これは夢だろうか。
 どこまでも、どこまでも真っ白な空間。
 奇妙な浮遊感がある、不思議な世界だ。
 それにしては意識が随分はっきりしている。
 何だろう、ここは。
 よくわからないが、何だかいい気分だ。
 ふいに、目の前に周りとは対称的な黒い影が発生し、人の形を作った。
「え……?」
 影は男の声で、僕に向かって言った。
「私は神だ。お前の命は後三日だということを伝えにきた。悔いのないように過ごせ。そのとき迎えに来るからな」
 そして影は消えた。
 僕がその言葉を理解できないでいると、急に体が落下した。
 見覚えのある天井が見える。
「…………」
 しばらく呆然とした後、ここが自分の部屋だとわかった。
 僕は夢から覚めたことに気が付いた。
「お前の命は後三日だ」
 半身を起こした僕に、夢で聞いた声がはっきりと聞こえてきた。
 どきっとして周りを見ても誰もいないし、耳を澄ませてももう何も聞こえない。
「…………」
 僕は不安に駆られたまま、起き上がった。
 食事と着替えを済ませ、僕は外に出かけることにした。
 特に予定があるわけではない。
 何となく、外の空気を吸おうと思ったのだ。「後三日か……」
 先程聞いたあの声が気になる。もちろん言葉の内容もだ。
 別に神というのを信じているわけではないが、しかしあれは……僕の命が後三日というのは、どういうことなのか。
 本当に神が僕に告げに来たのか。
 正月明けた早々、死を告げられる人なんて、結構珍しいかもしれない。
 ともかく、家を出て玄関の鍵をかけ終えたとき。
 電話が鳴った。
 無視しようかとも思ったが、友人からかもしれないので、鍵を開けて中に入り、受話器を受け取る。
「もしもし」
『あ、俺、三井だけど』
 予想通り、相手は友人だった。
 少し話して、僕は彼と会うことになった。 特別な用があるというわけではなく、いつものように、貸してほしいと頼まれた音楽テープを渡したり、趣味に関することを話すのだ。
 電話を切り、再び家の鍵をかけて、僕は自転車に乗った。
 待ち合わせは、いつものように駅前の大きな本屋だ。
 自転車を走らせながら、僕は先程の不思議な声のことを思い出した。
「三日で死ぬ、か……。とりあえず三井に話してみるかな」
 別に相談というわけではなく、あくまで面白そうな話題の提供のつもりだった。
 そして本屋に着き、自転車置き場で、三井に夢の話をしてみた。
「ふ〜ん……、それじゃあ、いいことしないと」
「いいこと?」
「そうそう。死ぬまでにたくさんいいことしておけば、今までのこと帳消しにして、天国に行けるかもしれないだろ」
「……今まで、そんな悪いことをした覚えはないが……」
「いやいや、君は結構しているよ」
「…………」
 本気なのかどうか知らないが、とにかく彼はそう言った。
 多分、信じてはいないだろう。
 何しろ、僕自身も信じられないのだから、それを他人に信じさせるなんて無理な話である。
「いいこと、ねえ……」
 僕は腕を組んで考えた。
「あそこで献血やってるから、行ってくれば?」
 と三井が駅前の道路を指した。
 車の側にテントが立てられ、拡声器で協力を呼び掛けている。
「……悪いけど、注射は大嫌いなんだ」
「いけないなあ、そんなことじゃ」
「ま、いいことするにしても、もっと他のことにしよう」
「ふ〜む……」
 二人で考えた。
 そのすぐ前で、タバコを投げ捨てた人がいた。しかも火も消していない。
「最近……でもないが、よく見るな。タバコの火消さないで投げ捨てるのを」
「じゃ、注意すれば?」
「したところでやめるとは思えないが……」
「まあな……」
「…………」
「…………」
 会話がとぎれた。
「さて……これからどうするかな」
 と呟き、ふと道路を見ると、一人の少女が何やら慌てて走ってきた。
「わ、ちょっと」
 彼女は僕の方へやって来て、正面からぶつかってしまった。
「す、すいません」
 と謝って、少女はまた駆け出し、道路に飛び出す。
 だが彼女は車の確認をしなかったので、トラックが迫っているのに気付くのが遅れてしまった。
「危ないっ」
 僕は思わず走って手を伸ばし、彼女の腕をつかんで引き戻した。
 トラックとは紙一重で、何とか接触は避けられた。
 運転手は一端トラックを止めたが、無事だとわかると走り出した。
 通行人たちも、また何事もなかったかのように歩き出す。
 僕は少女の腕を離すと、呆然としている彼女に言った。
「危ないじゃないか。急いでるのかもしれないけど、道路を渡るときは車が来ていないかよく見ないと」
「す、すいません」
 少女はか細い声で言い、僕を見た。
「え……?」
 と僕は驚いた。
 彼女はその頬に涙をこぼしている。
 今のに驚いたせいではなさそうだ。
 きっと悲しいことがあったのだろう。
「今度から、気を付けるんだよ」
 と言って、僕は少女と別れようとした。
「は、はい……」
 彼女も涙を拭き、行こうする。
 しかしそのとき。
 急に体が浮くような感覚が僕を襲った。
 驚いている暇もなく、一瞬の後、辺りは真っ白な空間になっていた。
「これは……夢と同じ……」
 いや、少し違う。
 僕の隣に、少女がいたのだ。
 彼女は不安そうに僕を見たが、しかし、僕には何もしてやることができない。
 そんな僕と少女の前に、夢と同じ、人影が現れた。
 本当に、これは神だというのか。
「その通り、私は神だ」
 と影が言った。
「その娘を助けてくれたこと、感謝する。今死なれては困るからな」
「え……?」
「その娘、お前と同じようにもうすぐ死ぬと告げたら、急に走り出してしまった。お前は信じようとしないのに、えらい違いだな」
「えっ……じゃあ、この人ももうすぐ死ぬんですか?」
 と少女が驚いて僕を見た。
「ああ。お前は後三年だが、この男は後三日だ」
 と影が答えた。
「そんな……たったの三日だなんて……」
「とにかく、そういうわけだ。二人とも残り少ない命、大切にしろ」
 そう言うと、影は消えてしまった。
 そして僕と少女は、白い空間から落下した。
「お、おい、どうした。急にぼうっとしちゃって」
 三井が僕の肩を揺すった。
「いや……ちょっとな、神様と話してた」
「は?」
「やっぱり……僕の命は後三日らしいな」
 それでもあまり実感はわかないが。
「よ、よくわからん」
 と三井は首を振る。
「あ、あの……」
 少女が話しかけてきた。
「さっきは、どうもありがとうございました。おかげで助かりました」
「ああ。今度から気を付けるんだよ」
「はい。それで、その……」
「ん?」
「あたし、山川柚流といいます。もし、よかったらでいいんですけど……少し時間をくれませんか。あなたとお話がしたいんです」
「お話、ねえ……」
 何を話したいのかは大体予想は付くが、まあ、相手はかわいい女の子だ。
「構わないけど」
「本当ですか?」
「ああ。でもどうせならデートしない? 明日にでもゆっくりと」
 半分冗談のつもりで、僕は誘ってみた。
「デ、デート、ですか?」
 さすがに面食らったらしい。
 いきなり何を言い出すんだ、とか思っているかもしれない。
 僕が黙っていると、彼女は少し考えてから、
「……そうですね。今日はあたしもまだ予定がありますし……いいですよ」
「そう?」
 少し意外だったが、それならそれでいい。
「それじゃあ……」
 と僕は彼女と話し、待ち合わせ場所と時間を決めた。
「あ、それから一応聞いておくけど、君何歳? 僕は十九だけど」
「十五です。高校一年生。別に釣り合わない年齢じゃありませんよね」
 と小さく微笑む。
「ははは、大丈夫。デートといっても、別に手を出したりしないから」
「でも、一応覚悟はしておきますね。明日、楽しみにしています」
 そう言って、彼女は来た道を戻り始めた。
 その後ろ姿を見て、僕は三井に言った。
「いい子だね。かわいいし、礼儀正しいし、冗談もわかるし」
「お、おいおい、ちょっと待てっ。どうしていきなりデートすることになるんだよ?」
 彼は混乱してわめいた。
「あんな会って一分も立っていない子を、普通誘うか? しかも相手は十五歳で、何故かOKもらうし……」
「はははは……。まあ、たまにはデートでもしようかと思って。僕の命も後三日なんだし、こういう展開があっても悪くないと思うけど」「う、う〜ん……」
 と三井は首をひねる。
「それに、話がしたいって言って誘ってきたのは彼女の方からなんだし」
「な、謎だ」
「世の中謎があるから面白いんだよ」
 と僕は言った。

 その日の夜。
 三井から電話がかかってきた。
『天気予報見たか? 明日雨らしいぞ』
「そうらしいね。降水確率八十パーセントだってさ」
『行くのか、デート』
「約束したんだから、もちろん行くけど」
『ふ〜ん……』
「うらやましい?」
『いや、別に……』
「そう。ま、それはともかく、僕は明後日までの命らしいから、もうすぐお別れだね」
『なあ……それって、本気で言ってる?』
「まあね。自分でもあまり自信ないけど……」
『神様ってのはどんなだった?』
「真っ黒だった」
『何だそりゃ』
「さあ?」
『ふぅむ……。しかし、死ぬと言われてもなあ……』
「よくわかんないよなあ……」
『困ったね』
「困ったよ。ま、死んだらそのときだし、一応覚悟はしといてね」
『……嫌な覚悟だな』
「ははは、じゃあそろそろ切るよ」
『あ、ああ。じゃ』
 電話を切り、僕は早めに寝ようと布団の用意をした。
 ふと、窓から外を見てみる。
 道路が濡れていた。
「何だ、もう降ってるのか」
 明日までにやんでくれないかな、と思いながら、僕は目覚し時計をセットし、眠りに付いた。

 目が覚めたとき、雨の音が聞こえていた。
「やっぱりまだ降ってるのか……」
 呟き、まだ鳴っていない目覚まし時計を止めた。セットした一分前に起きたのである。
「雨のデートも、まあ悪くないかな」
 僕は起き上がり、出かける準備を始めた。 寒いので、しっかりと防寒具を着込む。
 そして傘を持ち、自転車で駅に向かう。
 多少雨が体に当たるが、小降りなのでたいしたことはない。
 駅に着くと、近くの駐輪場に自転車を置き、切符を買って電車に乗る。
 乗客は結構いるが、席はあいているので、僕はそこに座った。
「さて……」
 デートすると約束はしたものの、実はどこへ行くかは全く決めていない。
 とりあえず大きな駅で会って、それから考えようということになったのだ。
 だから、僕は本当に考えていない。
 相手任せというつもりではないが、その場で何とかなるだろうと思っている。
 僕は窓の外を見た。
「雨が強くなってきたな……」
 やがて目的の駅に着き、待ち合わせ場所に向かう。
 時間通りのはずだが、彼女はまだ来ていないので、仕方なくそこで待つことにする。
 そのまま三十分が過ぎた。
 少し心配になってくる。
 事故にあったのかとか、単に寝坊したのかとか色々理由は考えたが、どっちにしろ僕は待つしかない。
 待つのは嫌いだが、いつ来るかわからないので、この場を動くわけにはいかない。
「やれやれ……」
 と小さくため息を付く。
 ふと、こちらに小走りでやって来る少女に気が付いた。
 ようやく到着したようだ。
 まあ、とりあえずこれで一安心だが。
「ご、ごめんなさい」
 と山川柚流が頭を下げる。
「どうして遅れたの?」
「そ、その、電車が混んでて……」
「……え?」
 電車が混んでても遅れないと思うが……。
「…………」
 一瞬の沈黙の後、僕は言った。
「寝坊かい?」
「は、はい……」
 と彼女は申し訳なさそうに頷いた。
「昨日、なかなか寝られなくて……」
「まあ、いいよ。走って疲れたようだし、とりあえずそこの喫茶店にでも入ろうか」
「は、はい」
 僕たちはすぐ側に見える喫茶店に入った。
 二人ともコーヒーを頼み、そして向かい合って話し始める。
「あ、あの……ごめんなさい」
 いきなり柚流が謝った。
「え?」
「貴重な時間だって、あたし知ってるのに、お話したいだなんて言って、何だか誘わせたみたいで……。あつかましい奴って思ってますよね……」
「まあ……少しはね」
 と僕は答えた。
「す、すいません……」
「いや、嘘々。謝らなくていいよ。貴重な時間と言っても、別にすることはないんだ。君みたいなかわいい子とデートできて、ラッキーだよ」
「……本当なら、嬉しいですけど……」
「本当だって。それより、話したいことがあるなら話してみて」
 とコーヒーを一口飲み、言った。
「はい」
 と彼女もコーヒーを飲み、話す。
「あたしが後三年の命だっていうことは知っていますよね?」
「ああ、そうらしいね」
「……それを聞いたのは、昨日のことなんです。あたし、入院した友達のお見舞いに行っていたんですけど、そこで突然神様が現れて……。そのときは友達のことなのかと思ったんです。でもそうじゃなくて、あたしの方だって。もう頭の中が混乱して……」
「それで、思わず病院から飛び出したわけか」
「は、はい……」
「……しかし……あそこから病院って、結構な距離があるけど……」
「あたし陸上部なんです。これでも速い方なんですよ」
「そういう問題じゃないと思うけど……」
 と僕は苦笑した。
「しかし、後三年か……。僕も、言われたのは昨日だったけどなあ」
「え? そうなんですか?」
「うん。まあ僕の場合、心の準備にそう時間がかからないと思われたんじゃないかな」
「……怖くないんですか?」
「柚流ちゃんは?」
 側を通ったウエイトレスにおかわりを頼み、僕は聞き返した。
「あたしは……怖いです。すごく怖い……。だって、待っているのは確実な死でしょ……」
 彼女はうつむいて言った。
「まあね……」
「あたし、色々考えちゃって……。どうして生きているんだろうとか、どうして死ぬんだろうとか……。だったら最初から生まれてこなければよかったのにとか……」
「……なるほど」
 確実な死を前にして、自分の存在理由に疑問を覚えたわけか。
 誰もが一度は考えることだ。
「でも、そんなこと考えても仕方がないですよね」
「え……?」
「死が避けられないのなら、自分の人生に満足できるように生きたいですし」
「……何だ、わかってるじゃない」
 二杯目のコーヒーを飲み、僕は微笑んで言った。
「わざわざ相談する必要なんてなかったと思うけど」
「そんなことないですよ。頭ではそう思ってても、やっぱり怖いですから」
「ふぅん……。僕の場合はね、まだ死ぬって言われたことにも半信半疑なんだ。何だか実感わかなくてね」
「でも……やっぱりあれは本物の神様だと思いますけど」
「……そうだね」
 あれは現実感がありすぎた。
「神様が言うんだから、たぶん、本当に死ぬんだろうね」
「随分、あっさり受け入れるんですね」
「僕だって死ぬのは嫌だよ。でもそれが逃れられないなら、明日まで……か。別に特別なことがしたいわけじゃないし、自分の好きなようにして過ごそうと思ってるよ」
「……好きなように……ですか。それも悪くないですね」
「そうそう、考え方次第さ。短くても、満足できる人生なら文句はないし。柚流ちゃんはまだ三年あるんだから、今までやりたかったことやできなかったこと、いろいろ挑戦してみるといいよ」
「……そう、ですね」
 と彼女は複雑な顔で頷く。
「……僕は大丈夫だよ。これでも結構満足してるから」
「本当ですか?」
「ああ。柚流ちゃんとこうしてデートもできたしね」
「そんなこと言って……デートはまだこれからじゃないですか」
「……それもそうだ」
 そう言って、僕は窓の外に目をやった。
 雨が降り続いており、やむ様子はない。
「柚流ちゃん、そろそろ出ようか?」
「あ……はい」
 と立ち上がりかけた彼女に、僕は座ったまま言った。
「コーヒー、まだ残ってるけど飲まないの?」
「あ、そうですね」
 彼女は少しぬるくなったコーヒーを、すぐに飲み終えた。
 それから店を出て、僕は尋ねた。
「さて、これからどうしようか? まだ雨は降ってるし、話も終わったし……帰るかい?」
「せっかく来たのに、帰ってどうするんですか」
「あ、ごめん、冗談だよ」
「あたしといるの、嫌ですか?」
「そうじゃなくて、そういう選択肢もあるってだけ。本気じゃないからさ」
 と言いながら、また悪い癖が出たな、と思った。余計な一言のおかげで、今までによく誤解されたものだ。
「……別に予定があるわけじゃないんですね?」
「うん、ないよ」
「じゃあ、もう少し一緒にいてもいいですよね?」
「……君がいいならいいよ。外は雨だけど、散歩でもしようか」
「はい」
 僕たちは駅を出て、辺りを適当に歩き回った。途中、ボーリング場を見つけたので、そこで遊んでから別れて帰った。

『デートはどうだった?』
 とその日の電話で、三井が言った。
「結構楽しかったよ」
『ふ〜ん……それはよかった』
「色々と相談を聞いたりしたしね……」
『相談?』
「ああ。君にはまだ話してなかったけど、彼女は後三年の命なんだ」
『後三年? それってもしかして……』
「そう。神様に言われたらしい。それをお互い知ったのは、昨日本屋の前でぶつかったときで、あのときまた神様が現れたんだ。助けてくれてありがとうって、わざわざお礼を言いに」
『……何か、本気なのか冗談なのか、わからなくなってきた……』
「別にどっちでもいいけどさ。それより、いよいよ明日らしいぞ、僕が死ぬのは。どうする?」
『いや、どうすると言われても……』
「まあ、困るだろうね。……そうだ、明日は一緒にいようか。僕の死に目が見れるかもしれないぞ」
『い、いや、別に見たくないけど……』
「まあまあ、気にせずに」
『気にするって。……いや、いいんだけどさ。しかし、明日死ぬかもしれないってのに、君は随分明るいな』
「うーん、実は結構どきどきしてる。まあ、死ななきゃラッキーってとこかな」
『おいおい……』
 ともかく、明日会うことにして、僕たちは電話を切った。

「ふう……」
 と、布団の中で息を付く。
「雨もやんだし、明日は晴れか……。まあ、暖かくなるらしいから、よかったかな」
 寒い中で死ぬのは遠慮したいところだ。
「……それにしても、僕が死んだら親は泣くだろうな……」
 親より先に死ぬ者は地獄に落ちると聞いたことがあるが……。
「地獄は嫌だなあ……。本当だったら神様に文句言おうかな……」
 こんなこと考えている僕は、呑気なのだろうか。
 ともかく、僕は最後になるかもしれない眠りに付いた。

 翌日の昼。三井と電話して彼の家に行き、しばらくテレビゲームで遊んでいた。
「しっかし、こんなことしてていいわけ?」
 と三井が言った。
「何で?」
「だって、今日死ぬかもしれないんだろ?」「う〜ん、死ぬのは嫌だなあ……」
「まあ、本当に死ぬのかはわからないけどさ、一応心の準備でもしておけば? やり残したこととかないわけ?」
「どうだい? 僕と一緒にあの世へ旅行に行くというのは」
「その旅行というのは……二度と帰ってこられないんじゃないのか?」
「おお、よくわかったね」
「俺は遠慮する」
「それは残念」
「いや、真面目にさ、どうする?」
「そうだな……外に出ようか」
「外に? 危ないんじゃ?」
「場所は関係ないでしょ。それに、家の中で死ぬといったら、どこかに頭ぶつけて打ち所悪くて……くらいしか思いつかないけど。それって間抜けだし」
「……いいけどね、別に」
 ということで、僕と三井は外に出た。

 辺りが暗くなってきた。
「五時か……」
 僕は腕時計を見た。
「後七時間以内だな、僕が死ぬのは。さすがにちょっとどきどきしてきた」
「家にいた方が安全だと思うけどなあ……」
 と三井。
 僕たちはいつものように、駅前の本屋の前で立ち話をしていた。
「どこだって同じさ」
「ところで、君はどうやって死ぬんだ?」
「さて……どうやって死ぬんだろう。予想してみてよ」
「う〜ん、予想不可能」
「死体は綺麗なままがいいなあ」
「まあ、俺もぐちゃぐちゃなのは見たくないけど」
「三井は、自分が死ぬとしたらどういう風に死にたい?」
「い、嫌な質問だな。俺は死にたくないから答えない」
「ふぅむ……。どうせなら、人助けでもした方がいいな。ただ死ぬよりはましだろ?」
「自分が死ぬのに、他人のことまで考えられないけどね」
「まあ、そう言わずに」
「それよりさ、こんな会話してるけど、死なないかもしれないんだろ?」
「だといいけどね」
 ただの夢ならよかったのだが、柚流という同じ境遇の少女もいることだし、その可能性ははっきりいってないと思う。
「……死ぬのは嫌だなあ」
 僕は呟いた。
「だったら神様にそう言ってやめてもらうっていうのは?」
「……それで済むなら、誰も死なないと思うけど」
「ま、そりゃそーだ」
「…………」
「…………」
 二人とも、しばらく無言になった。
「……ん?」
 ふと僕は、前方からやってくる人々の中に、見覚えのある顔があることに気付いた。
「柚流ちゃん」
 僕は声をかけた。
「あ……」
 彼女は立ち止まり、大きく目を見開いた。
「よかった、まだ生きてたんですねっ」
 と嬉しそうに笑顔を向ける。
「う、う〜ん、柚流ちゃん、その表現はちょっと……」
「あ、すいません。生きてたなんて、失礼ですよね」
「ははは……いいけどね。それにしても偶然だなあ。また友達のお見舞い?」
「あ、いえ……ちょっとお散歩です。昨日デートした人が今日死ぬかもしれないなんて考えると、怖くなって……気分を紛らわそうかと……」
「なるほどね。でも……」
 と僕が言うより早く、三井が言った。
「君、帰った方がいいよ」
「え……?」
「彼がどうなるのかはわからないが、本当に死ぬとしたら、そんな場面を君には見られたくないはずだ」
「…………」
 彼女は目を見開き、呆然としている。
「み、三井くん……」
 僕はわざとらしく驚いて言った。
「君って意外と気の利く奴だったのか。知らなかった……」
「あのなあ……」
「まあ、とにかくそういうわけ」
 と僕はうつむいている彼女に言った。
「やっぱり死ぬところなんて見られたくないしね……」
「そ、そうですよね……。すいません……」
「もし運よく生きていて、町で君を見かけても、声はかけないよ。いいだろ?」
 僕の生死を知らない方が、彼女も希望を持てるに違いない。
「は、はい……」
 彼女は涙目で僕を見上げた。
「あの……あたし、これから色々なことに頑張ります。どうせ死ぬと思えば何だってできますよね」
「ああ。頑張れよ」
「どうも、ありがとうございました」
 山川柚流は頭を下げ、僕の前を通り抜けていった。その彼女から、封筒が落ちた。
「あ、おい、落としたよ」
 呼び掛けるが、聞こえていないようだ。
「仕方ないな……」
 僕はそれを拾った。
 封筒が透けて、お金が入っているのがわかる。金額からして、おそらくアルバイトの日給とか、そんなところだろう。
「渡してくるよ」
 と三井に言って、僕は走った。
 幸い、彼女は道路の信号待ちをしている。 すぐに追いつき、肩を叩いて声をかけようとしたときだった。
「危ないっ」
 と彼女が叫んだ。
 小さな道路で、車の通りが少なかったせいだろう。
 男の子が渡ろうとしたが、途中で転んでしまった。
 やってくる車も、反応が遅れた。
 慌ててブレーキをかけるが、間に合わない。 これでは間違いなくぶつかってしまう。
 飛び出そうとする柚流を、僕は片手を出して制した。
「え?」
 一瞬迷ったが、これは彼女にやらせるわけにはいかない。
 この距離なら、何とか助けられるはず。
 僕は飛び出していた。
 車に驚いて硬直する男の子を、僕は腕に抱き抱える。しかし車のフロントが、避けられない距離にまで迫っていた。
「くっ……」
 咄嗟に体を丸め、背中を向けた。
 どん、という音がして、背中に激しい衝撃が走る。
 瞬間、意識が吹き飛んだ。

「おい、しっかりしろっ」
「死なないでっ」
 三井と柚流の、慌てた声が聞こえる。
 何だかやけに騒がしい。
「おや?」
 目を開けると、たくさんの人が僕の顔を覗き込んでいた。
「お、おい、大丈夫なのか?」
「今救急車を呼んでますからっ。もう少しの辛抱ですっ」
「んー……」
 頭の中を整理してみる。
 どうも、意識を失って一分も立っていないようだ。
「子供は……?」
「あ、ああ。何とか無事だったよ」
「それはよかった」
 助けにいった甲斐があったというものだ。
「あ……あれ? 何か、また意識が遠くにいきそうになってきた……」
「おい、こんなときに冗談やめろよ」
「いや……」
 これは冗談ではない。
「こんなときに冗談やったら、たちが悪すぎるって……。それに、何か体の力が抜けていくような……や、やばいかも」
 僕は力なく笑った。
「しっかりしろよっ」
 三井が怒鳴る。
「死んじゃやだ……」
 と柚流が涙声で言う。
「あ、柚流ちゃん、さっき封筒落としたでしょ。拾っておいたけど、あれ、どこいったかな……」
 子供を助けるときに落としたらしい。
「俺が拾っておいたよ……」
 と三井が彼女に渡す。
「そんな……あたしが落としたから……」
「君のせいじゃないって。あ、今のうちに言っておくけど……柚流ちゃん、あんまり落ち込まないで頑張ってね。あとついでに三井、君も適当に頑張れ」
「……俺はついでで適当かよ……」
「そんな……勝手ですよ」
「んー……ごめんね。いやあ、そろそろだめだとわかってても、結構話せるもんだ」
「そんな、妙なところで感心してないでください。あ、ほら、救急車来ましたよ」
 柚流の言う通り、サイレンの音が聞こえる。
「……せっかくだけど、無駄足だったね」
「何で、そういうこと言うんですかっ。あたしには頑張れって言っておいてっ」
「……だって、ほら」
 と僕は上を差した。
「もう神様が迎えに来ているし」
「え……嘘、あたしには見えません」
「そっか……。どうやら、今回は僕だけに見えるらしい……」
 僕は目を閉じた。
「元気でな……」
「そんな……やめて、神様っ。連れていかないでっ」
「目を開けろよっ、おいっ」
 大声を上げる柚流と三井。
 だが、そんな声も遠くなっていき、やがて聞こえなくなった。

 白い空間に、僕は浮いていた。
 目の前には、影を取り払った神様がいる。 いかにも神様、といった姿だ。
「はあ……やっぱり本当だったのか……」
「死んでから信じたのか?」
「すいませんね、疑り深くて」
 と僕は苦笑し、大きなため息を付いた。
「はあ……、あのとき僕が助けなかったら子供が死んでたろうし、世の中うまくいかないもんですね……。どちらにしても悲しむ人がいる……」
「…………」
「ところで、僕は天国と地獄、どっちに行くんでしょう?」
「ここでは決められん。行くぞ」
「はい」
 神様は白い空間を消し、僕をあの世へ連れて行った。
 
  終


 
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