連句の歴史早わかり
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上代〈奈良時代以前〉 万葉集に現存最古の例があるが、実際には万葉集以前から行われていたのだろう。但し名前はまだない。
中古〈平安時代〉 中期までは二人で1首の短歌を作るような例しかない。但し出来た短歌は、普通の短歌とは違い、長句と短句が和歌1首ずつによる贈答のような感じ。院政期頃から3句以上続ける例が登場する。いつの頃からか「つらね歌」または「連歌」という名称が登場。2句完結のものを短連歌、3句以上続くものを「長連歌」「鎖連歌」と呼ぶようになった。
中世〈鎌倉時代〉100句連ねる百韻が登場。以後近世初期まで標準となる。当初ルール(「式目」と呼ぶ)は賦物〈ふしもの〉と呼ばれるものだったが、中期以降去り嫌いと呼ばれるルールが登場。以後現在に至るまで、式目は去り嫌いである。なお賦物とは百句全てに同じ条件を課するルール。たとえば白黒連歌は白い物と黒い物を交互に出す。
中世〈南北朝時代〉 二条良基と救済が東西の式目を統一したり、初の准勅撰連歌集『菟玖波集』を撰ぶなどして、連歌の社会的地位が飛躍的に向上。
中世〈室町時代〉 連歌の全盛期。宗祇を中心として2番目の准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』や連歌史上の最高傑作と呼ばれる『水無瀬三吟百韻』などが成立。但し後半には俳諧連歌が盛んになる。
近世〈江戸時代〉 連歌は幕府や各藩の管理となって存続したが、中級武家以下庶民に至るまで、俳諧が浸透。芭蕉や蕪村といった俳諧史上の巨人達が登場した。一方、滑稽を旨とした俳諧が風流な文芸に変質するに伴い、より俳諧性を残す川柳が成立流行した。
近代〈明治以降〉 正岡子規が俳諧を否定して俳諧の最初の句(「発句」)を独立させ、俳句と命名。以後俳諧を圧倒する。が、子規の一番弟子高浜虚子は俳諧を好み、俳句と紛らわしい「俳諧」の語をやめて「連句」と命名。現在に至る。
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