この時代の記録や資料は、何一つ残っていない。
しかし、山田神社が延喜式内社であり、この時代に柞田一郷の氏神であったことや、既に隣の琴弾八幡宮ではちょうさが担がれていたという
記録から、黒渕でもちょうさを所有していたのではないかと考えられる。
また、黒渕の太鼓は、丸亀城の「刻太鼓」を拝領したものであることを、私の祖父(大正2年生まれ)は、先人より聞いている。
⇒太鼓の写真
明治43年 本若太鼓より、龍虎の締め(明治12年製作)を購入。 ⇒龍虎の締めの写真
この頃、九尾狐の幕、掛布団4枚、欄干、房、唐木、金縄等は、既に所有していたと考えられる。
⇒九尾弧の幕、房の写真
⇒唐木類の写真
私の祖父が子供の頃、幕は既にほころびが激しく、刺繍されていた九尾の狐の肝(綿)がみえて、気持ち悪がったそうだ。
また、祖父によると、掛布団4枚には、虎や、槍をもった武将が刺繍されていたということから、
「加藤清正の虎退治」あるいは「退治もの」が刺繍されていたのかもしれない。
また、年によって、掛布団を2枚付けたり、4枚付けたりしていたそうだ。
昭和初期 祖父が若連中の頃に、経験したことを記す。
山田神社の祭礼は、10月9日が本祭で、10月8日の夕方、氏参りだった。
若連は非常に上下関係が厳しく、年上の命令は絶対だった。
御花をもらった家には、羽織袴を着た帳持が丁寧に御礼を言いに行った。
組み立ては宵祭の夜明け前に集まり(“おひさんかぎり”)、組み立て初め、朝10時頃に完成していた。
九尾狐の幕は、赤布部分が多かったため、他の地区の人に「黒渕の赤ゆもじ」とよく馬鹿にされた。
道が狭かったため、ちょうさが通る道のそばの人は、道の脇に木を植えてはならなかった。
かつて山田神社の御旅所は、鳥居より西に約150mの所(松林寺の横)にあって、そこで御神事が行なわれた。
御神事の間、幕で囲った場所で飯をとっていた。
御旅所まで馬場(現黒渕団地)が続き大松が生えていた。秋には松茸も生えた。
境内で、担いで神社を周っていたが、差し上げることはなかった。しかし、肩にのせたまま、ちょうさを上下に揺すったりしていた。
担ぐ時は、今のように息を合わして肩にのせるのではなく、いろいろな所で掛声をかけてバラバラに肩までのせていた。
神輿蔵は弁天宮(山田神社内の池)横にあり、ちょうさの刺繍も入れられていた。
その後、御旅所(馬場の先)に作られ、昭和40年ころ現在の社務所に移された。
13歳〜30歳のわかいしが若連中へ入り、ちょうさの運行を行なった。
30歳〜35歳は帳持・世話人、35歳〜60歳は御神輿、60歳〜御神事の役にあたった。
夜は、締め、とんぼなど飾り物を全て外し、帆布をかぶせて夜露をしのいだ。
四本柱がよく折れていた。
太鼓の皮は、境内で張り替えられていた。
上市の高木縫師に、何度か幕の修理をしてもらった。
ゴマは丸太ゴマだった。危ないと言うことで鉄ゴマにした。
祭の日の水くみに、私の実家へよく来ていた。
⇒鉄ゴマの写真
運行時の飯は、桶を担いだ若衆が一軒一軒各家をまわって、おむすびや煮しめ、漬物を集め、それを食べていた。
これは、一番下っ端の役目で、ちょうさに触りたいのに、さわれず悔しかった。
晩飯も、下っ端の人間が調理していた(蒲鉾の端を調理中につまみ食いして上の人みつかり、くらされ、正座させられた)。
年上の人が、飯を食べ終わるまでは後ろで、上の人を囲むように並んで待っていた。
夜は村中の辻や、通りに灯篭が立てられ火が灯されていた。灯篭の準備は一番下っ端の役だった。
村中が明るくなり、非常にきれいだった。
ちょうさには、提灯が付けられた。提灯にロウソクの火が燃え移ることもあった。
提灯は、ちょうさの前後に段々に計50個あまりと、欄干に弓張り提灯、七重の中に大提灯を燈した。
下出の柞田川の土手沿いに提灯屋があり、祭礼用の提灯を作ってもらっていた。
下野に紺屋があり、のぼりや幕などを染めていた。
油井で、わら縄を2束買ってきて、組み立てに用いた。祭礼後はほどいて入札をし、農作業に用いた。
祭りが近くなると、よく五郷から松茸を売りに来ていた。また港へ漁の手伝いをしに行き、代わりに祭用の魚を分けてもらった。
金縄や欄干は新しかった。欄干を組立時に、綺麗にみがいた。
のぼりは、各家に立てられていた。
のぼりは、非常に大きく(幅1間)竹の力だけでは支えられなかったので、のぼりの先から、わら縄を三方に配して支えていた。
数年間、隣の境八幡宮と共同で御神事をしてことがあった。山田地区の獅子舞も奉納されてた。
境八幡宮へ宮入たあと、水利権争い(黒渕地区が水上のため)から山田地区にちょうさをとられて、帰してくれないこともあった。
長襦袢や娘の着物、“かんばじばん”を着て参加していた。“かんばじばん”とは、「看板の襦袢」が語源で、
家紋や屋号のはいった法被のことを指していた。百姓は、着物に墨で自分の家の屋号(私の家なら丸に十)を描いて着ていった。
伊勢音頭をよく歌っていた。
棒割がしてあって、自分が担ぐ所が決まっていた。
ちょうさが、境内においてゴマをつけることは、あまりなかった。
土用干しの日に、弁天さんのお祭もあり、“おひまち”と言って、一晩中境内で、飲んだり、しゃべったりして、日の出を待った。
弁天さんの祭には、腹ごしらえのため、もっそ(お結びの大きいやつ)を、持っていった。
山田神社は郷社だったため、祭礼には、県から勅旨が来たり、柞田尋常小学校の教師や生徒が参列した。
戦前までは境内からちょうさが出ることはなかった。
戦後、現サンクスから大畑三叉路まで出すようになった。
戦後、青年の数が少なく、担ぐのも一苦労で、40人ほどでゴマを外していた。
戦争が終り、皆うれしくて祭が盛り上がった。神社にテープデッキを持ってきて、
沖縄民謡などの大衆歌を一日中ながし、歌ったり踊ったりした。
戦後、神輿とちょうさが、田井(黒渕橋より北の地域)まで行って帰ってこなくなって御霊うつしが遅れたことがあった。
昭和12年頃 戦争の混乱のためちょうさを出さず。
昭和22年頃 ちょうさを、再び祭礼に出すようになる。
昭和28年頃 七重新調。 ⇒七重の写真
昭和36年 台新調。 ⇒台の写真
昭和中期 黒渕地区内のみの運行を行う。台風が来たため、ちょうさを出さない年もあった。
ゴマを外し、ちょうさを担いで境内を回っていた。
昭和後期 お御輿、巡幸の際、天狗を出すのを止めたり(お面が割れたため)、鳥毛や盾を出さなかったり、
⇒お御輿の写真
ちょうさのゴマを外すのを止めたりと、祭礼の衰退期をむかえる。
昭和54年頃 波柄の法被を新調(柞田町黒渕 志まや)。
⇒法被の写真
昭和58年 締め、幕、金縄、房、七重赤布、雲板、とんぼ新調(淡路島梶内だんじり店)。 ⇒新調後の写真
とんぼの結び方を変える。
昭和60年頃 脇棒新調。
昭和61年 この年から祭礼日を、第二の週末に変更(以前は10月9日本祭)し、柞田町の全部の神社が同じ日に祭礼を行う。
この年から、中出太鼓が山田神社に宮入するようになる。昭和55年の中出太鼓の再興の際、山田神社のお御輿の太鼓を譲渡
したことから、中出地区民の「もとあった場所で太鼓を鳴らしたい」という御好意により、山田神社への宮入が初まる。その後、須賀神社の
三太鼓全てが宮入するようになる。また、黒渕太鼓も須賀神社へ宮入するようになる。
昭和62年頃 四国物産前の交差点と、須賀神社でちょうさが横転する。「黒渕のちょうさは、よー寝る。」と言って馬鹿にされた。
昭和63年 昭和天皇、御病気のため、ちょうさを出さず。
平成元年 豊浜町東町太鼓より、掛布団、金縄を購入。
夜間照明を投光器にする。それまでは、「黒」「渕」と、豆電球で型どり、掛布団のように欄干に引っ掛けていた。 ⇒昔の電飾の写真
平成2年 ゴマを新調(柞田町大畑の中泉氏製作)。
平成3年 ゴマに事故防止のため、安全柵が取り付けられる。
大野原町瀬後地区より、中古のかき棒を購入。
平成4年 瓢箪柄の法被を新調(柞田町黒渕 志まや)。
本祭の日に、初めて柞田町の全太鼓が小学校へ集まる。黒渕太鼓は須賀神社へ宮入せず。 ⇒統一よせの写真
平成5年 2回目の柞田町太鼓統一よせが行われる。黒渕太鼓は須賀神社へ宮入せず。
平成6年 3回目の柞田町太鼓統一よせが行われる。この年を最後に、全太鼓が集まることは無くなる。黒渕太鼓は須賀神社へ宮入せず。
平成8年 約20年ぶりに、山田神社でゴマを外し、差し上げを行う。これ以後、須賀神社氏子の協力で、毎年、差し上げが行われる。
平成9年 欄干の太鼓打がすわる板を新調(柞田町大畑の中泉氏)。とんぼの先の彫金を新調。
平成10年 太鼓の皮を張り替える(仁尾町松本氏)。
平成12年 鯉口製作(観音寺町 井之川商店)。
平成13年 黒渕青壮年会で、祭礼時の装束(法被、腹掛、股引、鯉口)をそろえる。
四本柱の受けの部分を、補強。
中出、下出、北岡(須賀神社)、山田(境八幡神社)、黒渕(山田神社)の五太鼓が本祭の日に、小学校へ集まる。
平成14年 五太鼓が本祭の日に、小学校へ集まる。
90年ぶりに、龍虎の締めが本若太鼓へ里帰りする。 ⇒里帰りの写真
黒渕太鼓新調委員会発足。
平成15年 豊浜町中之町より掛布団を譲り受ける。
五太鼓が宵祭の日に、小学校へ集まり、初めて“かき比べ”が行われる。
平成16年 唐木、とんぼ、金縄、掛布団を新調。宵祭りの朝に太鼓台安全祈願祭が行われる。 ⇒仮組みの写真 ⇒先代唐木類
⇒ 昭和中期から平成12年までの写真集