お地蔵様とサルスベリ

岐阜県養老郡養老町石畑のお寺様「淨誓寺」のお話です





椿井山・淨誓寺は600年以上続いている古いお寺様です。
そのお寺様の本堂の南側に地蔵堂があります。


このお地蔵様は昔から石畑の飛地(ここから2キロ程南へ行った所)「二軒在家」の
あるお屋敷に奉られていて毎年一回地蔵盆に本村から大勢の檀家達が出向いて御参りしていましたが
常時お参りがしたいと言う願いから明治四十一年(1910年)御本尊を現在地にお移し申したのです。



御本尊の秘話

石造の本尊は、何時の頃からか、「開運地蔵大菩薩」と申し上げています。
言い伝えによりますと、元亀二年(1571年)織田信長が伊勢長島の願證寺(現在垂井町平尾の願證寺)
を攻めた時、東本願寺第十二代教如上人より長島を守るようにとの御消息をいただいた上石津町・時の
唯願寺の住職明覚が、長島へ馳せ参ずる時、この地蔵様を奉戴して参戦、この地蔵様に蓑を着せて
最前線に置いて対戦した所、如何に矢玉をそそいでも倒れぬのに恐れをなした織田軍が陣を
退いてしまったと伝えられています。
どうした訳か、お首が折れて居りましたのを淨誓寺住職が昭和十九年に御修理申し上げました。



地蔵木の百日紅




地蔵堂前に二本の百日紅があります。これは昭和三十四年の伊勢湾台風で初代の老木が
倒れた時既に根元から生えていた二代目が育ったものですが、その初代の百日紅は、
明治四十一年二軒在家より御本尊に従ってお移し申したものなのです。

”この時、庭師が庭木として名古屋へ売る事となって
はじめ、ご本尊より離して今尾の渡船場まで荷車で運び、同所より船で
揖斐川を桑名へ下り海路を運ぶ予定にした所、
同所より今尾まで僅か七キロの陸路に難航を極めて一週間もかかった挙句
最後の船に乗せる時、遂に一人の犠牲者を出してしまいました。
恐れをなした庭師が「きっとこの百日紅は御地蔵様の仏木にちがいない」
と、解約を申し出て渡船場から現在地へ運ぶ事に致しました。
ところが驚いた事には、行きはあんなに苦労致しましたのに
帰りはたった一日で易々と当地まで参りまして移植を完了致しましたのです。”





この事は 第二十六世前住職様が生前昭和四十九年に
記されました時、これは僅か六十四年前の事ですから
檀家の年配の人はみなよく知っている不思議な事実でありますと書かれていました。



母乳授与の地蔵様

大正時代から戦前までは、近郷近在の若い母親がよく参詣して
御仏供飯を戴いてそれを食べると母乳が良く出ると言って
随分有名でした。終戦後は母乳軽視の風潮が高まり
次第に稀な事となりました。



鞭打ち症に霊験

自動車事故に合い鞭打ち症になられました町内某氏が
医者ざらいをした挙句、「南西の方角、堂内に祀られたお地蔵様」を
お参りする様と言われこのお地蔵様の御仏飯を戴かれ
暫くで全快されたとの事です。






この場所には古い石塔・石仏が多く集められています
年代の不明のものも多く、古くは文明十年(1478年)
殆どが室町時代の作である事は間違いありません。


古木

・ 本堂正面の槙の巨木は樹齢少なくも6〜700年
・ 本堂南側の極めて珍しい老木侘助椿は槙の木以上
 本堂北側内庭の榧の古木は本堂火災(1843年)の時半分を焼き
  残る半分だけで今まで生き続けて来た、火災の記念木です。

当山は創立の年代は不詳ですが、境内に今尚堂々と
生き抜いている古木から察しますと随分長い歴史のある寺でございます。



以上  昭和四十九年八月二十五日付け
地蔵菩薩石仏御遷座法要記念に前住職様の
第二十六世 故 椿井隆信 誌より
抜粋して編集させて頂きました。