1987年6月12日17時過ぎ、「宮城沖地震」が発生した。ショウウインドウを1Fにしたビルが幾つか倒れ、ブロック塀の倒壊等で27人が死亡するという大きな被害を出した。また、オフィスの地震対策が大きな社会的なテーマとして取り上げられた地震でもある。当時、大型コンピュータが本格的に普及し始めた時期で、福島県庁のコンピュータの被害が何度もテレビニュースで放映された。
午後5時10分過ぎに突然、ドンと直下型の縦揺れが来て、間もなく横揺れになった。ビルが途中から折れるのでは無いかと、本気で心配になる程揺れた。
8Fのフロアー内は完全に歩く事は勿論、立っていることさえ出来ない状態になった。長い大揺れにみんな床にかがみ込み、高く積んだ書類は散乱し、立っている棚が全部倒れた。当時はガラスの書棚も多く、神経にさわるようなガラスの割れる音が恐怖感を一層を高め、フロアー内は一瞬のパニック状態である。マグニチュード7.8は、すごい破壊力だった。
間もなく興奮さめやらない中、片付けを全員で始めた為、約1時間もすると大体は整理された。後は、共通の書籍物やガラスの破片など細かな掃除となる。ここで、麻雀好きの連中は”今日はこれ以上仕事が進まない”とばかりに、私とS,Y,Tの3人が何となく顔を見合わせ、”いつものとこで”と言うことになった。過去に体験した事のない無い地震のすぐ後でである。
18時過ぎには、いつもの雀荘のあるビル前に集まったが、この雀荘は比較的広い為、滅多に一杯になることはなく、従業員も明るいので、特別な事が無い限りここに決めている。蛇足だが、回数を重ねた分、自然エピソードも多かった。
この話は私がいない日に起きたが、いつものように4人で囲んでいたら、1Fで火事(幸い小火で済んだ)が発生した。15台ほどの7割が埋まっていたと言うから、約40名の人が一斉に、入り口と反対の非常口を目指したらしい。普段使っていないため物が置かれていて、人が通れるようになって無かったが、それでも必死で逃げ道を確保し、間もなく先頭は屋上を目指し始めたらしい。
これで余裕が出来たのか、Tさんが、さっきまでの成績表を忘れた事に気がついた。すると、勝っていたSさんが、手当たり次第におしぼりを集めて口に当てると、周りの制止を振り切り一気に煙の中へ。そして、さっきまでの成績表を鷲掴みで持って帰ったという信じられない話である。Tさんの大げさな解説は、何回も面白く聞かされた。
さて、5Fまでのエレベータが停電で動か無いが、初めの内は4人とも、これから始まる戦いを楽しみにしている顔である。少し待っている時間が長くなり周りを見回すと、停電の為信号機が作動せず、車が全く進まない状態になっていた。また、電話には10人以上の行列が始まっており、かなり興奮している人で騒然としている。近くのスーパーでは商品が崩れる中、食料品と照明用具など買い急ぐ人で一杯になっている。
この異様な光景の中で、Sさんが何か気になったのか、最初に家に電話をした。勿論この段階では、帰りが遅くなる為の連絡のつもりであったが、深刻な顔で”今日は帰った方が、良くないか”と遠慮気味に言い出した。他の2人は、”何を言っているんだ、4人居ないと遊べないんだ”と言う非難の目で相手にしなかった。
しかし、良く話を聞けば、Sさんの家は大変な事になっていた。奥の部屋で子供さんが遅いお昼寝をしていたが、16時50分頃に第一回目の地震が在った。震度2程度の揺れだったが、ちょうどこれで目がさめたらしい。そこにこの本地震が来て、大きな洋タンスがさっきまで寝ていた枕にバッタリ倒れてきた。それだけでも気が動転しているが、家財はめちゃめちゃに崩れ家の中は壊滅状態になり、体の震えが止まらないという。そこに主人から電話が来たのである。主人の優しさと勘違いしたのだろう事も加わって、涙が止まらなくなり、声にならない状態だったようだ。。
この話を聞いて、後の二人も行列に並び電話を始めたが、同じ様に家の中が大変で、家族が混乱しているらしい。それでも、先ほどの事があるため、止めようとは自分からは言い出せず、誰かが言い出すのを期待している。
それではと、私も電話を取ったが、何度も呼んでいるのに出てこない。後ろで待っている人が気になって切ろうかと思った時、何故か隣のご主人が出てきた。いやな予感がしたが、どうなっているか聞いて見ると、家の中は、めちゃめちゃでガラスの破片が散乱し危ないので、長靴で歩く状態だと言う。そして、家族の方は病院に行っていて、今は誰もいないから直ぐに帰って来て、少しでもかたづけた方がいいと、興奮しながら催促された。
当然、今日は取りやめと言うことになったが、これからが大変だった。まず、停電で信号が機能せず、列車・バス・タクシー等の交通機関が全く動かない。混雑している市内を1時間ほど歩き、バスが動いているところから飛び乗ったが、それでも家まで3時間かけて、9時30分頃到着した。
バスを降り周りに明かりがない真っ暗な道を歩き、恐る恐る玄関を入ったが、誰もいない様に静かである。靴を履いたままで家に入ってみると、応接を置いている部屋からかすかな明かりが漏れている。子供2人と女房が寄り添っているのが、ローソクの火に浮かび上がった。「お父さん」3人が同時にホットしたように声を出した。
女房は、地震の際にガスを止めに戻ったが、逃げる足に、あんなに重いテレビが倒れてきたらしい。軽い捻挫で済んだが、病院が一杯で治療に長い時間が掛かったらしい。家の中で一番被害が大きかったのは、台所であった。食器は全て外へ放り出された上に、食油が床にこぼれて滑って歩けない。明かりも無いので、被害の少ない2Fの部屋で固まって寝ることにした。
私の住んでいた名取市は比較的被害が少なく、電気・水道も翌日、ガスは3日で回復したが、仙台の被害の大きいところは、3ケ月以上も後の復旧となった。
こんな、大きな地震が在っても麻雀をやろうと言う仲間達は、東北が最高に伸び続けた時期の、主力となって活躍した精鋭である。
ティ・タイムへ M310topへ