今日はデート。ついにデート。待ちに待ったデートである。しかも生まれて初めての、それも憧れの藤村真由美とのだ。
「ぬふふふ……」
 彼は笑みを浮かべた。
 約束を取り付けるまでには、大変な苦労があった。何といっても、藤村真由美は美人なので、狙っている男は多い。しかし性格がきつめなので、交際を申し込んだ者はことごとくふられている。
 そんな彼女なので、彼は考えに考えた。
 その結果――
 しつこく付きまとった。
 嫌がられ、罵声され、足げにされても付きまとった。みじめなまでに付きまとった。
 そして、ついに同情され、一度だけデートすることになったのである。
「きっかけはどうあれ、デートできればこっちのもの。きめてやるぜ!」
 彼は小便小僧の噴水の前で、にやりと笑って言った。
 近くを通ったカップルが、ビクッとして、そそくさと離れていく。
「それにしても、藤村さん遅いな……。一時の約束なのに、もう十分過ぎている……」
 彼はキョロキョロと辺りを見回した。
 広い公園だが、休日なので、割と人は多い。 しかし、その中に彼女の姿は全く見えなかった。
「……まさかとは思うが……すっぽかされたとか……」
 可能性は十分過ぎる程あった。
 思わず冷や汗が浮かぶ。
「……せっかくおしゃれしてきたんだけどなぁ……」
 呟き、彼は自分の服を見下ろした。
 白いTシャツに、ジーンズ。白いスニーカー。一応髪もセットしてあるが、慣れていないらしく、少々斜めに歪んでいる。もっとも本人は気付いていないが……。
「まあ、とりあえず、もう少し待ってみよう」 それでも来る様子がなかったら、電話すればいい。
 そう思って彼は、小便小僧の股間を見つめた。
「う〜む……」
 しばらく見ていると、何だか妙な疑問が浮かんできた。
「これを作った人は、どういうセンスをしているのだろう……」
 まあ、どうでもいいことである。
 ともかく、そうしてさらに二十分が過ぎたとき。電話しようかどうか悩んでいると、
「ごめんね、三井くん。遅くなって」
 ようやく彼女がやって来た。
 あまり悪そうに思っている様子はない。
「い、いえ。これぐらい……」
 と頭を掻きつつ、待たされた彼−−三井康弘は、彼女の服装をチェックした。
 薄い水色のシャツに、白のスリムパンツ。背中まである髪は、後ろで一つにまとめている。
(う〜む、ミニスカートが見たかったが……まぁいいか。かわいいし)
 それに、今後付き合えるようになれば、いくらでも見ることができるのだ。
 康弘は妄想し、にやにやと不気味な笑みを浮かべた。
「ちょっと、三井くん。変な妄想してないで、早く映画観に行きましょう。絶対面白いとこ連れて行ってくれるんでしょう?」
「そっ、そうですね」
 妄想を見透かされて、ギクッとしながら、康弘は答えた。
 そう言う条件を出して彼女を誘ったのである。もちろん彼のおごりだ。
「ここから近いんでしょう?」
「ええ、五分ほど歩けば着きます」
「じゃあ、行きましょう」
「はい」
 康弘は歩きだそうとする。
「その前に」
 と真由美は言った。
「三井くん、髪形変よ。そこにトイレあるから行く前に直してきて」
「えっ……そ、そうですか? 自信あったんだけどな……真由美さんがそう言うなら……」
 頭に手をやって首をひねりながら、康弘はトイレに行った。
「まったく……しょうのない奴……」
 真由美は小さなため息をついた。

 しばらくして出てきた康弘の髪は、きちんと整っていた。歪んでいるのに気付いたらしい。
「ま、そんなもんでしょう」
 彼の頭を見て、真由美はそう言った。
「それはよかった。では行きましょう」
 二人は歩きだし、公園を抜けた。
「ところで三井くん、映画ってどんなのなの? あたし何も聞いてないんだけど……」
「着いてからのお楽しみです。絶対面白いですから」
「……信用していいんでしょうね?」
「大丈夫。ばっちり信用してください」
 康弘は自信たっぷりに言った。
「……まぁ、せっかく来たんだから、多少マイナーなやつでも付き合ってあげるけどね……」
 どうも、はなから期待していないらしい。「とんでもない。最新作ですよ」
「ふ〜ん、でもあたし、面白そうだと思ったのはもう見ちゃったんだけどね」
 それは康弘も最初に聞いていた。
 しかし、彼には自信があった。
「おそらく真由美さんがまだ観ていないもので、とにかく面白いものがあるんですよ」
「そんなのあったかしら……」
「着けばわかりますよ」
「……期待してないけどね」
 そんな会話をしながら、二人は繁華街に入り、歩くこと一分。
 映画館に到着した。
「……何よ、これ……?」
 顔をしかめ、真由美は康弘を見た。
「見ての通り、アニメです」
 康弘は嬉しそうに言った。
 表の看板には、『ファルクスハンター』とある。小説が原作の、人気アニメだ。
「……あたし、帰っていいかしら……?」
「ええっ!? どうしてですか!?」
 康弘は慌てた。これには自信があったのに。「悪いけど、あたしアニメ嫌いなの」
 真由美はきっぱり言った。
「じゃ、じゃあ、隣のやつでもいいですよ」
 康弘が指した隣の映画館は、『ダンシングマンとげらげら魔人』という特撮ものをやっていた。
「……特撮も嫌いなの。じゃあね」
「ああっ、待ってくださいっ」
 立ち去ろうとする真由美の腕を、康弘はつかんだ。
「え、映画がだめなら、ほかのとこにいきましょう」
「……ほかってどこよ?」
「そ、それは……プ、プラネタリウムとか……」
「プラネタリウム〜? ……あのねえ、中学生じゃないんだから、もう少しましなとこ思い付かないの?」
「じゃ、じゃあ、え〜と……」
 康弘は考えた。
(ど、どうしよう……ホテルなんていったら殺されるだろうし……)
 ほかを考えようとしても、一度思い付いたそれは、頭にこびりついてしまっている。。
「あと十秒待ってあげる」
 真由美が時間を計り始めた。
(ひええ〜っ!)
 康弘は頭を抱えた。
 せっかくデートできることになったのに、このままでは、少し一緒に歩いただけで終わってしまう。
 それだけは嫌だったが、どうしてもホテルしか思い付かない。
「五……四……三……」
 真由美がカウントダウンを始めた。
(もうだめだーっ!)
 と絶望しかけたとき。
「もしもし」
 後ろから、誰かが話しかけてきた。
「えっ……?」
 と二人が振り向くと、そこには茶色の汚い背広を着た、中年男がいた。見るからに怪しそうな人である。
「あ、あの、何でしょうか?」
 真由美が話しかけた。
「唐突ですが、あなたたち……」
 二人の顔を交互に見て、男は言った。
「勇者になりませんか?」
 一瞬の間を置き、
「はあ?」
 と二人は間抜けな声を上げた。

「真由美さん、こういう人には関わらないほうがいいですよ」
 康弘が男から守るように立ち、彼女に囁いた。
「あなたといるよりは面白そうよ。話を聞きましょうか」
 真由美は男に言った。
「ええ。ですが、ここでは話せません。私に付いて来てください」
 男は歩きだした。
「ちょっと待って。ここで話さないなら付いて行かないわよ」
「困りましたね……」
 男は立ち止まって顔を掻く。
「……まあ、ちょつとしたアルバイトをやってほしいんですよ。一人五万円出しますが?」
「五万円〜!?」
 二人は顔を見合わせた。
 五万円とは、法外な額である。
「どうしますか?」
「そうね……。まあ、話を聞いてから考えるわ」
「では、こちらへどうぞ」
 男は歩きだした。
 真由美がそれに続いていく。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。ほんとに付いていくんですか? 五万も出すなんて、危ない仕事に決まっていますよ」
「別にあなたは来なくてもいいのよ?」
 真由美はつれない。
「そ、そんな〜……」
 仕方なく、康弘も付いていく。
「ところでおじさん。一つ言っておくけど、モデルやAVのスカウトだったらお断りよ。
それから誰かを殺せとか言うのもね」
「そんなのじゃありませんよ。安心してください」
 男は顔だけ後ろに向けて微笑んだ。
「なら、いいけど」
 と真由美は言うが、これはますますもって怪しい。
(何なんだ、このおっさん。それに勇者になりませんかって、一体……?)
 康弘は考えたが、さっぱりわからなかった。
 繁華街を少し抜けたところで、男は止まった。
 目の前には、今にもつぶれそうで、一体何を売っているのかわからない薄暗い小さな店がある。
「さあ、中へどうぞ」
 男はそう言って促した。
「ここに入るの……?」
 さすがに真由美は嫌そうに言った。
「やっぱりやめましょうよ」
 と康弘が言うが、
「なぁに、中は綺麗ですよ」
 男はドアを開けた。
「へえ……」
 中を覗いて、真由美は言った。
「確かに綺麗ね」
「そうでしょう。まあ、入ってください」
 真由美に続き、康弘も入った。
 室内はあまり広くないが、傷一つない白い壁に囲まれ、正方形の形をしていた。入り口のほかに、奥と手前にドアがある。
「それにしても……」
 中を見回し、康弘は言った。
「何もないな」
 端の方には、金属性の大きな箱が二つあり、あとは小さなテーブルがあるだけだった。
「それで、あなたはあたしたちに何をさせたいの?」
 落ち着いた様子で真由美が訊いた。
「最初に話した通り、勇者になってほしいのです」
 男は真面目な顔で言った。
「……それって、ゲームの話?」
「いいえ。……とりあえず、これに着替えて頂きませんか?」
 男は二つの箱を指した。
 中を見てみると、全身を覆うタイツのような黒いプロテクトスーツに、ヘルメットとブーツ、それに蠅叩きがあった。
「何だこりゃ?」
 康弘が眉をひそめる。
「……もう少し説明してくれないかしら。じゃなきゃ、あなたの言うことは聞けないわ」
「……すいません。できないんです」
 真由美の言葉に、男はゆっくりと頭を振った。
「できないって……どういうことよ?」
「……重要機密なんですよ。詳しいことは言えないことになっているんです」
 男は軽く頭を下げ、
「お願いできませんか? 危険なことはないと保証しますから」
「…………」
「真由美さん、やっぱり帰りましょう。この人怪しすぎますよ」
 康弘が男にも聞こえるように言う。
「……まあ、そう思われるのも仕方ありませんが……私には信じてほしいとしか言えません」
 男はそれ以上説明しようとはしなかった。
「こんなこと言って、いいって言った途端に態度を変えることだってあるじゃないですか」
 康弘がしつこく言う。
「うるさいわよ。ちょっと黙ってて」
 真由美に睨まれ、康弘はしまったと思った。(このままでは、嫌われてしまう!)
 彼は慌てて態度を変えた。
「いやあ、やっぱり人を信じるのって大切ですよね。怪しいからって最初から疑っちゃいけませんよね。ねえ、真由美さん?」
「…………」
 何て調子のいい奴、と真由美は呆れた。
 それはともかく。
「まあ、いいでしょう。協力してあげるわ」
「ありがとうございます」
 男は微笑んだ。
「ではとりあえず、名前と年齢を教えてくれますか?」
「藤村真由美。十七歳よ」
「……し、仕方ない……」
 彼女がするのなら、付き合わないわけにはいかない。
「僕は三井康弘。同じく十七歳」
「十七歳ということは……高校生ですか」
「そうよ。別に問題ないんでしょ?」
「ええ。そのくらいの年齢なら」
「−−で、あなたの名前は?」
「ああ、これは失礼」
 と男は笑い、
「私は津島武士。年齢は秘密ということにしておいてください」
「ふ〜ん。ま、いいけど……」
 と真由美。
 それから男は手前のドアを指し、
「こちらが更衣室になっていますので、着替えてください」
「こ、更衣室……。き、着替え……!?」
 と康弘がまた妄想を始める前に、
「言っておくけど、順番よ。一緒じゃないの」
 真由美は釘をさしておいた。
「ううっ……」
 康弘は泣きそうな顔になる。
「……そんな顔してないで、さっさと着替えてきてよ」
「えっ? ぼ、僕からですか?」
「当然でしょ? それとも三井くん、自分で言ってた怪しいことを、あたしからやらせるつもりかしら?」
「す、すぐにいきます」
 康弘は慌てて更衣室に入った。
「あの、着替え忘れてますけど」
 男が声をかけたと同時に、自分でも気付いたのか、康弘は出てきた。
「まったく、慌て者ね」
「す、すいません」
 真由美に謝りながら、康弘は箱の中身を取り出した。
 そして更衣室に入ろうとしたとき、男が注意した。
「そのスーツは下着になって着てくださいね。それ以上は身に付けないように」
「……へ〜い」
 と気のない返事をして、彼は更衣室に入った。

 それからしばらくして、康弘が出てきた
 黒いタイツにヘルメット、ブーツに蠅叩きという姿は、やはり違和感があった。
「はっきりいって、変ね」
 真由美はきっぱりと言った。
「何でこんな格好しなきゃいけないわけ?」
「もうすぐわかりますよ。さあ、藤村さんも着替えてください」
「……仕方ないわね〜」
 あからさまに嫌そうな顔をしながら、真由美は更衣室に入った。と思ったらすぐにドアを開け、
「三井くん、覗いたら絶好だからね」
「の、覗きませんよっ」
 本当は津島に覗くことができないか訊こうとしていたので、慌てて否定した。
「そう。頑張ってね」
 真由美はにっこり笑ってドアを閉めた。
 もちろん、「頑張って」とは覗きたくなる衝動に耐えてね、ということだろう。
 結構つらいが、絶好されては元も子もないので、康弘は頑張って耐えた。
 やがて真由美が出てくると、津島は二人に二つずつの指輪を渡した。
「この指輪を、それぞれ両手の中指にはめてください」
「……何よ、くれるの?」
「いえ。後で返していただきます。それは勇者のお守りだと思ってください」
「……お守りねえ……」
 真由美はそういうのは信じていないのだが、おそらく必要なものなのだろうと思い、指輪をはめた。
「ああっ!」
 と康弘が声を上げた。
「真由美さん、せっかく指輪の交換をしようと思ったのに、もうはめちゃったんですかぁ……」
「…………」
 こいつバカ? と真由美は思ったが、何とか口に出さずにすんだ。……危ないところだったが。
「い、いいからはやくはめちゃいなさい」
「……残念だなあ……」
 とぶつぶつ言いながら、康弘は両手の中指に指輪をはめた。
「一つ注意しておきますが、私がいいというまで、身に付けたものは決してはずしてはいけませんよ」
「……どうして?」
「どうしてもです。お二人ともこちらへどうぞ」
 津島は奥のドアを開いた。中は真っ暗で、何があるのかさっぱりわからない。
「ちょ、ちょっと、何なのよあの部屋は!?
 あたしたちに何をさせる気なの!?」
「ま、まさか殺す気じゃ……!?」
「……それじゃ意味ないでしょ」
 真由美はため息をつく。
「ですから、何度も言っているように、あなたたちには勇者になってもらいます」
 と津島が言う。
「どうやって勇者をやるっていうのよ?」
「この部屋に入ればわかります。さあ、どうぞ」
 津島は中へと促す。
「……いまさらだけど、本当に怪しいわね」
「だから言ったのに……」
 と康弘。
「……まあ、せっかくこんな格好までしたんだし、思い切って入りましょう」
「……気乗りしませんが、真由美さんがそう言うなら……」
 二人はドアの前に立った。
「ねえ、しつこく訊くけど、本当の本当に危険はないんでしょうね?」
「大丈夫です。ただし中に入ったら、あなたたちは勇者です。きちんとそれらしく行動してくださいね」
「えっ、どういうこと? この中に何かあるの?」
「行けばわかります」
 津島は二人の背中を押した。
「きゃっ」
「うわっ」
 中に入り込んだ途端、くらっと立ち眩みがした。目の前が真っ暗になるが、すぐに治まった。
「な、何いまの……?」
「何で急に……?」
 どうやら二人ともなったらしかった。
 しかし、そんなことよりもっと驚くことがあった。
「こ、ここは……!?」
 地面があり空があり、家が並んでいる。
 それもあきらかに日本のものではない。
 外国ーーおそらくは西洋の、数百年は昔の村のようだった。
「い、一体……」
 二人はしばらく呆然としていた。

真由美は地面を触ってみた。
 手触りからして、どうやら本物のようだった。
「ホログラフじゃないわけね……」
 新しい体感ゲームという線に賭けたのだが……。
「い、一体どういうことなんでしょう、真由美さん!?」
 康弘は混乱している。
「あたしにわかるわけないでしょ」
 そう言う真由美も焦っていた。
(勇者になれって……)
 ひょっとして、ここでなるのだろうか。
 勇者になるなら敵がいるはずである。
 つまり、その敵を倒さないと帰れないということだ。
(やっぱり強いんだろうなぁ……)
 真由美は不安になった。
 戦うにしても、自分たちはこんな格好なのである。
「ま、真由美さ〜ん! 僕たちどうしたらいいんでしょう!?」
 康弘は一人でうるさかった。
「…………」
 真由美は放っておきたい衝動にかられたが、ここは一人でも味方が多いほうがいい。
「とりあえず、あそこの村に行きましょう。少しでも情報を聞き出すのよ」
「そ、そうですね」
 二人は歩きだした。
(それにしても、一瞬でこんなところに移動させるなんて……どうやったのかしら……)
 真由美は考えたが、さっぱりわからなかったので、考えるのをやめた。
 村のすぐそばにまで近付いたとき、十歳くらいの男の子が、二人をじっと見つめていた。
(うっ……この格好だからな〜……)
 真由美は恥ずかしかったが、康弘は全く気にする様子なく、男の子に近付いていった。
「ちょっと君、訊きたいんだけど」
「…………」
 男の子は康弘を見つめたまま、口を開かない。
 それを怖がっていると思ったのか、
「大丈夫だよ、安心して。僕たちは決して怪しい者じゃないから」
 と彼は全く説得力のないことを言った。
(おいおい)
 真由美は心の中でツッコみをいれる。
「あ、あの、もしかして−−」
 男の子が興奮した口調で訊いた。
「あなたたちは勇者様なのですか!?」
「…………?」
 二人は顔を見合わせ、とりあえず「そうだ」と頷いた。
 すると男の子は満面に笑みを浮かべ、
「や、やっぱりそうなんですね! 俺、みんなに知らせてきます!]
 と村の方へ駆けて行った。
「……ど、どうしたんだろう、あの子……・」 康弘が呟く。
「う〜ん、あの様子からして……。あの村は悪者に襲われていて、どこからともなくやってきた勇者が助けてくれるという伝説でもあるらしいわね」
「ま、真由美さん、あれだけでよくそこまで推測できますね……」
「まぁ、パターンよね」
 二人がそんな会話をしていると、村の方からドドド……と地響きをたてて、一気に五十人程の人が駆けて来た。
「なっ、何よ何よ、大勢で」
 真由美が後退る。
 が、彼女には構わず、彼らは二人の前で立ち止まると、「うおおおっ!」と歓声を上げた。
「何なんだ何なんだ!」
 喚く康弘。
 やがて歓声はやみ、偉そうな初老の男が前に出たきた。
「……間違いない。その姿、あなたたちが勇者様ですな?」
「ま、まあね」
 と真由美は答えた。
「い、いいんですか、真由美さん? そんないい加減なこと言って」
 康弘がこっそり囁く。
「いいのよ。津島さんが勇者になれって言ったでしょ? 三井くんもなりきって」
「そ、そうですねっ」
 康弘は納得し、腰に手を当て胸を張り、奇声のような笑いを発した。
「うーひゃひゃひゃひゃっ! その通り! 私こそが偉大なる勇者だ! さあ敬え! 跪けぇ!」
 彼は非常に順応性が高いようだ。が、しかし。
(やりすぎよ、バカっ!)
 真由美は青ざめた。
 いくら勇者だろうが、高慢な態度をとってはいけないのだ。
 勇者というのは微妙な立場であり、一歩間違えれば傍迷惑な存在なのである。
 しかも自分たちはまだ何もしていないのだから、てっきり村人たちが怒りだすと思ったのだが……。
「ははぁーっ、勇者様ーっ」
 村人たちは一斉に跪いた。
「……嘘……」
 真由美は呟く。
 そこまでして勇者が必要なのだろうか。
(……大して役に立つとは思えないけど……) 仮に役に立つとしたら、せいぜい生け贄くらいだろう。……やりたくはないが。
「はぁーっはっはっはっ! 苦しゅうないぞ」 康弘はますます調子に乗っている。
「やめなさい。それより、あたしたちにどうしてほしいの?」
「え、ええ。実は……」
 と初老の男が言う。
 ちなみに彼は村長だそうだ。
「このところ−−というか、一か月程前から、大事な畑を荒らす連中が現れたんです。そいつらは世界征服を狙っていて、付近の村も被害に遭っているんです」
「な、何かせこい敵ね……。まあ、食料を狙うあたり、頭はいいみたいだけど……」
「どういうことですか?」
 康弘が訊く。
「食べ物がないと、飢え死にしちゃうでしょ?」
「そうですね」
「そんなとき、『我らに従うなら食べ物をやろう』なんて言われたら、三井くんどうする?」
「そりゃあ、従うしかないですよねえ……って、あ、なるほど」
 ぽんと手を打つ康弘。
「そうなんです。私たち非常に困っているんです。従ったなら食べ物には困りませんが、その代わり奴らに奴隷扱いされることでしょう」
 と村長が涙を流しながら言う。
「もう少ししか食料が残っていないんです。お願いです、勇者様。助けてください」
「ちょ、ちょっと、泣かないでよ」
 真由美はうざったそうにしながら、
「……でもさ、あんたたち抵抗とかしたの?」「もちろんしましたとも!」
 村長は握り拳をつくって強調する。
「敵一人に対して村の者全員で攻撃したり、甘い匂いでおびき出す罠を作ったりしましたが、奴らは強い上にとてつもなくしぶといんです!」
「……そんなに強いわけ?」
 真由美の頬を冷や汗が伝う。
「ええ。幸い怪我人だけで、死人はいませんが……」
「ふ〜ん……。でも、そこまで強い連中相手に、あたしたちがどうこうできるとは思えないけど……」
 つい本音を口にしてしまった真由美に、村長はそれが絶対であるかのように言った。
「いいえ! 勇者様なら勝てます! 勇者様は特別なのです! 世の中はそういう法則で成り立っているのです!」
「せ、迫ってこないでよ……」
 真由美は両手を突き出して防御する。
「うけけけけっ! そうまで言われちゃ仕方ない。勇者様に任せておけ!」
 また調子に乗った康弘が、不気味な笑い声を上げながら、そう宣言した。
「おおっ! ありがとうございます、勇者様!」
 村人五十人が跪いて感謝する。
「だあっ、何勝手なこと言ってんのよ! どうやって敵を倒す気よっ!」
 真由美が小声で怒鳴った。
「考えてませんが……何とかなりますよ。何たって、僕たちは勇者なんですから」
 康弘は至ってお気楽だった。
(こ、こいつは〜……!)
 殴ってやりたくなったが、それどころではなくなった。
「村長、奴らです! 奴らがやってきました!」
 後ろの方からそんな声が上がる。
「ゆ、勇者様、さっそく出番ですぞ! 我々は隠れていますので、後は頼みます! では!」
 村長たちは来たときと同じように、ドドド……と地響きを立てて去って行った。
「何て素早い連中……」
 真由美が呆れる。
「さあ、行きましょう真由美さん。ここで敵を倒せば、僕たちは本当の勇者です」
 康弘が蠅叩きを掲げて格好つける。
「……それはいいけど、どうやって倒すの? あたしたち、武器……とも言えない、こんな蠅叩きしか持っていないのよ?」
「な、何とかなりますよ」
「本当に、心の底からそう思ってる?]
[うっ……、ほ、本当は不安なんですよ〜、真由美さ〜ん! どうすればいいんでしょう〜っ!?」
 彼は目に涙をためていた。
 訊かなきゃよかったかな、と思いながら真由美は言った。
「とりあえず、様子を見にいきましょう。それから何か作戦を考えればいいわ」
「そ、そうですね。さすが真由美さん、頼りになります」
 男が頼ってどうする。真由美はそう思ったが、口に出すのはやめた。
 これ以上彼の自信を削ぐことは言わないほうがいいだろう。
 それでも一応、真由美は「しっかりしてよね」とだけ言ったが、康弘には全く応えていないようだった。
「もちろんですよ、あっはっはっ」
 ともう笑っている。
 真由美は小さなため息をつき、彼と村の奥へと向かった。

 畑の方で、三つの人影があった。
「……あれか……」
 近くの家の陰から、康弘が目を凝らして見る。距離があるので、はっきりとはわからない。
 人影は残り少ない成長中の野菜を掘り返しているようだった。
「でも、何か変ね」
 真由美が眉をひそめた。
「あれって人間かしら?」
「ええっ? じゃあ、化け物なんでしょうか?」
 康弘が不安そうな顔をする。
「さあね……」
 正直彼女も不安だった。
 そのとき、人影がこちらを振り向いた。
「げっ」
 二人は顔を引っ込め、また恐る恐る覗いてみた。
 三つの影は、人並みはずれた素早い動きで駆けて来て、既に目前まで迫っていた。
「ひええっ」
 逃げる暇はなかった。
 彼らが立ち止まる気配がし、真由美は思わずつむった目を開けてみた。
「……あ……?」
 影の正体を見た彼女は、口をぽかんと開け、顔を引きつらせた。
 それから笑いが込み上げてきて、思わず吹き出してしまう。
「ぷっ……あ、あはっ、あはっ、あははははっ! 何、この人たち〜っ!?」
「ま、真由美さん!?」
 突然笑いだした彼女につられて、康弘も目の前の三人を見上げると、やはり笑いだした。
「だははははっ! 何じゃこいつら〜っ!」
 笑いの対象である三人は、山賊風の男たちだった。もちろん、ただの男たちではない。何と彼らは、ゴキブリの着ぐるみを着ていた。意味があるとは思えない。……といっても、二人とも他人を笑える格好はしていないが。
「ええいっ! 笑うなぁっ!」
 真ん中のゴキブリ男が怒鳴った。
「あ、ちゃんとしゃべれるんだ」
 と真由美。恐怖はすっかり消えている。
「当たり前だ! ……それより、お前らは勇者だな。とうとう来たか」
「……ということは……、やっぱり勇者の伝説があるわけだ?」
「ああ。世界を征服しようとする者が現れたとき、それを阻むおかしな格好をした勇者が現れると……って、何で説明せねばならんのだ! そんなことより、お前らなんぞに我らゴキブリ革命軍の邪魔はさせんぞ!」
「ぷっ……ゴ、ゴキブリ革命軍……」
 二人が声を押し殺して笑う。
「だから笑うなっ! 我らには崇高なる使命があるのだっ!」
「使命って?」
 康弘が訊く。
「それは秘密だ」
「きっと大したことないんだわ」
 ぼそっと呟いた真由美の言葉を聞き止め、ゴキブリ男は怒った。
「そんなことはない! 我らの使命はな……」
「乗るな。挑発だ」
 右のゴキブリ男がいさめた。
「その通り。こんな奴ら、さっさと片付けてしまえばいい」
 と左のゴキブリ男が言う。
「そ、そうだな。覚悟しろ、勇者!」
「ど、どうしましょう、真由美さん!?」
 焦る康弘。
「う〜ん……」
 真由美はちらりと後ろに目を向けた。
 家の陰や窓から、村人たちがこちらの様子を窺っている。
「康弘くん、ちょっと行ってあの人たち呼んできて」
「えっ? ど、どうしてですか?」
「いいから、早く!」
「は、はいぃっ!」
 疑問に思う暇も与えられず、康弘は彼女の命令通りに動かされた。
 村の中を走り回って行く。
「お願いだから、ちょっとだけ待っててね」
「ふん、何をするつもりかしらんが、まあいい。少しだけ待ってやろう」
 真由美のお願いに、ゴキブリ男たちは、親切に待っていてくれた。

 やがて、嫌そうながらも、ぞろぞろと村人たちがやって来た。
「い、一体何の用でしょうか、勇者様……」
 村長が訊ねる。
「いや、ちょっとね。村人全員で、あのゴキブリ男たちと戦ってみてほしいのよ」
「えええっ!?」
 真由美の言葉に、当然驚く村人たち。
「そんな、勇者様! 前にそうやって負けたって言ったじゃないですか!」
 村長が抗議する。
「うん。聞いたけど、実際見て戦力を計りたいのよ」
「う〜……しかし、それは普通勇者様の役目では?」
「あたしたち、初心者だから」
 真由美は悪びれずにそう言った。
「それが嫌なら帰っちゃうけど、どうする?」
「そ、そんな〜……あんまりですぅ〜!」
 村人たちは泣きそうな顔になっている。
(う〜ん……何か、嫌な勇者だな……)
 端から見ていて、康弘はそう思った。
(これで敵を倒せなかったら、村人たちは怒りまくるだろうな〜……)
 それが少し恐かった。
「し、仕方ありません」
 しばらく苦悩してから、村長は口を開いた。
「こうなったら我々が先に戦いましょう! みんな、覚悟はいいな!?」
「お、おおー……」
 嫌そうに、本当に嫌そうに、村人たちは返事をした。
「みんな、頑張ってー」
 真由美が明るく応援する。
 しかしそれとは反対に、村人たちの表情は暗かった。……まあ、当然なのだが。
「ゴキブリ男さんたち、もういいわよ」
「……ようやく終わったか……」
 彼ら三人は立ち上がって、大きな欠伸をした。
「きちんと待っててくれるなんて、何ていい人たちなんでしょう」
「自分で待つと言ったからには待つさ……」
 ちょっと後悔しながら、左のゴキブリ男が言った。
「ふ〜ん。それよりみんな、準備はいい? 一斉攻撃よっ!」
 真由美の合図により、村人全五十人、小さな子供から老人までが、三人のゴキブリ男を取り囲んだ。
「……こっそり逃げましょうか、真由美さん?」
「危ないようだったらね」
 二人がこそこそ話し合う。
「こら、勇者! 逃げる相談してんじゃねえぞ!」
 唐突なゴキブリ男の叫び声に、康弘は思わず「ギクッ!」と言ってしまった。
「『ギクッ』…?」
 村人たちの視線が彼に集中する。
「い、いや、そ、その……ギ、ギックリ腰に……」
 焦った康弘は苦しすぎる言い訳をした。
 視線が冷たいものになる。
「バ、バカねっ! こんなときにギックリ腰になるなんて、ホント、勇者って大変なんだから!」
 真由美が苦しい言い訳の助長をし、彼の腰を揉んでやった。
 大変も何も、まだ何もしていない初心者なのでは? と村人たちに思われる前に、彼女は叫んだ。
「みんな、彼の腰が治るまで、何とか時間をかせいで!」
「お、おおー……?」
 とまどいながらも、村人たちは何とか返事をした。
「ふーっ、何とかごまかせたはね……」
「いやあ、助かりました、真由美さん」
「ったく、あんなのはったりに決まってるんだから、いちいち反応しないでよね」
「すいません」
「まあいいわ。それより戦いは……」
 と視線を向けると、丁度始まったところだった。

村人三人が、一人のゴキブリ男に同時にパンチを放つ。
 普通ならかわせるものではないが、しかし。 彼らの動きは、まるでビデオのスロー再生のように、もっと言えば、亀やナメクジのように遅かった。
 それに比べてゴキブリ男は、格好の割りに普通の動きで、あっさり三人にカウンターを決めた。
「ぐええっ」
 とやられた三人は、これは普通に吹っ飛ぶ。 彼らだけではなく、見ていると、どうやらどの村人もそういう動きをしているようだった。
「……何、あれ……? ふざけてるのかしら……?」
「う〜ん……そういう風には見えませんけどねえ……」
 二人は首を傾げている。
 そうしている間にも、
「うぎゃっ」
「ほげっ」
「あんぎゃー」
 と、悲鳴はとぎれない。
「こう圧倒的だと、かえって爽快ですね、真由美さん」
「そうね……」
 二人はさわやかに状況を見ていた。
 やられる村人にとっては、悪魔のようである。
 そして、たったの二分で、村人五十人は地面に倒れ伏した。
 気絶している者から怪我している者まで、様々である。
「あ、後は頼んだぞ……」
 村長はそう言って気絶した。
「さあ、次はお前ら勇者の番だ」
 ゴキブリ男たちがやって来る。
「ど、どうしましょう、真由美さん。あいつら結構強いみたいですよ」
「じゃあ、三井くん囮になってよ。その隙にあたし一人で逃げるから」
「ああっ、それはあんまりじゃないでしょうかっ」
「何言ってんの。男が女を守んないでどうするのよ」
「そ、それはそうですが……」
「ふっふっふっ……、逃げられはせんぞ」
 話している間に、ゴキブリ男たちは二人のすぐ目の前にまで来ていた。
 これでは逃げられない。
「覚悟しな。村人と違って、勇者は殺さねばならん」
「勇者となったことを後悔するがいい」
「ひえええっ」
 格好は間抜けだが、顔は山賊風なので、はっきり言って怖い。
(ああ……死ぬ前に……死ぬ前に一度……じゃ満足できないけど……真由美さんとエッチなことがしたかった……)
 康弘は涙を流して妄想した。
 しかし、隣に本人がいることに気付く。
「ま、真由美さーんっ!」
 彼は思わず抱き付こうとしたが、
「また変な妄想してたわねっ!」
 彼女の容赦のない蹴りが、至近距離で顔に入った。
「ぐげっ!」
 顔がつぶれ、鼻血を出して吹き飛ぶ−−ところだったが、ヘルメットをしていたのが幸いして、気絶ですんだ。
「あ、しまった」
 真由美は呟く。
 気絶したということは、使いものにならないということである。
 つまり、攻撃されたとき、盾にできない。
「む、むごいことを……」
「ああ。今の蹴りはすごかった……」
「仲間にあんなことをするとは……」
 ゴキブリ男たちが冷や汗混じりに言う。
「う、うるさいわねっ! あんたたちが悪いのよっ!」
「……俺たちのせいか……?」
「いや、違うだろう」
「あの女、さっきから見てると随分自分勝手な奴みたいだぞ」
「きぃぃっ!」
 真由美は怒った。
 康弘の持っていた蠅叩きを取り上げ、両手に構えた。
 そして、右にいるゴキブリ男に飛び蹴りを放つ。
「てえいっ!」
「うおおっ!」
 飛び蹴りは胸に入り、ゴキブリ男はバランスを崩して、背中から倒れ込んだ。
 真由美は素早く頭の方に回り込み、二つの蠅叩きで叩きまくった。
 バシバシバシバシバシバシバシバシッ!
「うぎゃぁぁぁぁぁぁっ!」
 悲鳴がなくなるまで叩き続けると、真由美はハアハアいいながら彼から離れた。
 他の二人のゴキブリ男はしばらく呆然としていたが、はっと我にかえるとやられた彼に駆け寄った。
「し、しっかりしろ!」
「大丈夫か!?」
 だが、彼はぴくりとも動かない。
「し、死んでる……」
「……えっ?」
 ゴキブリ男の言葉に、真由美は耳を疑った。
「ゆ、勇者め、よくも……」
 仲間をやられた怒りに、二人は彼女を睨み付ける。
「う、嘘……な、何であれだけで死んじゃうのよっ! ちょっと殴ってやるだけのつもりだったのに……」
 真由美は愕然とした。
(あたし……人殺しになっちゃったの!? そんな……こんなことで犯罪者になるなんて……あたしの輝かしい普通の経歴に傷が……)
 膝をついてがっくりとうなだれていると、突然ゴキブリ男の死体から、もくもくと煙が吹き出してきた。
「な、何?」
 真由美も、二人のゴキブリ男も目を見開く。 煙はすっかり死体を覆ったかと思うと、あっと言う間に消えてしまった。
 あとに残ったのは、『ゴキブリ男』ではなく、『ゴキブリ』の死体だった。
 人間も着ぐるみもなく、ただ昆虫のゴキブリだけがあるのである。
「えっ……? ど、どうなってるの……?」
 混乱する真由美だったが、頭の中で整理がついてきた。
「そっか……、魔法みたいなもんね。それで適当なものの姿を変えて、自分の兵にしているのね。あんたたちのボスは」
 よくあるパターンである。
「……半分は当たっている。たしかに我々は姿を変えられた者だ。だが、決して適当に選ばれたわけではない」
「……どういうこと?」
 真由美は眉をひそめる。
「これ以上話す必要はない。仲間の仇、とらせてもらう!」
 二人のゴキブリ男は、真由美を挟み込むように移動した。
(同時に攻撃されたらまずい……。ああ、こんなときに三井くんが起きてたら、迷わず盾にするのに……)
 彼女はちらりと康弘を見たが、まだ目が覚める気配はなかった。
(ったく……役に立たないんだから……)
 仕方なく蠅叩きを構えると、両方から同時に向かって来た。
 一度に対処はできない。
 真由美は寸前で前に飛び出してかわした。「うわっ」
「ぐぅっ」
 ゴキブリ男たちは反応しきれず、お互いに激突してしまった。
(こいつら……結構鈍かったりして……)
 真由美はまだ彼らが動きださないうちに、蠅叩きを両方左手に持ち替えて素早く近付いた。そして着ぐるみの頭から生えている触覚を引っこ抜いてしまった。
 もし彼らが昆虫の姿を変えた人間だとしても、触覚は大事なものだから何かあるかもと、自分でも半信半疑でやったのだが。
 効果は絶大だったようだ。
 もっともすぐに暴れだしたので、一人分しかできなかったが。
「ぐわあああっ!」
「し、しっかりするんだ!」
 頭を抱えて苦しむ彼に、もう片方が支えてやる。
「……ついやっちゃったけど、まさかこんなに効くとは……」
 このことから推測するに、着ぐるみと体の感覚は同調しているらしい。
「勇者め、よくも……!」
 頭を抱えている彼を寝かせ、無事な方のゴキブリ男は真由美に向かって来る。
「あっ……」
 驚く真由美だったが、すぐに途中に「あれ」があることに気付く。
 怒りに我を忘れているゴキブリ男には目に入っていない。
「ちょっと、危ないわよ」
「何いっ!?」
 親切に教えてあげたが、気付くのが遅かった。
「どわあああっ!」
 彼は真由美の予想通り、気絶して転がっている康弘につまずいてしまい、大地に顔面を強打した。
「痛そう……手で支えればいいのに……」
 きっと着ぐるみが邪魔で、思うように動かせなかったのだろう。
「かわいそうに」
 呟きながら、彼女はゴキブリ男に近付いた。
「うぐぐっ……」
 顔を押さえながら頭を上げようとする彼に、真由美は容赦なく蠅叩きで顔を叩き上げた。
 強烈な一打だ。
「うぎゃっ!」
 ゴキブリ男は悲鳴を上げてひっくり返る。
「さ〜て、止めをさしてあげようかしら」
 真由美は楽しそうな笑みを浮かべた。
「ま、待て! お前、勇者のくせに慈悲というものはないのか!?」
 焦るゴキブリ男だったが、しかし。
 彼女は同情を込めて言った。
「残念ねぇ。勇者だとか、そんなの関係ないの。あたし、虫って大っ嫌いだから。この世から滅ぼしてやりたいくらいよ」
「なっ……」
「そういうわけだから……さようなら!」
 バシバシバシバシバシバシバシバシッ!
「うぎゃぁぁぁぁぁぁっ!」
 ゴキブリ男の絶叫が響き渡り−−彼はこの世を去った。
「ああっ、これってストレス解消になるわ!」
 真由美はすっきりした。
「残るは……」
 視線を向けると、触覚を取られたゴキブリ男は逃げようとしたが、感覚がおかしくなっているのか、ふらふらしている。
「あなただけよっ!」
 真由美は駆け寄り、足を引っ掛けて転ばせた。
「た、頼む! 助けてくれっ!」
 ゴキブリ男は命乞いをしたが、
「駄目よ。今までさんざん悪いことしたんでしょ?」
「か、改心しますぅっ!」
「信用できません」
 真由美は蠅叩き攻撃を食らわせた。
 バシバシバシバシバシバシバシバシッ!
「お、鬼だぁぁぁっ!」
 
 こうして、最後のゴキブリ男も絶命した。
「ったく、誰が鬼よ。失礼ね」
 死体になったゴキブリを見て真由美が言うと、丁度康弘が目を覚ました。
「おや、どうしました、真由美さん?」
「……あなたねぇ……肝心なときに役に立たないんだから……」
 彼女は呆れてため息をついた。
「ええ? 僕が、何かお役に立てなかったんでしょうか!?]
 康弘が詰め寄ろうとするが、真由美は足を引っ掛けて転ばせた。
「い、痛い……。何するんですか、真由美さん……」
「別に。それより、村の人たちを起こしにいきましょう」
「は、はあ……」
 と頷いた康弘だったが、
(や、やはり何か嫌われることをしたのだろうか!? こ、これはまずいぞ!)
 何か好かれる方法がないだろうか。
 彼は考えた。
「そうだ、真由美さん」
「何よ?」
「キスしませんか?」
 バシンッ!
 有無をいわさず、彼の顔は二つの蠅叩きで挟み込まれた。
 網目の跡がくっきりと付けられている。
「今度くだらないこと言ったら、こんなもんじゃすまないわよ」
「す、すいませ〜ん……」
 康弘は顔をさすりながら謝った。
(し、しまった〜……つい自分のやりたいことを口にしてしまった〜。でも、『エッチしませんか?』って言わなくてよかった……絶対殺されてる……いや、意外と『いいわよ』とか言ったりして……)
 彼はにやにやと不気味な笑みを浮かべている。
(……また妄想してるわね……こりない奴……)
 真由美は呆れ疲れてしまった。

 村人を全員起こし、ゴキブリ男を倒したと報告すると、皆は歓声を上げた。
「おおっ、さすが勇者様っ!」
「奇跡だ……」
「信じてよかった……」
「私たちが戦っている間に、残り少ない食料を持って逃げるのではないかと疑ってしまいました。申し訳ない……」
 少々気になる言葉もあったが、褒められて悪い気はしない。
「まあ、このくらい勇者として当然よ」
「ふははははっ、勇者に任せておきたまえっ!」
 何もしていない康弘が、大きく胸を張って笑った。
「へへーっ」
 村人たちが頭を下げる。
「……やめなさいよ、そういうの。ところでみんなに訊きたいんだけどさ」
「何でしょうか?」
 代表して村長が出てくる。
「ゴキブリ男たちと戦ってたときだけど、どうしてあんなに動きがのろかったわけ?」
「……ああ、あれですか。私たちは、戦えるようにはできていないのですよ」
「……体でも弱いわけ?」
「まあ、そんなとこです」
「ふ〜む……」
 真由美は今一つ納得できない。
「それより、食事にしましょう。少ないですが、私たちの気持ちです」
「どうぞ」
 と食事係が二人の前に皿を置いた。
「……これは何?」
「蒸し芋です」
「……蒸し芋……」
 長い間苦しめられた敵を倒した礼がこれだろうか。……まあ、食料が少ないというのだから、我慢しようと真由美は思った。
「ほほう……蒸し芋か……。結構好きなんだよな……」
 康弘は箸を手にして呟いた。
「では、いただきます」
 と食べようとしたが、彼はヘルメットが邪魔なことに気付いた。
「ははは……ヘルメットをしたまま食事はできないよな」
 そう言って康弘が頭に手をやったとき、
「どうわああああっ!」
 彼は突然後ろにごろごろ転がりだした。
 どう見ても自分の意思でやっているようには見えない。
「な、何々、どうしたの!?」
 驚く真由美や村人たちには構わず、彼はそのまま家の外に出て行ってしまった。
「か、彼は一体……食事前の運動でしょうか?」
 呑気なことを言う村長。
「ごめん、あたしも行くわ! じゃあね!」
 真由美は後を追いかけた。
「おお、勇者様は忙しいですな」
 村長の言葉を聞きながら、真由美は家を飛び出した。
(好きで忙しいわけじゃないのよ。こんなとこで一人になったら不安じゃないの!)
 何の頼りにもならないが、見知らぬ世界で知人がいるのといないのとは大違いである。
 だが、それはともかく。
「あ、あれ……?」
 家を出た途端、また立ち暗みがした。
 目の前が真っ暗になる。
 気が付くと、真由美は正方形の部屋の中にいた。
 隣には康弘が、正面には津島がいる。
「困りますな。身に付けたものははずしてはいけないと言いましたのに……」
 津島は小さくため息を付いて言った。
「まあ、丁度ファーストステージをクリアしたところだったからよかったですが……」
「ちょ、ちょっと、どういうことか説明してよっ!」
 真由美は怒鳴った。
「そうですね。ですがその前に、二人とも着替えてきてください。今日はこれで終わりですから」
「……わかったわ」
 真由美と康弘は、順番に更衣室に入って着替えた。
 それが終わると、津島はお茶を用意して、二人をテーブルに付かせた。
「まあ、説明と言いましても、あまり話すわけにはいかないんですよ」
 と津島は言った。
「ただ、最初に話した通り、危険なことはありません。危なくなれば、さっきのように引き離します。ですから、お二人にはあと四回程ここに通ってきてほしいのです」
「……何だよ、それ。やっぱり怪しい組織か何かなんだろう!?」
 康弘が津島を見据えて言うが、彼は涼しい顔でかわした。
「お答えできませんね。嫌だと言うのなら、もう来なくても結構ですよ。あなたたち次第です」
「……どうします、真由美さん?」
「いいじゃないの、面白かったし。ストレス解消にもなるから、あたしはまた来るわ」
 真由美はお茶を飲みながら答えた。
 そして康弘のほうを見て言う。
「あなたはどうするの?」
「うっ……」
 本当はこういうことに関わりたくなかったが、彼女が行くというのなら、自分も行くしかない。
 しかも、もしかしてこれはチャンスなのではないだろうか。
 勇者として格好いいところを見せ、彼女のハートをつかむのだ。
「もちろん、僕も行きます! 真由美さんに付いて行きます!」
「……そう。足手纏いにはならないでね」
「僕がいつ足手纏いになったというんです?」
「…………で、いつ来ればいいの?」
 自覚のない彼は無視して、真由美は津島に訊ねた。
「来週の同じ時間……一時ぐらいでいいですよ」
「そう。でも津島さん、今は訊かないけど、いつかは教えてよね」
「……まあ、考えておきましょう」
「一秒考えてだめって言うのはなしよ」
「わかっています」
 真由美は納得したように頷き、
「じゃあ、今日の分のお金もらいましょうか?」
「えっ……?」
「えっ……じゃなくて、お金よ、お金。約束ですからね。五万円きっちり払ってもらうわよ」
「ああ……。それは最後に払いましょう。別に今すぐ必要なわけではないでしょう?」
「まあ、そうだけど……。だますつもりじゃないでしょうね?」
「そんなことしませんよ。……ちなみに、五日で五万円ですからね」
「ええ〜? 何それ、ずるい!」
「それでも一時間程度で一万円ですよ? 充分法外だと思いますが」
「……わかったわ。三井くん、帰りましょう」「はいっ」
 二人はこの謎の小さな店から出て行った。 
「それにしても真由美さん、あそこは一体何なんでしょうねえ?」
 最寄りの駅に向かって二人で歩いていると、あふれ出す疑問に我慢できなくなったのか、康弘が口を開いた。
「さあねぇ」
 真由美は適当に答える。
「僕は絶対何か怪しい組織が関わってると思うんですけど」
「そんなことどうでもいいじゃない。考えたって答えはわからないわ」
「……そりゃそうなんですけどね……。真由美さんは気にならないんですか?」
「気にならないって言えば嘘になるけど。津島さんが教えてくれるのを待ちましょう」
「あいつを信用してるんですか?」
「するしかないでしょ?」
「……そうですねえ……」
 そんな会話をしていると、やがて駅が見えてきた。近くにはホテルの看板も見える。
「真由美さん」
「何よ?」
「ホテルいきませんか?」
 ズドッ!
 真由美の強烈無比なパンチが、康弘の腹にめり込んだ。
「何考えてんのよ、あんたはっ!」
「だ、だってデートの終わりにはホテルに誘うものだって……」
「雑誌に書いてたの?」
「は、はい」
 ボグッ!
 今度は蹴りが入った。
「うっ、い、痛いんですけど……真由美さん……」
 康弘は腹を押さえて呻いている。
「知らないわよ。とにかく、来週もあの店に行くからね。じゃ、さようなら」
 真由美は康弘を捨てて、駅に入って行った。
「……真由美さん……」
 康弘はにやりと笑った。
「さては照れてるな?」
 そう口にして途端、一旦は駅に入ったはずの真由美が、彼のところに走って戻って来た。
「ど、どうしたんです、真由美さん?」
 驚いた顔の康弘の前で、彼女は息を整えながら、
「言っておくけど、あたしは照れてホテルを断ったわけじゃないからね!」
「……わ、わざわざそれを言いに?」
「そうよ。勝手に変なこと想像されるのって我慢できないの。三井くんのことだから、どうせまた妄想してると思って来たのよ」
「……だって、照れてたんでしょう?」
「照れてないわよ! とにかくそういうわけだから、もう妄想しないでよね。……まあ、言うだけ無駄だとは思うけど」
 真由美は再び駅に向かった。
「……やっぱり照れてるよなあ……」
 康弘は呟いたが、もう彼女はやって来なかった。
「別に心が読めるわけじゃないみたいだな……」
 彼がそう思うのも無理はなかったが、仮にそうだとしても、もう怒り疲れてしまったことだろう。
 康弘も帰ることにした。

 それから康弘と真由美は、何度か津島の店に通うことになった。
 毎週ほぼ同じ時間に、店の奥に入り、怪しげな世界で怪しげな勇者になるのだ。
 二人はどうせ信じないだろうからと、誰にもこのことを話さなかった。話す必要もなかった。こんな面白いことを他人に教えるのは、はっきり言ってもったいない。
 津島の話だと、来るのは五回でいいそうだ。それで全ステージがクリアできるらしい。
「う〜ん……いよいよ今日で最後かあ……」
 康弘と一緒に歩きながら、真由美が呟いた。
 唐突だが、今日でファイナルステージ、五回目が終了する日だった。
「なんだかんだ言って、結構面白かったですよね」
 と康弘。
「まあ、あんたはほとんどやられてばかりだったけどね」
「え〜? そんなことないですよ。一回倒したじゃないですか。それも四天王を」
「……その一回だけね。それも思いっ切り偶然で」
「偶然も実力の内ですよ。はっはっはっ」
 康弘は得意そうに笑った。
「……よくそんな得意になれるわね」
 真由美は感心してしまう。
 そしてそのときのことを少し思い出してみた。

 先週のことだ。
 二人は(正確には真由美が)どんどん敵を倒し、ついに彼らのボス、ゴキブリ王の城にまで辿り着いた。
 そこに待ち構えていたのは、この手のお約束通り、四天王だった。しかし、なぜか一人しかいない。
 理由を訊いてみると、
「昨日食中毒にあたり、他の三人は腹を壊した」
 ということらしい。
 ちなみに彼だけ平気なのは、ゴキブリ王が隠していたお菓子をこっそり食べたのがばれ、食事抜きの罰が与えられていたためだった。
「いじきたない連中ね。さすがゴキブリだわ」
「何だと?」
 四天王(マイナス三)は、真由美の何気ない言葉に怒り、攻撃してきた。
 さすがに雑魚とは違って強かった。
 着ぐるみもごつい作りになっているだけはあり、蠅叩きでもなかなかダメージを与えられない。
「きゃっ」
 四天王(マイナス三)の攻撃をかわしていた真由美は、足をひっかけて転んでしまった。
「ふふふ……覚悟しろ、勇者」
「真由美さん、危ない!」
 康弘が彼女に詰め寄る四天王(マイナス三)に、体当たりしようと駆け出した。
 そして直前まで来たとき。
 康弘は石につまずき、頭から四天王(マイナス三)の股間に激突したのだった。
「……!」
 彼は声を出すこともできない。
 ゴキブリでも、人間型になったことで急所になったらしい。
 こうして悶絶したところを、真由美は唯一むき出しになった顔面を蠅叩きで叩きまくった。
 四天王の一人は、情けない方法であっさり死んだのだった。

「……まあ、三井くんのおかげといえばおかげなんだけど……」
「そうでしょうそうでしょう」
 康弘がうんうんと頷く。
「それはともかく、今日はゴキブリ王との対決よ。しっかり盾になってね」
 真由美はにっこり微笑んだ。
「……ど、努力しましょう……」
 と康弘は答える。
 そうだ。今日で最後なのだ。
 これが終われば、もう彼女は会ってくれないかもしれない。
 そうならないようにするために、今日は格好いいところを見せ、惚れさせねばならない。
「よーし、頑張るぞ!」
 康弘は気合いを入れた。
「あたしの邪魔はしないでね」
「……は〜い……」
 気合いが半分抜けてしまった。

 康弘と真由美は例の店に入った。
「いらっしゃいませ」
 津島が笑顔で迎える。
「さっそく着替えをどうぞ」
「ねえ、津島さん。今日こそここの秘密教えてくれるんでしょうねえ?」
 真由美が彼を見据えて訊ねた。
「……そうですね。終わったら、ということにしておいてください」
「……まあいいわ。最後だもの、楽しませてもらうわ」
「ええ。存分にどうぞ」
 二人はさっそく着替えた。
 用意が出来ると、津島は新しい蠅叩きを渡した。
「最終用の、金属性の蠅叩きです。これを使ってください」
「……ふ〜ん。それだけ強いってわけか」
 康弘は蠅叩きを触ってみた。
 重くはないが、かなり硬い。
「まあ、最終ボスですからね」
「なるほど」
「ふむ。結構使いやすいわ」
 蠅叩きをぶんぶん振り回して、真由美が言う。
「それじゃ、さっそく行きましょう」
「はい。こちらへどうぞ」
 津島は奥のドアを開けた。
 相変わらず中は真っ暗で、何も見えない。
「行くわよ、三井くん」
「はいっ」
 二人はゆっくりと中に入った。

 以前よりは軽くなったが、立ち眩みの後、真由美と康弘は巨大な城の前にいた。
「ゴキブリ王の城ね……。行くわよ!」
「はいっ!」
 二人は駆け出した。
 扉を開け、中に入る。
 どんよりとした、趣味の悪い装飾がされているが、気にはしないことにした。
 どうせゴキブリの城なのだ。
 二人は階段を見つけて、上に上がった。
 上にボスがいるというのは常識である。
「……それにしても、誰もいませんね。真由美さん」
「真っ直ぐ来いってことでしょ。上で待ち構えているんだわ」
 二人は走るのをやめた。
 ゴキブリ王に会ったときに、もう疲れていたら話しにならない。
 二人は階段を歩いて上った。
 そして、七階分ほど進んだとき。
 目の前に、三人のゴキブリ男が立っていた。 いや、よく見ると着ぐるみがごつい。
「さては、残りの四天王だなっ!?」
 康弘が指を差して訊ねた。
「ふ、ふふふ……そ、その通り……」
「わ、我らが四天王だ……」
「ゆ、勇者よ……覚悟しろ……」
 三人は腹を押さえながら、青ざめた顔で言った。
「……あんたたち……」
 真由美は小さくため息を付いた。
「まだお腹が治っていないんでしょ?」
「なっ、何をっ!」
「そっ、そんなことはな……なっ……」
「う……ま、また……」
 否定しようとする彼らだったが、急に苦しみだした。
 ろくに動けそうもない。
「ふっ……下痢してる奴なんか、相手にならんな」
 康弘が肩をすくめた。
「く、くそ……勇者め……!」
「ゆ、ゆる、許さん……!」
「こ、殺してやるぅ〜……!」
 三人は苦悶の顔で康弘と真由美に向かって来たが、動きは歩きと同じ程度だ。
「えいっ」
 二人は階段の端に移動して、足を出した。
「どわあああああっ!」
 見事に引っ掛かり、四天王の三人は下を転がっていった。
「あれじゃ相手になんないわ。次行きましょ」
「はい」
 二人はさらに階段を上がった。

 二階ほど上がるとそこで階段は切れ、今までとは雰囲気の違う部屋があった。
 夕方のように薄暗く、息が詰まりそうな、重い空気を感じる。
「……ここだな。ゴキブリ王の部屋は」
 康弘が周囲を見て呟く。
「その通りだ、勇者よ。ようこそ我が城へ」
 奥の方から、低い声が聞こえてきた。
「そこねっ!」
 真由美は声のした方へ駆け出し、そこにいた男を蠅叩きで思い切りひっぱたいた。
「ぐぎゃっ!」
 男は悲鳴を上げる。
「もう一発!」
 と蠅叩きを振り上げたとき。
「ま、待たんかっ!」
 男は真由美の腕を押さえ込んだ。
「むっ……やるわね!」
「ええいっ、話ぐらいさせんか!」
 男は手を離し、彼女から離れた。
「まったく、常識を知らん勇者め……」
「……あなたがゴキブリ王ね?」
 真由美の問いに、
「そうだ」
 と男は答えた。
 当然彼も着ぐるみを着ていた。
 すらりとしているが、表面が黒光りする、今までで一番リアルな作りだった。
 顔もなかなかの男前だ。
「ふふふ……よくぞここまで来れたものだな。まずは褒めてやろう」
「あんたの部下が弱いからよ」
「……ふっ……」
 ゴキブリ王は顔が引きつりかけたが、慌てて笑みを浮かべた。
「おかげで私の計画が台無しだよ」
「計画?」
「そう。この地を人間に変わり、我らゴキブリが支配するのだ」
「……くだらん」
「何!?」
 ゴキブリ王は眉根を寄せた。
「貴様らに我らの気持ちがわかってたまるか! 我らはずっと迫害され続けてきたのだぞ!」
「そんなことわかるわけないじゃない。迷惑だから倒してやるわ」
「そうそう。悪人は素直にやられたまえ、はっはっはっ」
 勇者の勝手な言い草に、
「どっちが悪人だ……」
 とゴキブリ王は呟いた。
「とにかく、勝負よ!」
 二人は同時に動き、左右から一斉に攻撃した。
 だが。
「ゴキブリ・スピン!」
 ゴキブリ王はその場で回転し、康弘と真由美をはじき飛ばした。
「うわっ!」
 と二人は背中を打って倒れる。
 そこをゴキブリ王は、真由美に向かって飛び込んだ。
「ゴキブリ・アタック!」
「真由美さん、危ない!」
 康弘は無理な体勢から、ゴキブリ王に体当たりした。
「ぐっ……!」
 彼はゴキブリ王とともに床に倒れ、そのまま押さえ込む。
「ま、真由美さん!」
「ナイスよ、三井くん!」
 真由美は素早く起き上がり、蠅叩きを連打する。
 バシバシバシバシッ!
 だが、ゴキブリ王にはあまり効いていないようだった。
「どけっ!」
 と康弘をはじき飛ばす。
「うわっ!」
「三井くん!」
 一応心配する真由美。
 そしてゴキブリ王を見据える。
「ちょっと、何で蠅叩きが効かないのよっ!?」
「ふっ……勇者よ。私は王だぞ。他の者と一緒にされては困るな」
「……だって、これ金属性なのよっ?」
「大して違いはあるまい?」
「…………」
 言われてみればその通りだ。
(あの中年……だましたわね……)
 最終ボス用どころか、効果すらないとは。
「ふふふ……残念だな、勇者よ。せっかくここまで来たのに悪いが、決着を付けさせてもらう」
「ええっ? まだ五分もたってないのに、もう決着付けるって言うの!?」
 真由美が不満そうに抗議する。
「私は時間の無駄が嫌いでね。貴様らにやられた部下の仇、取らせてもらおう」
 ゴキブリ王は笑みを浮かべながら、ゆっくりと両手を肩の高さまで上げた。
 何かの技を出す構えだ。
「三井くん、盾になって!」
「な、何か恐そうで嫌なんですけど……は、はいっ!」
 顔を引きつらせながらも、康弘は健気に盾になった。
「一人を犠牲にして一人を助けるというのか……? だが、無駄だ」
 ゴキブリ王は右足も上げ、そして叫んだ。
「最終奥義、ゴキブリ・ダンス!」
 シャカシャカと、彼は不気味でわけのわからない動きを始めた。
 言葉の通り、どうやら踊っているらしかった。
「な、何なの、これは!?」
「さ、さあ……」
 とまどう真由美と康弘。
 これで攻撃ができるのかわからないが、最終奥義というくらいである。
 一応蠅叩きは構えておいた。
「はあああっ!」
 ゴキブリ王の動きはますます早くなる。
 手足の先がぼやけるほどだ。

 ……そして、二分が過ぎた。
「……何か、全然攻撃してきませんね……」
「そうね……」
 康弘と真由美は、構えるのをやめていた。
 ゴキブリ王は自分の踊りに夢中になっていて、二人の方を見向きもしない。
「……どうします?」
「……どうしますって言われても……。声かけるのも何かやだし、近付くのもやだし……」
 康弘と真由美が困った顔でぼやいていると、突然ゴキブリ王がばったりと倒れた。
「な、何!?」
 驚く二人。
 ゴキブリ王はそのまま、ぴくりとも動かない。
「……し、死んだふりでしょうか……?」
「まさか? 仮にも最終ボスが、そんなせこい手を……」
 否定しかけた真由美だが、相手はゴキブリである。
「使うかもしれない……」
 そこで彼女は、康弘に調べさせようとしたのだが……。
 急に立ち眩みがした。ここに来るときと同じものだ。
(どうして……?)
 と真由美は思った。
 別に危なくもないし、何よりまだゴキブリ王を倒していないのに。
 だが彼女の意思に反して、立ち眩みが治まったときには、いつもの正方形の部屋に戻っていた。
 目の前には津島がいる。
 隣に康弘もいる。
「ちょっと津島さん、どういうこと!? 納得いかないわよっ!」
 真由美が睨み付ける。
 しかし津島は平然と、
「あなたたちは全ステージをクリアしたんですよ。ゴキブリ王を踊らせた時点で、あなたたちの勝ちなのです。彼はあれで自滅したんですよ」
「ひどいシナリオだな……」
 康弘が呟く。
「そうよ! 最後のボスは勇者にバンッとやられなきゃいけないっていう決まり知らないの?」
「……そんな決まりありませんよ」
 津島が苦笑する。
「あるのよっ! ……まあ、いまさらこんなこと言っても、やり直しは利かないだろうから諦めるとしてもよ」
「ええ〜? 諦めるんですか〜?」
「三井くんは黙ってて。せめてここの秘密くらいは教えてもらわないと、納得できないわ」
「……そうですね。教えましょうか」
 津島は小さく笑みを浮かべた。
「本当?」
「ええ。ですがその前に、着替えをどうぞ」
 二人が着替え終わり、小さなテーブルに付くと、津島は紅茶を出して言った。
「まあ、それでも飲みながら聞いてください。……実はですね、あなたたちが倒したのは、本物のゴキブリなんですよ」
「ぶはっ!」
 カップに口を付けていた二人は、紅茶を吐き出した。
「な、な、何ですってぇ〜っ!」
 真由美は怒りの形相になる。
「ま、真由美さん、押さえて押さえて」
 だが津島は平然と、
「聞く気がないのなら、もう話しませんよ」
「…………」
 真由美は黙るしかない。
 津島は続きを話した。
「一応ゴキブリが体に触れないように、全身を覆う服を渡したでしょう。その点は安全ですよ。それから両手の中指にはめた指輪。あれは特殊な超音波で脳に信号を送り、幻を見せる装置なのですが、まだ完成はしていないものでしてね。奥の部屋に組み込んである装置と合わせて使いました。要するにあなたたちは、あの部屋に入ると催眠状態になってゴキブリを倒していたわけです。蠅叩きでね」
「……何のためにそんなことしたわけ?」
 真由美が眉をひそめて訊ねる。
「その幻を見せる装置の実験です。目的まではさすがに言えませんが……」
「やっぱり怪しい組織だろう?」
 と康弘。
「秘密です」
 津島は答えない。
「じゃあ、その実験にあたしたちを選んだ理由は? 後遺症はないんでしょうね?」
「絶対ありませんから、安心していいですよ。選んだ理由は……別に誰でもよかったんですよ。丁度あなたたちが暇そうだったものでね」 津島は二つの封筒を取り出した。
「今日までの協力費です。確かめたら帰ってください」
 中を見ると、約束通り五万円あった。
「……これはどーも。お金ももらえたし、色々と楽しませてもらったけど……」
 封筒をしまいながら、真由美は立ち上がった。
「やっぱりむかつくのよねっ!」
 真由美は津島の顔を殴った。
「なっ……何をするんです!? 説明もしたし、お金も出したでしょう!?」
「それはそれ。これはこれ。三井くんもやっちゃって!」
「はいっ!」
 と、二人は気のすむまで津島を殴り続けたのだった。

 それから二人はすっきりして外に出た。
「真由美さん……結局あれは何の目的があったんでしょうね?」
「さあね……。彼も口を割らなかったし……」
 彼女の最初の予想では、新しいゲームのモニターをさせられてると思っていたのだが……。
「たぶん、軍事利用でしょうね」
「ええっ? じゃあ、警察に言いましょうか!?」
「無駄でしょ。あたしたちが言ったところで信じないだろうし、おそらくは政府公認ね」
「そっか……。だからあいつも話したのか」
「それだって嘘かもしれないけどね」
 真実は闇の中だ。
「真由美さん、ちょっと戻ってみましょうか?」
「えっ?」
「僕たちが帰ったから、何か動きがあるかもしれませんよ」
「そうね……。行ってみましょう」
 二人は津島の店に戻ることにした。

 しかし、店の前では数人の警官が出入りして、立ち入りを禁止していた。
「……どういうこと……?」
 真由美が訊いてみたが、警官は「君達に関係はない」と、取り合ってくれない。逆に、「それとも中の者の関係者か」と訊かれてしまった。
 彼女は慌てて否定し、康弘とその場を離れた。
「どうして違うと言ったんです?」
「何が起きたかは知らないけど、関わらない方がいいって勘が告げたのよ。何か雰囲気がやばそうだったでしょ?」
「まあ、たしかに……」
「きっと後片付けでもしてたのね……」
「なるほど……」
「もう帰りましょう。じゃあね」
 真由美は手を振って走り出した。
「えっ、あっ、真由美さん?」
「バイバ〜イ」
 彼女は素早く去って行った。
「ま、真由美さん……。交際申し込もうと思ったのに……。まあ、後で電話することにしよう」
 康弘は決意し、駅に歩き出した。

 その日の夜。
 真由美の家に電話をし、交際の申し込みをしたのだが……。
「え……? い、今何と……?」
『だからね、隠してたけど、あたし彼女がいるのよ。そんなわけで、あなたとはお付き合いできないの』
「……そ、そんな……嘘でしょ?」
『ごめんねー。誰にも言わないでねー。じゃあねー』
 電話は切れた。
「…………」
 康弘は呆然としていた。
 今のは一体何だったのだろう。
「……え〜……え〜と……つまり……。真由美さんには彼氏ではなく彼女がいるということで……。それが嘘だろうが本当だろうが、結局僕はふられたことになるわけで……」
 冷静に分析してみて、事態が飲み込めた。
「だあーっ! ふられたのかーっ!」
 康弘は頭を抱えて絶叫した。
「い、いや、待てよ。急に言われて彼女は照れていたのかも……。そうだ、そうにちがいない!」
 勝手に思い込み、康弘はまた明日から頑張ることにした。

 それから康弘は、懲りずに真由美に交際を申し込んだが、断られ続けている。
 ちなみに津島やあの装置に関しては、何もわからなかった。
 新聞にもテレビにも、いつまでたっても何も出ないのだ。
 だからこのことに関しては、二人だけの共通の話題になっている。
 そしてあの出来事を経て。
「真由美さーんっ!」
「しつこいわねっ!」
 そこには殴るのが快感になっている真由美と、殴られるのが快感になっている康弘がいるのだった。

   終

 

 
 
戻る