早く来てくださいねv」

からからから・・・ぴたん

閉まるドアの音を聞いた瞬間、オリヴィエは初めて崩れ落ちた。








―― というわけで、冒頭のシーンへ戻るわけである。

(早くって言われたって・・・どうしろっていうのさー)

アンジェリークに他意や悪気がない事はよくわかる。

人の事によく気がつく心配性な子だからオリヴィエの体の事を心配したのだろう。

それは、わかる。

わかる・・・・・・が、その分始末が悪いのだ。

なんせ他の誰でもないアンジェリークとバスルームに2人なんかで入った日には、いくらオリヴィエといえど理性を保っている自信など皆無に等しい。

いつだってこの腕に抱いてしまいたい、と願って焦がれている愛しい少女なのだから。

「それにしてもさ・・・」

まだ脱衣所の床に座り込んだままのオリヴィエは嘆息した。

(こんな風に私を誘うって・・・・・やっぱり『男』には見られてないって事?)

自分でそう考えたくせに、オリヴィエはがくーっと肩を落とした。

(そりゃまあ私は綺麗なモノが好きだし、着飾るのもすきだし、メイクも好きだけどれっきとした『男』なんだけど。)

・・・・そうは言っても世間がそう思っていない事はなんとな〜とわかってしまっているのが哀しいところ。

アンジェリークがオリヴィエのことを他のいかにも『男』らしい守護聖や教官達と一線わけて考えてしまうのも、無理はないと言えば無理はない。

とはいうものの、他の連中はどうあれアンジェリークにそんなふうに見られているというのは辛い。

なんせそれでは・・・・

「前途多難どころか・・・始まりもしないじゃない!」

まさしくその通り。

『男』であると認識して貰えない限り、オリヴィエの想いに発展はあり得なくなってしまう。

はあああ・・・

大きく溜め息をついて頭を抱えるオリヴィエ。

そのまま数秒 ――

突然オリヴィエはがばぁっと立ち上がった。

そしてぽつりと呟く。

「・・・・認識させればいいんだよ。簡単じゃない。」

・・・・・もしその場に第三者がいたとしたら、あわてて彼を力尽くでも止めただろう。

なんせばっちり切れました、と物語るような座った目をオリヴィエはしていたのだから。

しかし、幸か不幸か、この場には彼を止められる第三者は存在しなかった・・・・・






カラッ

軽い引き戸を開ける音にバスタブに使っていたアンジェリークが振り返った。

一応、気を使ったのかバスタオル大のタオルを体に巻き付けていることにオリヴィエはほっとする。

「あれ?オリヴィエ様どうしたんですか?」

服のまんま入ってきたオリヴィエにアンジェリークはちょこっと首をかしげた。

しかしオリヴィエはいつもの柔らかい笑みはどこへやら、真剣な表情でアンジェリークを見据えて歩いてくる。

その雰囲気にさすがの天然娘もなにか感じたらしく、片手でタオルを押さえて少し逃げ腰になる。

「あ、あの、オリヴィエ様・・・?」

「アンジェリーク」

名前を呼ばれて本能的に逃げようとした時には、すでに時遅し。

オリヴィエはアンジェリークの細い手首をしっかり捕まえるとぐいっと引き寄せた。

「きゃっ?!」

転がり込んでしまったオリヴィエの冷たい胸に触れてアンジェリークの鼓動が跳ね上がる。

「オ、オ、オリヴィエ様??」

慌てて顔を上げたアンジェリークは、至近距離にあったブルーアイにぶつかってますます動悸を早めるはめになった。

ほんの手の平1つ分の先で見つめてくるオリヴィエの瞳はこれまで一度も見たことがない程、真剣で真っ直ぐな光をアンジェリークに向けていたから。

それは今までのオリヴィエの常に微笑んでいる中性的なイメージを一掃してしまうぐらい、彼が自分とは違う存在であることを知らしめた。

と、オリヴィエはすいっと顔をアンジェリークの耳元に寄せる。

「アンジェリーク・・・」

「ひゃっ」

耳元で囁かれた声にアンジェリークは首をすくめる。

しかしそんなことはお構いなしに、オリヴィエはアンジェリークの首筋に唇を落とした。

「オ、オリヴィエ様?!」

アンジェリークは上擦った声をあげるが、オリヴィエを止める役にはたたない。

逃げ腰のアンジェリークをしっかり捕まえてオリヴィエはその首筋から鎖骨へ唇をゆっくりと這わせる。

「あ・・・・」

雨で冷えた体とは逆に熱い唇になぞられる感触にアンジェリークは思わず声をあげる。

微かに震える胸元まで辿り着くと、胸を隠すタオルギリギリまで口付けてオリヴィエはやっと顔を上げた。

しかしアンジェリークがほっとするのも束の間、オリヴィエは細く形の美しい指でアンジェリークの顎をすくい上げる。

まともにぶつかる2組のブルーアイ。

片方に浮かぶのは戸惑い、片方に光るのは・・・

「アンジェ・・・・」

甘く、甘く囁いてオリヴィエはアンジェリークの唇に己のそれを近づける。

(ひゃぁ・・・・)

もう爆発寸前まで追い込まれた心臓を持て余してアンジェリークはきゅっと目を閉じた。





―― ちゅっ





「え??」

オリヴィエの唇が触れたのは、アンジェリークのそれではなく・・・額。

アンジェリークが目を開けた瞬間、オリヴィエはアンジェリークを解放して、彼女に背を向けていた。

「????」

何が何だかわからなくて暴れ回る心臓を押さえたまま目をしばたくアンジェリークに、肩越しに振り返ったオリヴィエはいつもの笑みを浮かべて言った。

「あのね、あんまり無防備だとこういう目にあちゃうんだから少しは警戒しなさいよ☆」

そう言ってウィンクをしてオリヴィエはバスルームを出ていった。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜(///)」

後に残されたアンジェリークが腰が抜けたようにずるずる湯船に沈んでしまった彼女は知らない。

バスルームをでた直後、オリヴィエも赤くなった顔を隠すように口元を押さえて座り込んでいたことを・・・・・








―― その後、アンジェリークがオリヴィエに会うたびに顔を真っ赤にして、なにもしらない他の守護聖達に不思議がられていたとか・・・・










                                    〜 Fin 〜
                      (Special Thank's 9999hit! 東条 瞠)