この〆は、香川県三豊郡豊浜町の先代箕浦太鼓のものだ。ご覧の通り、右側の龍は口を閉じているが、剣は持っておらず、左側の龍は口が開いているが龍玉は持っていない。また、細身の龍で、赤布に巻きつくような図案である。また尾は巻いておらず、自然な形をしている。
現在の箕浦太鼓の〆は、鷲と龍の図案になっているが、同じ豊浜町の東町は、昭和63年に〆を新調する時、昔の伝統を守り、この図案を採用した。
S30 黒渕(この〆は確認できる限り、明治後期から使用されていた)
S50 黒渕
これまでの例をまとめると、さまざまなパターンの双龍が存在したということであり、今のような「右側の龍は口を閉じ、剣を持っている。左側の龍は口が開き、龍玉を持っている。」という定説は、昔(明治時代以前)は無かったという事になる。
ここでもう一つ、面白い写真を見ていただきたい。左上は先代黒渕の〆を、私が面白半分で意図的に配置して撮った写真である。面白いほど左右対称である。おそらく同じ図案の型紙を裏返して刺繍したのであろう。当然ちょうさにつける時は、このような配置ではなく、龍玉を持った龍と、剣を持った龍が対になるように配置したいた。さらに、先代黒渕の〆は、正面は双龍であったが、側面は双虎であった。このようなことを例にあげてくると、益々、いろいろな疑問が湧いてくる。
最後に言える事は、昔の人の発想は自由で、自由な布団〆を採用していたという事と、龍の〆が今のように定型化されたのは、そう昔ではないということだ。尚、この謎は、さらに幅広く調査し、また縫師さんにも尋ねるつもりである。後の更新を楽しみにしていただきたい。
※画像提供:もたかさん。 ありがとうございました。
この写真は、上が愛媛県伊予三島市の三島神社に奉納している第九號中組太鼓の現役で使われているもので、右は先代黒渕の〆である。この2つを比べて面白いのは、同じ図案であるということである。
右側の龍は口を閉じ、頭の左上には龍玉を持っている。左側の龍は口が開いており、尾の先に剣を持っている。もう言わなくても分かると思うが、今の基準で判断すると、口を閉じている龍が剣を持ち、口が開いている龍が龍玉を持つはずなのに、これらの〆はその逆の図案である。
今の図案と唯一共通している点は、口の閉じている龍が右側に、口の開いている龍が左側に配置されているということだが、しかし伊吹の例を見ると、この説も成立しないことになる。
また、足も3本(4本)あるようだ。
この〆は、香川県観音寺市の伊吹島の東部地区で、今も現役で使われているものだ。ある資料によると、伊吹島のちょうさは、江戸時代に西讃地方へちょうさが伝播されてきた頃の、そのままの原形を保っていると言われている。その例は、上の写真を見ていただくとよく分かる。〆の下部に、〆をうける役目の部品が付けられている。これは近畿地方の布団太鼓には当然のように用いられている物で、現在の西讃地方のちょうさには全く見ることが出来ない特徴である。
さて、伊吹島には3台のちょうさがあるが、双龍の〆はこの東部地区だけであり、他の地区は鯉や鶴をモチーフにしたものである。この〆は、黒の布地に、細身の龍が刺繍されており、双龍の〆の原形と言っても、過言ではない。次に左の写真を見ると、龍の口は開いており、頭の左上には、龍玉らしい物が手に握られているのが分かる。また、左側の龍は、剣は確認できなかったものの、口を閉じているのが分かる。今とは、左右逆転した龍の図案である。
また、現在の〆に用いられる図案の龍の足は、左右側とも2本ずつだが、この〆では3本(4本)あり、明らかに今の図案に用いられる龍の描き方とは違う。
私は幼い頃から、ちょうさを想像する時、いつも龍の顔が最初に思い浮かぶ。たぶん皆さんも、「ちょうさ=龍」と発想する人が多いのではなかろうか。それは、ちょうさを見るとき、一番最初に目に飛び込んでくる箇所が、七重の布団〆で、また、その迫力のある目つきが脳裏に焼きついてしまうからであろう。一方、その布団〆には、龍だけでなく虎・鷲・獅子・扇などをモチーフにした物もある事は、非常に興味深い。
このページでは、最も一般的な双龍の布団〆についての謎を紐解きたい。近年、新調される布団〆のほとんどが、左の写真のような図案である。右側の龍は、口を閉じ、剣を持っている。左側の龍は、口を開け、龍玉を持っている。尾についても、投げ尾の龍は珍しく、ほとんど似たような巻き方の図案である。
しかし、このような図案は昔からあるものなのだろうか?
また、いつ頃から定着した図案なのか? 疑問が湧いてくる。