夏空
その日、足りなくなった薬草の補充のために、宿の裏手の山へ入ろうと思ったのはほんの偶然の思いつきだった。 日々激しくなる戦闘に加え、熊野の道行きで余計な傷を作る事も増えているため傷薬になる薬草が欲しかったのだ。 しかし弁慶は、お目当ての野原へ出た途端、訝しげに眉を寄せる羽目になった。 広々とした野原の真ん中に、寝っ転がった人影がひとつあったからだ。 しかもそれは・・・・。 弁慶は足音を隠そうともせずに人影に近づくと、丁度顔の真上から覗き込んで言った。 「・・・・何をしているんですか?」 弁慶の頭の影が落ちた所で、少女が笑った。 扇状に広がった紫紺の髪と、陣羽織に白いスカートを身につけた異装の少女 ―― 春日望美。 弁慶達、源氏軍のもう一つの旗頭と言うべき龍神の神子の力を持つ彼女は、動じた様子もなく弁慶と視線をぶつける。 「空、見てました。」 「空、ですか。」 言われて弁慶も真上を仰いでみる。 真っ青な空にぷかぷかと浮かぶ白い雲が見えるだけで特別面白そうなものは見あたらない。 そんな風に思った弁慶の心の内を読んだかのように、望美はくすっと笑うと言った。 「何もないですよ。ただの空です。」 「ただの空を、こんな所で一人で見ていたんですか?」 貴重な力を使う望美は、それだけで敵の脅威になる。 それだけで狙われる存在なのに、と言外に匂わせた弁慶に望美は少し申し訳なさそうな表情を乗せた。 「ごめんなさい、勝手に出てきて。」 そう言うと、勢いよく望美は身を起こした。 髪や服に付いた細かい草が、きらきらと日に輝きながら散る。 「弁慶さんは薬草を探しに来たんでしょ?お手伝いします。」 一瞬、ここへきた目的を望美に言っただろうか、と思ってしまうほど自然に望美はそう言った。 まるでわかっていたかのように自然に。 (まさか。賢い望美さんの事ですから、そのくらい頭が回るでしょう。) ほんの僅かで、自分の脳裏に浮かんだ疑問を振り落とした弁慶は、まだ座ったままでいる望美を立たせるために手を出そうとして・・・・止まった。 「?弁慶さん?」 不自然なタイミングで動きを止めた弁慶を不審に思ったのか、望美が首をかしげて聞いてくる。 その顔をしばし見つめて、唐突に。 ごろんっ 「弁慶さん!?」 自分の横に寝っ転がった弁慶に驚いたように、望美が声を上げる。 それがなんだか可笑しくて弁慶はクスクス笑いながら横の望美の顔を見上げた。 「僕も少し、ただの空を見ていたくなりました。」 「え?」 「よろしければしばらくおつきあい頂けますか?」 そう言った一瞬、望美の顔が少しだけ泣きそうに歪んだ。 しかし弁慶が何かを言うより先に、その表情は嬉しそうな笑顔に取って代わられて、勢いよく望美も横に寝っ転がる。 視界から望美が消えて、目の前に残るのは紺碧の空。 真綿のように柔らかそうな、ふわふわと漂う雲。 夏の風が運ぶ緑の匂い。 (・・・・やはり僕に見えるのは『ただの空』です。) 弁慶はうっすらと自嘲気味に微笑んだ。 ・・・・立ち上がろうとした望美を見た時、不意に望美が見ていた物が見たくなった。 上から覗き込んだ時、望美が見つめていた弁慶を通り越したその先にある『何か』を。 だから隣に同じように寝ころんでみた。 けれど、見えるのはやっぱりただの空で。 泥沼の戦いの上に広がるにしては綺麗すぎる、ただの空で。 (僕には貴女と同じ物は見えそうにありません。) ちくり、と痛んだ心を無視して緩くため息をついた、その時。 望美の隣に投げ出していた右手に、ほんの少し暖かい物が触れた。 「?」 びっくりして顔を横に向けてみれば、そこにはいつの間にか空ではなく弁慶を見ていた望美の瞳。 真っ正面からぶつかった先で望美はにっこりと笑った。 望美らしい、優しくて暖かい笑みに、一つ、鼓動が跳ねる。 (ああ・・・・本当に君はいけない人だ。) 諦めようとすると、こうしてまた捕まえられる。 焦がれてはいけないとわかっているのに、惹かれずにいられない。 そうして気がつけば雁字搦めに捕まっているのだ。 (貴女が好きだという気持に、ね。) さっきとは別の意味でため息を零して目を細めた弁慶に、何故か望美はぱっと顔を赤くして視線を空へ戻してしまった。 少しそれを残念に思いながら弁慶もそれに習う。 夏真っ盛りでキラキラと輝く太陽が眩しい。 そっと、触れただけだった望美の手に弁慶は自分の右手を絡めた。 一瞬、強ばった手はそれでも直ぐに緩んで弁慶の手を受け入れる。 その仕草が酷く、愛おしくて。 伝わってくる体温がとても、嬉しくて。 ―― 紺碧の空がただの空ではなくなったような気がした。 〜 終 〜 |