Nijinsky  (ニジンスキー)  牡   鹿毛 sire line family
Northern Dancer Nearctic Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Lady Angela Hyperion Gainsborough
Selene
Sister Sarah Abbots Trace
Sarita
Natalma Native Dancer Polynesian Unbreakable
Black Polly
Geisha Discovery
Miyako
Almahmoud Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Arbitrator Peace Chance
Mother Goose
Flaming Page Bull Page Bull Lea Bull Dog Teddy
Plucky Liege
Rose Leaves Ballot
Colonial
Our Page Blue Larkspur Black Servant
Blossom Time
Occult Dis Donc
Bonnie Witch
Flaring Top Menow Pharamond Phalaris
Selene
Alcibiades Supremus
Regal Roman
Flaming Top Omaha Gallant Fox
Flambino
Firetop Man O' War
Summit
     
Born - Died 1967.02.21 - 1992.04.15
Breeder Edward P. Taylor (Ontario) CAN
Trainer Michael Vincent O'Brien (Cashel, Tipperary) IRE
Owner Charles W. Engelhard USA

 

日付 開催国 競馬場 馬場 条件 勝時計 距離 騎手 斤量
 競走名 格付 1着馬 / 2着馬 着差
1969
07.12 IRE Curragh   2 1:14.60 6F 5 L. Ward 126
 Erne Stakes 1 /Everyday  
08.16 IRE Curragh   2 1:16.90 6F 7 L. Ward 119
 Railway Stakes 1 /Decies 5
08.30 IRE Curragh   2 1:17.30 6F 6 L. Ward 126
 Anglesey Stakes 1 /Everyday  
09.27 IRE Curragh   2 1:42.60 8F 7 L. Ward 126
 Beresford Stakes 1 /Decies 3/4
10.17 GB Newmarket   2c&f 1:29.90 7F 6 L. Piggott 126
 William Hill Dewhurst Stakes 1 /Recalled 3
1970
04.04 IRE Curragh   3+ 1:27.60 7F 12 L. Ward 122
 Gladness Stakes 1 /Deep Run 4
04.29 GB Newmarket   3c&f 1:41.54 8F 14 L. Piggott 126
 2000 Guineas Stakes 1 /Yellow God 21/2
06.03 GB Epsom   3c&f 2:34.68 12F 11 L. Piggott 126
 Derby Stakes 1 /Gyr 21/2
06.27 IRE Curragh   3c&f 2:33.60 12F 13 L. Ward 126
 Irish Derby 1 /Medowville 3
07.25 GB Ascot G 3+ 2:36.16 12F 6 L. Piggott 119
 King George VI & Queen Elizabeth Diamond Stakes 1 /Blakeney 2
09.12 GB Doncaster   3c&f 3:06.40 14F127Y 9 L. Piggott 126
 St. Leger Stakes 1 /Medowville 1
10.04 FR Longchamp G 3+c&f 2:29.70 2400M 15 L. Piggott 55.5
 Prix de l'Arc de Triomphe 2 Sassafras head
10.17 GB Newmarket   3+ 2:06.80 10F 8 L. Piggott 119
 Champion Stakes 2 Lorenzaccio 11/2

 

馬齢 出走 1着 2着 3着 以下
1969 2 5 5 0 0 0
1970 3 8 6 2 0 0
合計 13 11 2 0 0
13 11 2 0 0

  デュハーストS (英、芝7F)
  イギリス2000ギニー (英、芝8F)
  イギリスダービー (英、芝12F)
  アイルランドダービー (愛、芝12F)
  
キングジョージ6世&クイーンエリザベスS (英、芝12F)
  イギリスセントレジャー (英、芝14F127Y)
  アイルランドレイルウェイS (愛、芝6F)
  アングルシーS (愛、芝6F)
  ベレスフォードS (愛、芝8F)
  グラッドネスS (愛、芝7F)
  2着−
凱旋門賞 (仏、芝2400M)
  2着−イギリスチャンピオンS (英、芝10F)
   カナダ競馬の殿堂 (1976)
   リーディングサイアー (英愛) (1986)
   リーディングブルードメアサイアー (米) (1993,94) (2)

 

  ニジンスキーという馬名は、ロシアの天才バレエダンサー、
 ヴァツラフ・ニジンスキーに由来します。 ニジンスキーは正
 気と狂気の狭間にあって、魂の舞踏で一世を風靡しました。
 そして生前、「生まれ変わったら馬になりたい」 と語っていた
 そうです。 この天才舞踏家は若くして精神に異常をきたし
 狂気から抜け出せないまま1950年にこの世を去りました。
  それから17年後に生まれた1頭の馬を、ニジンスキーの
 転生した姿と見るか、それとも単なる偶然と見るかは、人に
 よって違うでしょう。 しかし、馬のニジンスキーもまた比類なきカリスマであったことは異論の余地のないと
 ころです。 世に名馬は多いけれど、ただ歩いているだけで思わず見とれてしまうような馬はめったにいるも
 のではありません。 舞踏家ニジンスキーの踊る映像は現存しませんが、競走馬ニジンスキーの力強く優
 雅な走りは、ビデオなどで今でも見ることができます。 その走りは、競馬という枠を超えたひとつの芸術と
 さえいえるものです。
 
  ニジンスキーは、1967年2月21日、エドワード・テイラー氏がカナダのオンタリオ州に所有するナショナ
 ルスタッド(後にウィンドフィールズファームと改称)で生まれました。 その父ノーザンダンサーもテイラー氏
 の生産馬で、言わずと知れた20世紀の大種牡馬です。 母フレイミングペイジカナダクイーンズプレイト
 やカナダオークスなどを制した名牝でした。 このように、ニジンスキーはカナダの良血の粋を集めて生まれ
 ました。
  ノーザンダンサーが体高15ハンド2インチ(157.5cm)しかない極端に小さな馬だったのに対し、ニジン
 スキーは幼い頃から非常に立派な馬格の持ち主でした(成長の段階で16ハンド3インチ(170.2cm)あっ
 たといいます)。 体つきだけではなく、動きも非常にしなやかで、放牧場で走るその姿は多くの人の目を
 引きつけました。
  1968年の夏、馬主のチャールズ・エンゲルハード氏の依頼でウィンドフィールズファームを訪れたヴィン
 セント・オブライエン調教師もその一人でした。 本来彼は、ノーザンクイーンという牝馬が産んだリボー
 駒を見に来たのでしたが、その牡馬にはあまり感心せず、代わりにニジンスキーの力強い走りにすっかり
 魅了されてしまったのでした。
  そこでオブライエン調教師は、プラチナで巨万の富を築いたエンゲルハード氏を説得し、その年のトロント
 のウッドバイン・セイルで、当時のカナダ1歳レコードとなる8万4000ドルで競り落としたのでした。
  ニジンスキーはすぐに、アイルランドのバリードイルにあるオブライエンの厩舎に預けられることになりまし
 た。 これはつまり、当時のヨーロッパで、あるいはもしかすると世界中で、最も質の高い調教を受ける身分
 になったことを意味しました。
  しかし、天才調教師と呼ばれたオブライエンにとってさえも、ニジンスキーはなかなか厄介な生徒でありま
 した。 競走馬の中には、言われたことを何でも最初から難なくこなしてしまうという馬もいるようですが、ニ
 ジンスキーはそういったタイプではなく、すべて一から根気よく教え込まなければなりませんでした。 加え
 て、気性も非常にきつく、ちょっとしたことでもすぐに興奮し、後ろ脚で立ち上がったりすることがしばしばだっ
 たといいます。 それでも調教で見せる加速の素晴らしさは、オブライエンの目を見張らせました。
 
  その評判は馬よりも早く競馬場に届いていました。 1969年7月12日、アイルランドのカラ競馬場での
 未勝利戦でデビューしたニジンスキーは1番人気に推されました。 期待に応え、リアム・ウォード騎手の手
 綱であっさりと初勝利を飾ると、その1ヵ月後の8月16日、オブライエンはアイルランドで最も注目を集める
 2歳戦のひとつ、愛レイルウェイSに出走させました。 ここでも1番人気となったニジンスキーは、馬なりの
 ままディシーズに5馬身差をつけて快勝。 さらにアングルシーSでも同じような楽勝を決めました。 4戦目
 のベレスフォードSでは、逃げたディシーズが粘りを見せ、ワード騎手はニジンスキーを初めて競走で追いま
 したが、重馬場にもめげずにニジンスキーはよく耐えて、その追撃を3/4馬身差しのぎました。
  こうしてアイルランドのトップクラスの2歳戦を総なめにしたニジンスキーは、10月17日、海を渡ってニュー
 マーケット競馬場のデュハーストSにその姿を現しました。 ここで初めてレスター・ピゴットが手綱を取ること
 になりました。 さほど強敵は見当たらず、ニジンスキーは圧倒的1番人気となり、その前評判どおり、まっ
 たく危なげのない走りでライバルを完封しました。
  首をぐっと下げ、低い重心から唸りを上げるように加速するその走りは、すでに凄みさえ感じさせました。
 ニジンスキーのアイルランドでの競走にはすべて騎乗する約束をオブライエンと交わしていたウォードは、こ
 の気性の激しい2歳馬が、ゲイトを出るや、完璧に騎手の指示に応えるのに驚嘆していました。 抑えたり
 行かせたり、緩急を自在につけることができ、まるで歴戦の古馬のような走りでした。 この馬はどんな展開
 になっても負けない。 陣営は自信を深めていきました。
 
  フリーハンデで2歳トップの評価を得たニジンスキーは、早くも翌年の英2000ギニーの本命と見なされる
 ようになりました。 順調に冬を越したニジンスキーが3歳初戦に選んだのは、4月4日のカラ競馬場でのグ
 ラッドネスSでした。 古馬との初対戦となったこの競走は、極悪の馬場となりました。 大事なクラシックの
 前に無理をさせたくなかったウォード騎手は、ニジンスキーを一度も強く追わなかったものの、ニジンスキー
 は馬なりのまま、前年の愛セントレジャー2着のディープランに4馬身差をつけて圧勝しました。
  オブライエンは早くも
英ダービーを考え始めていました。 英2000ギニーは問題にするまでもなく、確実
 にニジンスキーの勝利に終わるだろう。 しかし、スピードに優れた馬は必ず言われることですが、ニジンス
 キーもやはり 「エプソムの12ハロンはスタミナがもたないのでは」 という不安が指摘されていたのでした。
 確かに、ここまで6戦無敗とはいえ、出走した競走はすべて1マイル以下。 加えて父ノーザンダンサー
 12ハロンのベルモントSで敗れて米3冠を逃がしています。 ニジンスキーの
英ダービーを阻むものがもし
 あるとすれば、それは彼自身の有り余るスピードかもしれませんでした。 そこでオブライエンは、英2000
 ギニーで騎乗することが決まっていたピゴットに、
英ダービーを使うために距離をもたせることを覚えさせた
 いから、道中はなるべく馬をリラックスさせてくれ、と指示しました。
  当日、1934年のコロンボ以来となる単勝1.6倍(4-7)という低倍率に支持されたニジンスキーに騎乗し
 たピゴットは、その指令を完璧に果たしました。 中団につけたニジンスキーは、残り1ハロン余りの地点で
 早くも先頭に立つと、そのまま1発の鞭も入ることなく、2着のイエロウゴッドに2馬身半差をつけて、英3冠
 の1冠目を難なく手に入れたのでした。 あまりにも完璧であっけないほどの勝利でした。
 

英ダービー
  いよいよ英ダービーです。 世界一過酷と言われるエプソ
 のコースをこなすだけのスタミナが、果たしてこの快速馬
 にあるかどうか。 それに加えて、
英ダービーにはフランスか
 らジルという強敵が参戦してきました。 名馬シーバード
 息子で、そのシーバードを管理していたエティエンヌ・ポレ調
 教師が、この馬で
英ダービーを獲るために調教師引退を1年
 遅らせた、と言われるほどの逸材でした。 そしてフランスか
 らはもう1頭、4戦無敗でリュパン賞を制したスティンティノも
 挑戦を決めており、この3頭に加えてダンテSを制したアプル
 ーヴァル(Approval)の4頭までが、実質的に勝利の可能性のある馬と見られていました。
  もちろん、1番人気はニジンスキーでした。 しかし、スタミナ不安がささやかれていたせいか、単勝約2.4
 倍(11-8)と生涯唯一2倍を超える倍率となりました。 このニジンスキーにとって、エプソムを知り尽くしたピ
 ゴットはこの上なく心強いパートナーでした。
  
英ダービーの勝負どころはタッテナム・コーナーと言われます。 ニジンスキーは、体の大きな馬にしては
 驚くほど滑らかなしぐさでこのカーブのきついコーナーをこなしました。 この時点で出走11頭のほぼ真ん
 中という理想的な位置取り。 ピゴットがゴーサインを出したのは、直線手前の坂下でした。 一瞬でニジン
 スキーのギアがトップに入り、離陸前の戦闘機を思わせるような重心の低い走りは、ほんの数完歩で先頭
 を行くジルをとらえ、そのまま並ぶ間のなく抜き去りました。 あとはゴールまで一直線。 ニジンスキーは
 ジルに2馬身差をつけ、1936年のマームードのレコードから0秒88差の2分34秒68という歴代2位(当
 時)のタイムで、2冠目をものにしました。
  この
英ダービーを見たノエル・マーレス調教師は、「これほど強い馬を見たのはリボー以来だ」 と驚嘆し、
 チャーリー・スマーク騎手は 「たとえ距離が2マイルだっとしても、ニジンスキーは馬なりで勝っただろう」 と
 感想を漏らしました。 こうして無敗の
英ダービー馬は競馬界のカリスマとなったのでした。
 
  底知れぬ強さを発揮して、無敗のまま英ダービーを制し頂点に立ったニジンスキーは、続いて愛ダービー
 に出走しました。 オブライエン調教師は以前からの約束を守り、このアイルランドでの競走にはダービー
 ジョッキーのピゴットではなく、ウォード騎手を乗せました。
  ニジンスキーはいつも以上にパドックから入れ込み、激しく発汗していましたが、ゲイトに入ると嘘のように
 落ち着いたとウォードは言います。 その瞬間からゴールまで、ウォードはパートナーの勝利を一度も疑うこ
 とはありませんでした。 道中は後方につけ、直線で内を突いて先頭に立つと、馬なりのまま後続を突き放
 していきます。 ゴールでは2着のメドウヴィルに3馬身差をつけ、大楽勝を飾りました。
  まるで調教代わりのような楽な競走だったため、4週間後の7月25日に行われるKGVI&QESにも、オブ
 ライエンは何の不安もなく馬を送り出すことができました。 ただし、ここでの相手はこれまでとは少し訳が
 違います。 このKGVI&QESには欧州の中長距離のチャンピオンが集結するのでした。 前年の
英ダービ
 
の勝ち馬ブレイクニーディアヌ賞の勝ち馬クレペラーナワシントンD.C.国際Sの勝ち馬カラバス、伊ダー
 ビーの勝ち馬ホガース、この年のコロネイションCの勝ち馬カリバン。 この中で3歳馬はニジンスキーただ
 1頭でした。
  しかし、このメンバーでさえニジンスキーに全力を出させることはできませんでした。 再び鞍上にピゴット
 を迎えたニジンスキーは、道中は後方から2頭目の位置で極めてスムーズに競走を運び、残り300mで真
 ん中を割って先頭に進出。 すると、例によってピゴットの手はほとんど動かないまま後続との差が開いて
 いくのでした。 まるで条件馬を相手にしているかのようでした。 ゴール前でピゴットは何度も後ろを振り返
 り、差を確認して手綱を緩めました。 そのため追い込んできたブレイクニーに2馬身差にまで詰め寄られた
 ものの、力の差は明らかでした。 ピゴットもオブライエンも、この競走がニジンスキーの強さを最も実感した
 一戦だった、と語っています。
 
  欧州最高峰の競走を総なめにし、しかもいまだ敗戦はおろか、限界すら見せていないニジンスキー。 そ
 の種牡馬としての価値は計り知れないものがありました。 馬主のエンゲルハード氏に世界中の生産者か
 ら申し出があったのも当然でしょう。 特にイギリスのナショナルスタッドと、ティム・ロジャーズを中心とする
 アイルランドのシンジケイトは熱心で、それぞれ150万ポンドと200万ポンドという価格を提示してきました。
 しかし、エンゲルハードは多くの繁殖牝馬をアメリカのケンタッキー州にあるクレイボーンファームに預けてい
 たのでした。 結局、この綱引きに勝ったのは、クレイボーンファームの当主、ブル・ハンコックでした。
  KGVI&QESでの圧勝から3週間も経たない8月14日、ニジンスキーに1株17万ドルで32株、総額54
 4万ドル(約227万ポンド)という史上最高価格のシンジケイトが組まれ、.翌年春からクレイボーンファーム
 で種牡馬入りすることが発表されました。 ちなみに、それまでの最高価格はヴェイグリーノーブルの500
 万ドルでした。
  その頃、ニジンスキーはつかの間の休養に入っていました。 秋は
凱旋門賞に向かうことが決まっていま
 したが、ここでオブライエンは予定を変え、当初は出走させない予定だった英セントレジャーを使うことを考え
 始めました。 KGVI&QESからいきなり
凱旋門賞では間隔が開き過ぎる。 それにどうせ前哨戦を使うな
 ら、.英3冠を狙いたいという気持ちもあったのでしょう。 バーラム以降、34年間も途絶えてはいましたが、
 当時はまだ英3冠馬という称号は非常に魅力的なものだったのでした。
  ところが、KGVI&QESの後1週間も経たないうちに、ニジンスキーは白癬(はくせん)による発疹に襲わ
 れてしまいました。 症状はかなりひどく、鞍を置くあたりから胸、腹にかけての毛がごっそり抜けてしまっ
 たといいます。 調教はおろか、鞍をつけることすらできず、ようやく回復して調教を再開できるようになった
 頃には、英セントレジャーは3週間後に迫っていました。
 

英セントレジャー
  しかし、「もともとニジンスキーは強い調教をあまり必要とし
 ないタイプである。 また、すでに勝負付けが済んでいる同
 世代との争いなら楽な競走になるだろう。」、そう考えたオブ
 ライエンは英セントレジャーにゴーサインを出しました。 もち
 ろん、ニジンスキーの回復が順調で馬がきちんと仕上がって
 いたのは言うまでもありません。
  競走は予想通りニジンスキーの楽勝でした。 後方を追走
 したニジンスキーは、直線でじわじわと順位を上げ、残り30
 0mほどでやすやすと先頭に立ちました。 そしてそのまま
 一度もピゴットに追われることなく、メドウヴィルに1馬身差をつけて完勝しました。 この瞬間、バーラム以
 来、そして第二次世界大戦後では初めての英3冠馬が誕生したのでした。 しかも35年前のバーラムと同
 じく、無敗のままでの達成でした。 その後、現在に至るまで英3冠馬は生まれていません。
  英3冠は、マイル(約1600m)の英2000ギニー、12ハロン(約2400m)の
英ダービー、そして14ハロ
 ン127ヤード(約2900m)の英セントレジャーから成ります。 春には、ニューマーケットのマイル戦を制す
 るだけのスピードと、アップダウンが激しく過酷を極めるエプソムの12ハロンをこなすだけのスタミナが要求
 され、さらに9月にはドンカスターで長丁場の英セントレジャーが待っているという非常に厳しいものです。
 これを成し遂げられるのは、よほど完成度が高い万能な3歳馬ということになります。 しかもニジンスキー
 の場合、その合間に愛ダービーと、古馬を相手のKGVI&QESまで制しているのです。 普通の馬なら出
 走するだけで音を上げるかもしれません。 しかしニジンスキーはどんなに高いハードルでも、まるでバレエ
 ダンサーの跳躍のように軽やかに飛び越えていくのでした。 そしてその前には今、
凱旋門賞という新たな
 ハードルが待ち受けていました。
  誰もがニジンスキーの勝利を確信していました。 もちろん、英3冠に加えてKGVI&QES
凱旋門賞
 完全制覇など、常識では考えられません。 しかし、前代未聞の偉業を達成できるとしたらこの馬しかいな
 いだろう、と人々は信じて疑いませんでした。 そう感じさせるだけのオーラが、この馬には確かにありまし
 た。
 
  10月4日のロンシャン競馬場を埋めた大観衆のほとんどは、ニジンスキーの歴史的勝利を目撃するため
 に来ていました。 その証拠に、
英ダービーで2着に敗れた後サンクルー大賞を制したジルや、リボー
 再来かと騒がれていた伊ダービーの勝ち馬オルティス、ジョケクルブ賞の勝ち馬ササフラブレイクニー
 スティンティノといった顔ぶれの中、ニジンスキーは単勝1.4倍という圧倒的1番人気に推されていました。
  スタート後、ピゴットはいつものようにニジンスキーを後方につけました。 そして後ろに3、4頭を従えたま
 ま直線へ。 有力馬の中ではオルティスがばて始め、ジルは逆にペイスを上げました。 それを抑えてササ
 フラが先頭に立ち、ここでピゴットはニジンスキーを外に持ち出し、追撃を開始しました。 先頭を行くササフ
 との差は瞬く間に縮まり、残り150mで並ぶと、大歓声が沸き起こりました。
  ところが、この日のニジンスキーはどこか様子が違いました。 ピゴットはその走りにいつもの勢いがない
 のを感じ取っていました。 粘るササフラを突き放すことができません。 ピゴットは初めてニジンスキーの身
 体に鞭を当てました。 ニジンスキーは大きく左によれ、ササフラが驚異的なスタミナを見せてもう一度ニジ
 ンスキーを抜き返す・・・。
  そこがゴールでした。 アタマ差とはいえ、ニジンスキーは生まれて初めて他馬の後ろでゴールしたので
 した。 この瞬間、神話は崩れ去りました。
  当然、様々な敗因が取りざたさらましたが、きついローテイションによる疲れというのが定説になっていま
 す。 確かに、ニジンスキーはまるで張り詰めていた糸が切れたようになっていました。
  これだけの名馬を負けたまま引退させるのは忍びないと考えた陣営は、雪辱を期してニジンスキーを2週
 間後の英チャンピオンSに出走させました。 しかし、復活を信じる2万人の観衆の目の前で、ニジンスキー
 はロレンザッチオという馬に1馬身半差の敗北を喫したのでした。 そして、これがニジンスキーの生涯最後
 の競走となりました。 巨額のシンジケイトが彼を待っており、種牡馬入りを遅らせるわけにはいきませんで
 した。
  もしニジンスキーがこれほどの名馬でなければ、たとえば
凱旋門賞挑戦は翌年まで待つことができたかも
 しれません。 逆に、
凱旋門賞に出走しないで無敗のまま引退することも許されたかもしれません。 しかし
 もしニジンスキーがそのような馬だったら、ここまで強く人々の心を捕えていたでしょうか。 生涯最後に喫し
 た2度の敗戦こそが、逆にニジンスキーの強さの証しとはいえないでしょうか。
 

カラ競馬場のニジンスキー像
  ニジンスキーは種牡馬としてもまれに見る大成功を収めました。 プー
 ルデセデプーランの勝ち馬グリーンダンサーKGVI&QESの勝ち馬
 イルドブルボン愛セントレジャーの勝ち馬ニニスキ
英ダービーの勝ち
 馬ゴールデンフリースジョケクルブ賞の勝ち馬カーリアン、英2000ギ
 ニーの勝ち馬シャディードケンタッキーダービーの勝ち馬ファーディナン
 ド、英愛ダービーの勝ち馬シャーラスタニ、BCマイルの勝ち馬ロイヤル
 アカデミーロスマンズインターナショナルの勝ち馬スカイクラシック、
 ーデン大賞の勝ち馬マシャーラ、そして欧州3冠馬ラムタラなど、世界中
 で数え切れないほどの活躍馬を世に送り出し、父ノーザンダンサーに匹
 敵するほどの名声を得ました。
  1992年4月15日、蹄葉炎の進行に老衰が重なって安楽死の処置が
 とられたニジンスキーは、25年の生涯を終えました。 そして遺体はクレイボーンファームに埋葬されました。
 優雅にして苛烈。 ニジンスキーの名はその死後もなお、人々を引きつけてやみません。

  繋養地
   Claiborne Farm (Paris, Kentucky, USA) (1971-92)

 

兄弟姉妹 生年 勝ち鞍
Fleur 1964 Victoria Park Broodmare
Minsky 1968 Northern Dancer Beresford S. (IRE)