西讃・東予地方ではもう姿を消したと思われていた古い様式の太鼓台の蒲団〆が、このほど見出され、平成14年10月5日、「蒲団〆里帰り・報告会」が行われました。題の蒲団〆は、明治12年(1879)に製作されたもので、観音寺市柞田町黒渕地区が所有していました。1枚の大きさは、縦約110a・幅約30aのもので、現在のものよりはるかに小振りで、厚みも薄く、刺繍方法にも古い手法を残しています。また刺繍の裏地補強も、現在一般的となっている補強板を用いたものではなく、厚紙式の珍しい様式となっています。
 黒渕地区では先代に代わり、現太鼓台が昭和57年に新調されました。同地区関係者によると、この蒲団〆は、先代太鼓台の飾りとして、昭和初期には既に使用されていました。しかし、幾人かの長老の記憶をたどっても、「昔、他の地区から中古品を購入してきた」ことが口伝えされているだけで、「どこからの由来なのか」については全くわからないまま、使われなくなった昭和57年以降は、地区の人々からも忘れ去られ、倉庫の片隅で眠っている状態でした。ところが昨秋、観音寺市港町−本若太鼓台地区−の古老(明治28年・1895年生れ、録音時82歳)がカセットテープの中で、「私が新若(シンワカ)入りした16歳(明治43年頃)の年、本若太鼓台が新調された。それまで使っていた龍・虎の蒲団〆は黒渕太鼓台へ売却され、今(昭和53年当時)も使われている」と語る新事実が確認されました。更に、黒渕太鼓台を紹介したインターネットのホームページで、その蒲団〆が現存していることも判明したため、両地区太鼓台のつながりが、にわかにクローズアップされることとなりました。
 本若太鼓台側では早速黒渕太鼓台を訪問し、関係する蒲団〆を見せていただきました。また、制作年代を知ることが非常に困難である刺繍の鑑定については、何代にもわたり太鼓台の刺繍をされている著名な縫師・高木一彦師にお願いしました。その鑑定結果やこれまで判明している客観事実等から、先代黒渕太鼓台で使われていた龍・虎の蒲団〆が、「ほぼ間違いなく、今より123年前の明治12年に新調し、当時の本若太鼓台(製作判明順に、昭和59・昭和9・明治43・明治12年。これ以前は不明)に飾られていた蒲団〆である」ことが結論づけられました。ここから両地区の話し合いは急転しました。両地区の会合では、「貴重な歴史遺産をこのまま消滅させてしまっては太鼓台の歴史を後世に伝えられなくなる。できるならば、関係する双方の地元で保存継承することとし、ガラスケースの額装にすれば、いつでも誰でもが鑑賞できるのでは」との方針が話し合われ、(1)現存する蒲団〆を両地区で分け、双方の自治会館など公の施設に展示・掲額する、(2)両地区の友好と製作された歴史の証しとして、額縁に<黒渕太鼓台 SINCE 1879 本若太鼓台> を表示し、永く後世へ伝える、との内容が取り決められました。
 120年余を経た龍・虎の蒲団〆はあちこちで金糸がほころぶなど、さすがに痛みが激しい。しかし、かってなかった激動の時代を生きてきた証しを、古くてもいい、ありのままを私たちに見せてくれてこそ、この地域の文化遺産として真価を発揮するはずです。これまで太鼓台の装飾刺繍は、古くなれば消滅することがほとんどでした。今回、かろうじて公共の場で後世へ守り伝えることができ、両地区関係者は、ほっとする安堵の気持ちと同時に、これから永く続く遺産継承への責任の重さを痛感しています。(尾崎明男氏著)
 これらの刺繍は、昭和57年まで黒渕太鼓に付けられていたものだ。私の祖父によると、祖父が青年の頃(昭和初期)には、すでに幕などは傷みが激しく、狐の肝(綿)が出ていると言って、気持ち悪がったそうだ。そういう事からこの刺繍は明治中期以前に製作されたと推測できる。また掛布団も4枚残されていたが、朽ち果てていたので使用しなかったそうだ。掛布団は焼却処分されたと聞いている。
  幕の題材 『九尾の狐』

 鳥羽院のころ、というから今から八百年前。宮中に“玉藻の前”なる美女が仕えていた。吉備真備(きびのまきび)が中国より帰朝のおり、一人の美しい少女を連れ帰ってきたのを、ときの帝・近衛天皇がその麗姿に魅入られ、側女に取り立てていたのである。ところが、帝が玉藻を側女にしてから、帝の日常のふるまいが、日増しにただ事ではなくなってきたのである。しかも、帝の顔色青白く優れず、眼光も虚に冴えず、行動にも落ち着きを失い、臣下の言をも聞き入れない。
「帝が、こうなったのも玉藻の仕業。このままでは国が滅ぶ…」
「玉藻とは、そもそも何者ぞ?」
帝を案じる臣下たちは、陰陽師の安部泰成に命じて、玉藻の正体をつきとめさせたのである。
『天竺では斑足王の后となり、中国に移り、周の幽王の后・褒似と稱し、殷の紂王の后・姐己と名乗り、ことごとく王を悩まし、国を滅ぼしたる七色、九尾の妖狐なり。いま日本に来たり名を変じて玉藻といつわる』
ナント! 玉藻こそ、アノ九尾の狐だったのだ。
 安部泰成らによる必死の祈とうに案の定、玉藻はにわかに苦しみもだえ、遂に正体をあらわした。異様な叫び声をひびかせ、九つの長い尾をふり乱し、天空めざして飛び去っていった。都はふたたび静かで平和な日々に戻ったのだが、またまた東北でかずかずの悪い出来事を耳にする。アノ妖狐がまた暴れ出したのだ。帝は弓の名手・上総介広常、三浦介義純の二人に妖狐退治を命じた。那須野が原にまで追いつめ、首尾よく二人の矢に射止められそうになったが、その一瞬、悪狐は石に化したのだ。ところが、これがただの石ではない、触れるのはおろか、石の吹き出す毒気で、これには二人は歯が立たぬ。恐るべき悪霊の石は、まわりに近寄る動物たちやその石の上を通る小鳥さえも、その毒気に犠牲となる。近隣の村人たちはおそれおののき、この石を“殺生石”と呼んで忌み嫌うようになった。帝は、今度は備後の国の玄翁和尚に、この殺生石の調伏を命じた。和尚はすぐさま那須野が原に飛び、長い祈とうの末、鉗槌をもって一撃のもとに殺生石を打ち砕いてしまった。
 こうして三国を股にかけ、国中に騒乱を巻き起こした九尾の狐も、遂には玄翁和尚の法力によって清められたのだ。
 まさに、恐ろしい白昼夢のような出来事に、帝も臣下も、胸をナデおろした。日本はふたたび平和になったという。
安部泰成

玉藻の前

九尾の狐

上総介広常 or 三浦介義純