●櫛田宮は旧長崎街道神埼宿のほぼ真ん中に所在し、日本全国実測者伊能忠敬も、櫛田宮の鳥居に起点をおいた。(現在も旧陸軍測量部が起点とした証の道路元標がある)また神埼地域の中心的存在でもあった。
南に面して参道、石造太鼓橋があり、境内には佐賀県重要文化財指定の肥前鳥居、同じく神幸祭絵馬をはじめ、能舞台、随臣門、琴の楠、琴の池、庚申石祠、オランダ大砲(現在は史料室内にある)、神埼素麺碑など見るべき所も多い。
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■肥前國有数の古社 |
昭和55年秋、浩宮様(皇太子殿下)の御来宮があり、神社の古文書を親しく御覧になった。その記念碑も後に参道わきに建立された。
櫛田宮の古文書は、平安末期の大治元年(1126年)のものをはじめ数十通現存する貴重なもので、代々社家に伝えられてきた。(神埼市重文指定)大治元年のものの内容は、郡内に櫛田、高志、白角折の三神を祭る櫛田宮を中心におき、これに多くの末社を配したもので、別の記録には当時の郡内末社は189社としている。
社伝によれば、第12代景行天皇が当地方を巡行された折、当時この地に不幸が続いて人民は苦しんでいたが、神を祭りなごめたら、その後は災厄もなくなった。神の幸をうける地というところから「神幸(かむさき)の里」と名付けられ、今は「神埼」と書いている。
神社の創建はこの時であり、神社から北東方向約2kmに位置する吉野ヶ里遺跡の隆盛な頃と同時代の弥生時代後期にあたる。
このように神社の御創建以来1900年余にもなり、昭和56年秋には、5日間にわたり1900年記念大祭を行い、社殿修理等の記念事業をも実施した。
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■博多櫛田神社との関係 |
昭和39年8月7日、博多の櫛田神社から宮司ほか2名と、福岡県から文化財専門委員等2名が参拝と調査に来神。
博多の祇園山笠が国の民俗資料として記録作成の指定を受け、古記録の調査と写真撮影を要望された。博多の方は古記録・資料に乏しいため神埼の記録をもって補足することになった。結局3回来神して記録整い、翌40年3月文部省に提出された。その「博多山笠記録」にも、神埼が本家で博多は分家の説を紹介してある。
神埼は田舎であってもその昔は現在の神埼市・吉野ヶ里町のほぼ全部と上峰町・みやき町の一部が荘園の時代が長く続いた。しかも皇室領のため「神埼御庄」と尊び称され、正応5年(1292)の頃には約3000町歩の大荘園であった。九州治乱記にも「其の神領北は山内藤の原を限り、南は海際崎村まで、東は米田原、西は尾崎まで、分量数千町、是を名付けて神埼の御庄という」とある。
当時の中国(宋)との密貿易も盛んに行われ、有明海から神埼の荘園にも迎え入れた。(神埼では中国の陶磁器類も多数出土している)
この荘園を実質治め巨利を独占したのが平正盛・平忠盛であり、その子の平清盛が平家全盛の時代を迎える財政的な基を神埼の地で築いたのである。
その貿易品や年貢米の積み出し港である博多に分社をつくり、櫛田大明神の御加護を祈ったという説が通説となっている。
福岡市が市制90周年記念として発行した『福岡の歴史』(昭和54年10月発行)にもその件は詳しく記されている。
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■御祟神と伝説 |
櫛田三神をまつる。櫛稲田姫命、須佐之男命、日本武命とつたえる。景行天皇は御子の日本武命(ヤマトタケルノミコト)を偲び、各地を巡行された。櫛田宮に琴を埋め、化して楠となる。よって琴の楠と称する。この古木の周囲を呼吸を止めて7回半まわれば琴の音色が聞こえるという。また約300坪の池を琴の池という。
神社裏一帯を櫛山と称して、古代神祭の旧跡と伝える。かたわらに石造の酒甕と伝えられるものもあり、祭神がヤマタノオロチの災厄をのがれ給うた神話の証として、生児のヒハレ(初宮)詣りの際、その生毛を納めて生育を祈る風習がある。
1年おきの春祭り(みゆき大祭)は、800人近い大行列で賑わうが、その先払いの尾崎太神楽(佐賀県重民無文指定)を保持する尾崎地区周辺には大蛇にちなむ地名伝説がある。(下線部は現存地名)
大昔大蛇が住民を苦しめた。鼻は花手に尾は尾崎までおよぶ長さ六丁の大蛇。人々は野寄に集まりて協議して、柏原から柏の木を伐ってきて伏部からふすべ(クスベ)た。大蛇は苦しみ蛇貫土居をのがれ、蛇取で退治された。今も蛇取に蛇塚がある。
なお尾崎太神楽の獅子は他所の獅子舞とは異なり大蛇を表現したものであり、蛇は櫛田神の使い(眷属)で、その伝説は霊験記(室町時代)にまとめられている。
ヤマタノオロチの神話は別格としても、元寇の際、博多へ神剣を移して祈願した記録が「櫛田大明神縁起」にある。
就中弘安年中に蒙古勢襲来の時 櫛田の御託宣に曰く「われ異国征罰の為に博多の津に向かう。我が剣を博多の櫛田に送り奉るべし」と云々。仍てこれを送り奉る。ここに博多の鍛冶岩次良霊夢あるによりて、三日精進して御剣をとぎ奉る。これを箱におさめ白革を以て三所ゆい封をなして神殿に納め奉り畢ぬ。即ち蒙古合戦の最中筑前国志摩郡岐志の海上に、数千万の蛇体浮かび給う。万人の見知其の隠れなし。また、三ヶ月の後、末社櫛田の社壇に疵を蒙る蛇体多く現じ給う。即ち御託宣に曰く「各疵を蒙ると言えども、蒙古既に降伏して帰り来る」と云々。仍て神埼本社の神仁等数百人、かの岐志の浦に発向して迎え奉り畢ぬ。その後更に十三年を経て、かの御剣を本社に遷入れ奉らん為、神埼の神仁いむ田太良以下数百人、博多の櫛田に参向して件の箱の封を解きし処に、蛇体御剣を巻つめて頭をつばの本に打ちかけて、殆ど倶利伽藍明王の如し。見聞の諸人渇仰肝に銘じ、随喜の涙袂をしぼると云々。
ほかにも正和の造営時の神使の蛇の働きや、南北朝時代の武将、菊池武光の話などが残っている。それらの話中にも示されるように、櫛田の神は大は国難、小は個人の除災招福の神としての尊い御神徳がいつの時代でも仰がれている。
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